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「ああ、いいの、いいの。どうせ空き部屋なんだし、建物古すぎて入居者も決まらないし、そろそろ取り壊そうかとも思ってたところだから」
アパートを管理している『風子のおじいさん』って人は、同じ敷地内に住んでいる、背筋のぴんっとした元気なおじいさんだった。
「でも、お家賃はわたしから、ちゃんと払いますから」
「いらない、いらない。管理費二千円だけ、この子からもらうことにしてあるの。来年就職したら、正規の家賃払うっていうし。まぁそれまで、あの建物が壊れなきゃって話だけどね」
そう言って笑う、おじいさんの楽しげな笑い声を、わたしは奏多と並んで聞いていた。
「お姉さんから自立したいんだって? まぁ、どういう理由があるか知らないけど。帰りたくなったら、いつでも帰ったらいいさって言ってあるんだよ」
「何から何まですみません」
わたしがぺこりと頭を下げると、おじいさんはまた「いいって、いいって」と笑った。
「ああ、家具も家電も勝手に使っていいから。光熱費だけ自分で払ってね」
「ではお言葉に甘えさせていただきます。よろしくお願いします」
もう一度頭を下げたわたしの隣で、奏多も同じように頭を下げた。
奏多と一緒に、おじいさんの家を出る。外は少し薄暗くなっていた。
「あのおじいさん、すごくいい人みたいだね」
「うん」
立ち止って奏多のことを見る。だけど奏多は、やっぱりわたしを見ようとしない。
「バイト代だけでやっていけるの?」
「大丈夫。日和には迷惑かけないようにする」
迷惑だなんて、思ってないのに。
「何度も言うけど、学校はちゃんと行ってよ?」
「わかってる」
言葉が途切れ、沈黙が続く。家の窓や街灯に、少しずつ灯りが灯りはじめる。
「……じゃあ、わたしは帰るね」
幼い頃、公園から手をつないで歩いた、夕暮れの道。
スーパーの袋を一つずつぶら下げて、アイスを食べながら並んで帰った、夏の夜。
中学校で問題を起こして呼び出された日は、お互い口もきかずに、少し離れて歩いた。
いつだって、わたしたちは、おんなじ家に向かって。
だけど今日は違うんだ。わたしと奏多は今日、別々の家に帰る。
背中を向けて一歩を踏み出す。そんなわたしを奏多が呼んだ。
「……日和」
立ち止ったわたしに、奏多がつぶやく。
「声、いつもと違う。風邪、ひいた?」
その瞬間、胸の中から何かがあふれ出しそうになって、わたしは振り返らずに答える。
「大丈夫。もう治ったから」
わたしを見送る奏多がどんな顔をしていたか、わたしは知らない。
バス停へ続く道を一人で歩いた。生暖かい風を受けながら、泣き出しそうになるのを必死にこらえる。
もう戻れないのかな……。
春の陽だまりの中、うとうとしながら夢を見るような……そんな穏やかな二人の生活に、わたしたちは、もう戻れないのかな。
「奏多くんの、お姉さんですよね?」
突然背中に声がかかった。驚いて振り返ると、あの『風子ちゃん』が立っていた。
「あ、はい。そうです」
街灯の薄明りの下、制服姿の風子ちゃんがわたしに近づいてくる。
「あの、奏多がお世話になってしまって……」
「いえ……あたしは別に何も」
わたしの前で立ち止まった風子ちゃんは、そう言ってほんの少し微笑む。
可愛らしい子だな、と思った。ショートカットが、すごくよく似合ってる。
「これ、うちのお母さんが作った煮物なんですけど、奏多くんに持って行ってあげようかと思って」
風子ちゃんはまだ温かそうな容器を、わたしに見せる。
「え、そんなことまで、ご迷惑かけられません」
「迷惑だなんて思ってませんよ。奏多くん、喜んで食べてくれるし、うちのお母さんも、作り甲斐があるって喜んでるんです」
「そんな……」
煮物の入った容器を胸に抱えると、風子ちゃんはふっと笑って言った。
「だからもう来なくて大丈夫ですよ?」
「え?」
「奏多くんのことは、もう心配しなくて大丈夫ですから」
黙って風子ちゃんの顔を見る。風子ちゃんはわたしの前でぺこりと頭を下げた。
「それでは」
「あ、ちょっと待って……」
わたしの声に、風子ちゃんは振り向かず、薄暗い空の下を走り去る。
奏多のいる、あの部屋に向かって。
――奏多くんのことは、もう心配しなくて大丈夫ですから。
わたしはしばらく、その場に立ち尽くしたまま動けなかった。




