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 バス停に、ちょうど停まっていたバスに飛び乗った。震えている体を抑えようとするけど、抑えることができない。


「お母さん、どこに行くの?」

 幼い頃、母と一緒に、こんなふうにバスに乗り込んだ。

「逃げるのよ、日和。あの男から」

 母がそう言い、まだ細かったわたしの腕をとり、涙を流す。

 母が言ったあの男とは、わたしの二人目の父だ。父はいつも逃げるわたしを追いかけて、この腕を強くつかんだ。

「日和、逃げるなよ」

 あの頃受けた屈辱は、よく覚えていない。腕についた痣も、もうすっかり消えている。

 だけどただ、近づいてくる足音と、つかまれた腕の感触だけが、かすかな記憶として今もまだ残っているのだ。


 久しぶりによぎった過去に、息を吐く。家の近くのバス停がアナウンスされ、わたしはゆっくりと立ち上がった。


 髪を濡らして家に帰る。玄関を開けると、薄暗い灯りの下で、奏多がうずくまるように座っていた。

「……奏多?」

 ゆっくりと顔を上げた奏多が、わたしのことを見る。なんだか急に力が抜けて、あふれ出しそうになった涙を、あわててこらえる。

「慶介さんと、一緒じゃなかったのかよ?」

 靴を脱ぐわたしに、奏多が声をかけてくる。

「うん。さっきの電話は、慶介くんが勝手にかけただけなの。濡れちゃったから、先にお風呂入ってくるね」

 お風呂場へ向かって歩き出そうとした時、わたしの行き先をふさぐように、奏多が立ち上がった。

「なんで泣いてんの?」

「……泣いてないよ?」

 そう答えて、無理やり笑顔を作ろうとしたけど、うまくできない。

「なんかされたの?」

「違う。そんなんじゃない」

 首を横にふった後、わたしは奏多の顔を見て言った。


「奏多。慶介くんって、いい人だよね? あんたも中学の頃、いろいろお世話になったから、わかるよね?」

 奏多はわたしの前で、黙ってそれを聞いている。

「慶介くんね、わたしのこと、気に入ってくれてるみたいなの。でもね、わたしはたぶん、あの人と付き合ったりしない」

「どうして?」

 ふっと息を吐き、わたしは奏多の声に答える。

「男の人が怖いの。奏多は知ってるでしょ? わたしのお母さんが再婚相手と別れた理由」

 奏多がわたしの前で小さくうなずく。

「だからわたしは付き合えない。たぶん誰とも……」

「そんな悲しいこと……言うなよな」

 雨音だけが、かすかに聞こえる冷たい廊下で、わたしは奏多の言葉を胸に抱く。

 しばらく沈黙が続いたあと、奏多がわたしにぽつりと言った。


「日和……おれさ。この家、出ようと思う」

「え?」

 濡れたままの顔を上げ、奏多のことを見つめる。

「風子のじいちゃんが、道楽でアパート管理してて。空き部屋いっぱいあるから、タダ同然で貸してくれるって。昨日出かけたのは、風子とそれの相談してた」

 わからない。奏多が言ってること、全然意味がわからない。

「だから日和、これからはおれのことなんか忘れて、好きなことしろよ」

「なんで? なんで急にそんなこと言うの?」

 突然の言葉に、わたしはパニックになりそうだった。

「ここは奏多の家だよ? わたしもう、奏多が嫌がることしないから。勝手に部屋に入らないし、好きな時間にご飯食べればいいし、肘をついてご飯食べるなとか、そんなうるさいこと、もう言わないし」

「違うんだよ。日和は何にもわかってない」

「何が? わたし、何をわかってないの?」


 奏多がじっとわたしを見た。目をそらしそうになるのをこらえて、わたしも奏多の目を黙って見つめる。

 やがてゆっくりと奏多の手が動き、その指先でそっと、わたしの濡れた髪に触れた。

「日和……」

 少しかすれた奏多の声。それはいつもよりずっと近く、気がつくとわたしの耳元に熱い息がかかった。

「奏多……」

 なんだろう。どうしてだろう。体中がすごく熱くて、それなのに震えている。怖くて逃げ出したいのに、体が固まったように動けない。

 ため息のような息を吐き、静かに目を閉じる。髪を弄んでいた指先が、ほてっていく頬をなぞる。

 やがてわたしの唇に、柔らかくて温かいものがそっと触れた。


「……わかった?」

 ぼうっとした頭のまま、ゆっくりと目を開ける。目の前にいる奏多が、苦しそうな表情でつぶやく。

「これ以上この家にいたら……おれ、ヘンになる」

「奏多……」

「日和に何するか、わからないから」

 そう言って、奏多はわたしから目をそらし、静かに背中を向ける。

「怖がらせて……ごめん」

 声にならない声でつぶやいて、奏多は階段を上って行った。

 わたしは腰が抜けたようにその場に座り込み、震える指先で、自分の唇をなぞる。

 わたし……奏多とキスしたんだ。


 その夜、二度と自分の部屋から出てこなかった奏多は、次の朝、この家からいなくなっていた。

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