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 その日は月末で忙しく、綾子さんも事務所に来なかったため、帰りがずいぶん遅くなった。

 わたしはいつものようにバスから降り、バス停からの道を誰もいない家へ向かって歩く。

 その時ふと、後ろから近づいてくる足音に気がついた。

 まただ。昨日も一昨日も、異様な気配を感じていた。気のせいだろうって、自分で自分に思い込ませようとしていたけれど……。

 歩くペースを上げ、急いで家へ向かう。けれどその足音は、わたしと同じようにペースを上げ、一定の距離を置いてついてくる。

 バス停から家までは約五分。住宅街の中のその道は、家の灯りはあるものの、人通りは少ない。

 やがて見慣れた我が家が見えてきて、ほんの少しホッとした瞬間、わたしの腕が強い力で引き寄せられた。


「日和?」

 声も出せずに振り返る。ぼんやりとした街灯の下、わたしの腕をつかむ男の人の影。

「日和だろう?」

「だ、誰?」

 体が金縛りにあったように動けない。喉の奥が震えて、叫び声を上げたくても声が出ない。

 怯えきったわたしの前で、男の人が口元をゆるませてこう言った。

「おれだよ、おれ。忘れちゃったのか? 小さい頃おれのこと、『お父さん』って呼んでくれただろう?」

 一瞬意識が遠のきそうになる。忘れかけていた記憶が、頭の中にあふれ出す。

 ううん、違う。忘れかけてなんかいない。忘れよう、忘れようと思っても、どうしても忘れられなかった、二人目の父親の記憶だ。

 父親と名乗った男は、わたしにニヤリと笑いかけて言った。


「そんなに怖がらないでくれよ。少しの間とはいえ、一緒に暮らした仲だろ? ずっとお前のことを捜してたんだ」

 嫌、嫌なの、何も聞きたくない。わたしはあなたのこと、父親だなんて思っていない。

「もうひどいことはしないよ。悪かったと思ってる。だからなぁ、金貸してくれないか? 少しでいいんだ。親父を助けると思って」

「……いや、です」

「なんだって? お前の口は、いつからそんなことが言えるようになったんだ?」

 ごわごわした太い指で、頬を挟まれた。酒と煙草の混じり合ったような匂いに吐き気がして、わたしはその手を振り払い逃げ出した。

「おい、待て、日和! 逃げるなよ!」

 男の声と足音が近づいてくる。

 わたしは振り返ることなく、ただ家に向かって走った。


 震える手で玄関を開け、鍵をかける。真っ暗な階段を駆け上り、布団をかぶって部屋の隅にうずくまる。

 遠くでわたしを呼ぶ声が聞こえた気がした。玄関を叩いている音も聞こえる気がする。

 両手で耳を塞ぎ、固く目を閉じる。小さかった子どもの頃のように――。


「お母さん……お母さん」

 あの頃もこんなふうに、布団の中で何度も母のことを呼んだ。だけど母は仕事に出かけていて、家には父とわたしの二人きり。

 幼い頃、母が留守になると、父はわたしに近寄り、身体に触れてきた。

 怖くて、気持ちが悪くて、でも逃げると追いかけられて、痣がつくほど強く腕をつかまれた。

 二人だけの部屋の中、誰にも知られず、誰にも気づかれず……わたしは父の人形のようにされるがままだった。

 だけど母には、それを言えなくて……。

 だってこの人は、お母さんが好きになった人。お母さんといる時は、わたしにも優しくしてくれる。お母さんだって笑っている。

 だからわたしが我慢すればいいんだ。わたしさえ我慢すれば――。


「日和。逃げるなよ」

 父の足音が近づいてくる。わたしはどこへも逃げられない。ただ耳を塞いで、布団の中でうずくまるだけだ。

「日和!」

 かぶっていた布団をはがされた。腕をつかまれ引きずり出される。わたしは声にならない声で叫ぶ。

 誰か……誰か、たすけて――。

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