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外へ出ると、また雨が降りはじめていた。バッグの中をかき回してみたけれど、折りたたみ傘は入っていない。
事務所へ戻れば、ビニール傘があったはずだ。でも今さらあの場所へ戻るのは、どうしても気が引けた。
「雨、降ってきたな」
声と一緒に、すっと傘を差しかけられる。顔を上げると、慶介くんがわたしを見下ろし、にっと笑った。
「今日はバタバタだったんだって?」
「わたしが請求書の金額間違えたからいけないの……綾子さんにも迷惑かけちゃった」
ふうっとため息をついて、力なく笑う。朝の出来事を、一日中引きずっている自分に嫌気が差す。
「もしかして、おれが夕べ言ったこと、気にしてる?」
さらさらと降る雨の中、わたしの隣で慶介くんが言う。わたしはしばらく、傘に落ちる雨の音を聞いたあと、ぽつりとつぶやいた。
「慶介くんが言ったこと、間違ってると思うよ?」
「え?」
目を閉じても、目を開けたままでも、今朝の二人の姿は、はっきりと思い出せる。
「奏多には……彼女がいるみたいだから」
「聞いたのか?」
「ううん、見たの。朝、女の子がうちに来て、一緒に学校行った」
慶介くんがわたしから目をそらし、小さく舌打ちしたような気がした。
「だから慶介くんは、間違ってる。奏多はわたしのことなんか、ただの家族としか思ってないよ?」
そっぽを向いたままの慶介くんが、自分の頭をぐしゃぐしゃとかき回す。わたしはそんな慶介くんから一歩離れる。
「それじゃ、わたしはお先に……」
「おい、ちょっと待て」
帰ろうとしたわたしに、慶介くんがもう一度、傘を差しかけた。
「飯でも……食いに行かね?」
「え……」
「雨も降ってるし、車で送るから」
そう言った慶介くんの手が、わたしの背中を、駐車場に向けて押す。
「きょ、今日はいいよ。やめとく」
傘の中で、慶介くんがわたしの顔を見た。
「……奏多が、待ってるから?」
「そういうわけじゃ……」
「あいつはもう高校生だぞ? 腹が減れば何か作って、勝手に食うだろ」
それはそうだけど……。
実際、わたしが仕事で遅くなる日は、奏多が夕食を作ってくれたりする。日曜日だって、疲れてごろごろしているわたしより、奏多の方がずっと頼りになる。
それでも時間が許す日は、わたしが食事を作ってあげたい。奏多のお母さんだって、わたしの母だって、きっとそうすると思う。
奏多からは……朝ご飯もお弁当もいらないって、言われちゃったけど。
黙り込んだわたしの前で、慶介くんが携帯を取り出した。慣れた手つきで番号を呼び出し電話をかけると、相手に向かって話し始めた。
「ああ、奏多? おれだけど。今、どこ?」
「え?」
ちょっと慶介くん? どうして奏多に電話なんてするの?
「あっそ、家ね。悪いけどさぁ、ちょっと日和、借りるわ。お前、なんかてきとーに食ってろ」
「慶介くん!」
手を伸ばして携帯を奪おうとしたけれど、慶介くんはそれを軽くかわした。
「あ、それからおれたち、もしかしたら遅くなるかも。子どもは先に寝てなさい」
ふっと笑った慶介くんが、電話を切る。わたしは信じられない顔で、慶介くんのことをにらみつけた。
「これで解決だろ? もう奏多の心配はしなくていい」
「どうしてよ?」
足もとが雨に濡れて冷たい。
「どうしてあんなこと言うの?」
黙り込んだ慶介くんが、傘の中でわたしを見ている。
「わたし、もう帰る」
「日和っ!」
傘から出た途端、腕をグッとつかまれた。わたしの知らない大きい手。強い力……怖い。怖い。怖い……。
「やめてっ!」
思いっきりその手を振り払い、雨の中を走り出す。慶介くんの手から離れた傘が、ころんと水たまりに転がったのがわかった。
「おい、日和っ! 待てって!」
わたしを呼ぶ声。近づいてくる足音。忘れかけていた遠い記憶が、わたしの頭に蘇った。




