17
その日は月末で忙しく、綾子さんも事務所に来なかったため、帰りがずいぶん遅くなった。
わたしはいつものようにバスから降り、バス停からの道を誰もいない家へ向かって歩く。
その時ふと、後ろから近づいてくる足音に気がついた。
まただ。昨日も一昨日も、異様な気配を感じていた。気のせいだろうって、自分で自分に思い込ませようとしていたけれど……。
歩くペースを上げ、急いで家へ向かう。けれどその足音は、わたしと同じようにペースを上げ、一定の距離を置いてついてくる。
バス停から家までは約五分。住宅街の中のその道は、家の灯りはあるものの、人通りは少ない。
やがて見慣れた我が家が見えてきて、ほんの少しホッとした瞬間、わたしの腕が強い力で引き寄せられた。
「日和?」
声も出せずに振り返る。ぼんやりとした街灯の下、わたしの腕をつかむ男の人の影。
「日和だろう?」
「だ、誰?」
体が金縛りにあったように動けない。喉の奥が震えて、叫び声を上げたくても声が出ない。
怯えきったわたしの前で、男の人が口元をゆるませてこう言った。
「おれだよ、おれ。忘れちゃったのか? 小さい頃おれのこと、『お父さん』って呼んでくれただろう?」
一瞬意識が遠のきそうになる。忘れかけていた記憶が、頭の中にあふれ出す。
ううん、違う。忘れかけてなんかいない。忘れよう、忘れようと思っても、どうしても忘れられなかった、二人目の父親の記憶だ。
父親と名乗った男は、わたしにニヤリと笑いかけて言った。
「そんなに怖がらないでくれよ。少しの間とはいえ、一緒に暮らした仲だろ? ずっとお前のことを捜してたんだ」
嫌、嫌なの、何も聞きたくない。わたしはあなたのこと、父親だなんて思っていない。
「もうひどいことはしないよ。悪かったと思ってる。だからなぁ、金貸してくれないか? 少しでいいんだ。親父を助けると思って」
「……いや、です」
「なんだって? お前の口は、いつからそんなことが言えるようになったんだ?」
ごわごわした太い指で、頬を挟まれた。酒と煙草の混じり合ったような匂いに吐き気がして、わたしはその手を振り払い逃げ出した。
「おい、待て、日和! 逃げるなよ!」
男の声と足音が近づいてくる。
わたしは振り返ることなく、ただ家に向かって走った。
震える手で玄関を開け、鍵をかける。真っ暗な階段を駆け上り、布団をかぶって部屋の隅にうずくまる。
遠くでわたしを呼ぶ声が聞こえた気がした。玄関を叩いている音も聞こえる気がする。
両手で耳を塞ぎ、固く目を閉じる。小さかった子どもの頃のように――。
「お母さん……お母さん」
あの頃もこんなふうに、布団の中で何度も母のことを呼んだ。だけど母は仕事に出かけていて、家には父とわたしの二人きり。
幼い頃、母が留守になると、父はわたしに近寄り、身体に触れてきた。
怖くて、気持ちが悪くて、でも逃げると追いかけられて、痣がつくほど強く腕をつかまれた。
二人だけの部屋の中、誰にも知られず、誰にも気づかれず……わたしは父の人形のようにされるがままだった。
だけど母には、それを言えなくて……。
だってこの人は、お母さんが好きになった人。お母さんといる時は、わたしにも優しくしてくれる。お母さんだって笑っている。
だからわたしが我慢すればいいんだ。わたしさえ我慢すれば――。
「日和。逃げるなよ」
父の足音が近づいてくる。わたしはどこへも逃げられない。ただ耳を塞いで、布団の中でうずくまるだけだ。
「日和!」
かぶっていた布団をはがされた。腕をつかまれ引きずり出される。わたしは声にならない声で叫ぶ。
誰か……誰か、たすけて――。




