12
バス停に、ちょうど停まっていたバスに飛び乗った。震えている体を抑えようとするけど、抑えることができない。
「お母さん、どこに行くの?」
幼い頃、母と一緒に、こんなふうにバスに乗り込んだ。
「逃げるのよ、日和。あの男から」
母がそう言い、まだ細かったわたしの腕をとり、涙を流す。
母が言ったあの男とは、わたしの二人目の父だ。父はいつも逃げるわたしを追いかけて、この腕を強くつかんだ。
「日和、逃げるなよ」
あの頃受けた屈辱は、よく覚えていない。腕についた痣も、もうすっかり消えている。
だけどただ、近づいてくる足音と、つかまれた腕の感触だけが、かすかな記憶として今もまだ残っているのだ。
久しぶりによぎった過去に、息を吐く。家の近くのバス停がアナウンスされ、わたしはゆっくりと立ち上がった。
髪を濡らして家に帰る。玄関を開けると、薄暗い灯りの下で、奏多がうずくまるように座っていた。
「……奏多?」
ゆっくりと顔を上げた奏多が、わたしのことを見る。なんだか急に力が抜けて、あふれ出しそうになった涙を、あわててこらえる。
「慶介さんと、一緒じゃなかったのかよ?」
靴を脱ぐわたしに、奏多が声をかけてくる。
「うん。さっきの電話は、慶介くんが勝手にかけただけなの。濡れちゃったから、先にお風呂入ってくるね」
お風呂場へ向かって歩き出そうとした時、わたしの行き先をふさぐように、奏多が立ち上がった。
「なんで泣いてんの?」
「……泣いてないよ?」
そう答えて、無理やり笑顔を作ろうとしたけど、うまくできない。
「なんかされたの?」
「違う。そんなんじゃない」
首を横にふった後、わたしは奏多の顔を見て言った。
「奏多。慶介くんって、いい人だよね? あんたも中学の頃、いろいろお世話になったから、わかるよね?」
奏多はわたしの前で、黙ってそれを聞いている。
「慶介くんね、わたしのこと、気に入ってくれてるみたいなの。でもね、わたしはたぶん、あの人と付き合ったりしない」
「どうして?」
ふっと息を吐き、わたしは奏多の声に答える。
「男の人が怖いの。奏多は知ってるでしょ? わたしのお母さんが再婚相手と別れた理由」
奏多がわたしの前で小さくうなずく。
「だからわたしは付き合えない。たぶん誰とも……」
「そんな悲しいこと……言うなよな」
雨音だけが、かすかに聞こえる冷たい廊下で、わたしは奏多の言葉を胸に抱く。
しばらく沈黙が続いたあと、奏多がわたしにぽつりと言った。
「日和……おれさ。この家、出ようと思う」
「え?」
濡れたままの顔を上げ、奏多のことを見つめる。
「風子のじいちゃんが、道楽でアパート管理してて。空き部屋いっぱいあるから、タダ同然で貸してくれるって。昨日出かけたのは、風子とそれの相談してた」
わからない。奏多が言ってること、全然意味がわからない。
「だから日和、これからはおれのことなんか忘れて、好きなことしろよ」
「なんで? なんで急にそんなこと言うの?」
突然の言葉に、わたしはパニックになりそうだった。
「ここは奏多の家だよ? わたしもう、奏多が嫌がることしないから。勝手に部屋に入らないし、好きな時間にご飯食べればいいし、肘をついてご飯食べるなとか、そんなうるさいこと、もう言わないし」
「違うんだよ。日和は何にもわかってない」
「何が? わたし、何をわかってないの?」
奏多がじっとわたしを見た。目をそらしそうになるのをこらえて、わたしも奏多の目を黙って見つめる。
やがてゆっくりと奏多の手が動き、その指先でそっと、わたしの濡れた髪に触れた。
「日和……」
少しかすれた奏多の声。それはいつもよりずっと近く、気がつくとわたしの耳元に熱い息がかかった。
「奏多……」
なんだろう。どうしてだろう。体中がすごく熱くて、それなのに震えている。怖くて逃げ出したいのに、体が固まったように動けない。
ため息のような息を吐き、静かに目を閉じる。髪を弄んでいた指先が、ほてっていく頬をなぞる。
やがてわたしの唇に、柔らかくて温かいものがそっと触れた。
「……わかった?」
ぼうっとした頭のまま、ゆっくりと目を開ける。目の前にいる奏多が、苦しそうな表情でつぶやく。
「これ以上この家にいたら……おれ、ヘンになる」
「奏多……」
「日和に何するか、わからないから」
そう言って、奏多はわたしから目をそらし、静かに背中を向ける。
「怖がらせて……ごめん」
声にならない声でつぶやいて、奏多は階段を上って行った。
わたしは腰が抜けたようにその場に座り込み、震える指先で、自分の唇をなぞる。
わたし……奏多とキスしたんだ。
その夜、二度と自分の部屋から出てこなかった奏多は、次の朝、この家からいなくなっていた。




