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八歳年下の「かなたん」は、気が弱くて、いつもメソメソ泣いてばかりいる男の子だった。
「日和ー、かなたんが来たよー」
「はぁい。今行くー」
自分の部屋にランドセルをおろして、狭い階段をとんとんっと駆け下りる。
居間の真ん中に置かれた小さな卓袱台に、向かい合って座る、母とその友人の恵さん。そして恵さんに寄り添うように座っている、四歳の「かなたん」。
「日和ちゃん、いつも悪いわね」
「ううん」
わたしは恵さんに首を振って、のぞきこむようにかなたんを見る。かなたんはちらりとわたしを見上げた後、恥ずかしそうにうつむいてしまった。
母と恵さんは高校時代からの親友で、二人ともシングルマザー。
かなたんのお父さんは、かなたんが二歳の時に病気で亡くなってしまって、わたしの母は、わたしを産んですぐに離婚した。
だからわたしもかなたんも、お父さんの顔を覚えていない。
そのあと母は二度目の結婚をしたけれど、結局それも上手くいかず、今はわたしと二人で暮らしている。
「かなたん、今日も泊まっていくんでしょ?」
「ええ。おばさん、朝まで仕事だから」
「じゃあ、かなたん。ひよちゃんと一緒に寝よう?」
恵さんの陰から、かなたんがもう一度わたしのことを見た。
朝も夜もたくさんお仕事をしている恵さんは、時々うちに、かなたんを連れてくる。そんな日は、翌日の朝まで、わたしがかなたんの「お母さん」代わりなのだ。
「かなたん。公園でも行く?」
かなたんは首を横に振る。
「じゃあ……お部屋で遊ぶ?」
今度はこくんと、首を縦に振ったかなたん。
「じゃあ、おいで。わたしの部屋でお絵かきしよう」
わたしがそう言って手を差し出すと、かなたんはあったかくて小さな手を、わたしの上にちょこんとのせてきた。
「日和ちゃん、ありがとうね」
「あとでおやつ持って行くから」
「はぁい」
母と恵さんの声を聞きながら、かなたんの手をぎゅっと握る。
「おいで。かなたん」
「……うん」
弱々しい声でそう答えて、かなたんはわたしの手を、同じようにぎゅっと握り返した。
小さくて頼りないかなたんは、きょうだいのいないわたしにとって、本当の弟のような存在だった。
外で遊ぶのが嫌いで、他の男の子のように暴れまわったり、戦いごっこなんてしなかったかなたん。わたしの部屋で、おとなしくお絵かきをしていることが多かった。
「何描いてるの?」
クレヨンを握りしめて、黙々と絵を描き続けているかなたんに聞く。
「ウサギ」
「ウサギ?」
顔を上げたかなたんが、小さな人差し指でわたしのことを指す。
「ひよちゃんの髪の毛、ウサギさんみたい」
その頃のわたしは、いつも髪を高い位置で二つに結んでいたから、かなたんにはそう見えたのかもしれない。かなたんの描くウサギの絵は、いつも耳がたらんと垂れたウサギだ。
「じょうずだね」
わたしが言うと、かなたんは恥ずかしそうにちょっとだけ笑った。
「日和っ! 起きろっ」
背中に何かがぶつかって、わたしは懐かしい夢から覚めた。
ごろんと転がって目を開けると、奏多がわたしのことを見下ろして言う。
「昼飯は?」
ああ、もうそんな時間か……壁にかかった古い柱時計は、お昼の十二時を回っている。
「ていうか、あんた今、わたしのこと蹴飛ばさなかった?」
「そんなところで、トドみたいに転がってるのが悪いんだろ? なぁ、おれの飯は?」
トドって……それはないでしょう?
「今、作るよ……」
畳の上に起き上がる。縁側から差し込む日差しがあたたかくて、ついうたた寝しちゃったんだ。
最近仕事が忙しかったし、家のこともいろいろやんなきゃって、わかってるんだけど。
「やっぱ、いい」
「え?」
「今日はおれが作る。お前はのん気に昼寝でもしてろ」
そう言って、部屋から出て行く奏多の背中をぼんやりと見送る。そして、畳の上でうたた寝していたわたしに、いつの間にか毛布がかけられていたことに、今気づいた。
「奏多が怖がりで臆病なのは、男親がいないせいかしらね」
いつか、うちに来た恵さんが、母にそんなことを話していたのを聞いたことがある。
だけど母は、いつものように明るく笑って言った。
「大丈夫、大丈夫。怖がりで臆病だっていいじゃない。かなたん、大きくなったら、誰よりも優しい男の子になると思うよ?」
母の言葉を思い出しながら、お日様の光をいっぱい浴びた毛布を、頬にすり寄せる。
「日和ー、残りご飯あるから、チャーハンでいいよな?」
「えー、またチャーハン?」
「うるさい。文句言うなら食うな」
台所から聞こえてくるのは、弱々しかったはずの「かなたん」の声。それと同時に、とんとんっと野菜を刻む音が始まる。
もう一度だけ、あの可愛い声で「ひよちゃん」って呼んでくれないかな。
クレヨンでウサギの絵を描いて、恥ずかしそうに笑ってくれないかな。
……なんて、ありえないか。
毛布を頭からかぶり、もう一度、畳の上に横になる。
日曜日の昼下がり。春の陽だまりはぽかぽかとあたたかくて、やがて野菜を炒める香ばしい香りが、台所から漂ってきた。