美しい国 美しいひとびと
寒い朝、公園の片隅で一人の男の命が尽きようとしていた。名前は矢田部和彦。5年前までは、小さいながらもリサーチ会社の取締役を務めていた。
「おい、矢田部さん、矢田部さん。今救急車を呼んだからな」
こわばる指先を包み込むように両手で握り、一人の男が呼びかけていた。昨晩、自分のブルーシートのテントの中に呼び入れてくれた男だ。
「ここに来る人の事情は、皆似たようなものだから、何も話さなくていいよ。ほら、団子汁でも飲みなよ」
男がなにくれと世話をやいてくれたのは、朝公園のベンチに座ってから、あたりが暗くなるまで微動だにせず、ただ、うつむいて座ったきりだからであろう。
「座ったまま、死んでしまっているのかと思ったよ」
男はなるべく矢田部と顔を合わさないようにしながらも、朴訥そうに声をかけた。
「何があったのか知らないけれど、生きていさえすれば、やり直す事もできるし、欲張りさえしなければ、何とか生きていける」
矢田部は返事をしなかった。渡された団子汁も手に持ったまま、口をつけなかった。
「汚くて、食べたくないかな」
男が少し悲しそうに言うので、矢田部はようやく口を開いた。
「五年前、人身事故を起こしましてね。今日交通刑務所を出て来たのです。轢いてしまったのは、中学生の男の子で、お線香を上げさせてもらってきました。罵られると思っていましたが、刑を終えた後だからか以外にも静かに迎えていただきました。けれど、別れ際に奥さんがね、『あなたは生きているのです
ね』と」
矢田部ののど仏がぐぐっとせりあがり、泣き声を噛み殺しそこねた音が「ひっ」と漏れた。矢田部の持つ椀が震えて揺れている。
「もう、寝ましょう。眠ると、人間また元気がでますよ」
男は矢田部に数枚の新聞を渡した。
「服の下に入れてね、体に巻きつけるんです。夜は冷えますからね。随分、ましですよ」
矢田部は新聞を使わなかった。それでも、男と並ぶように、体を休めた。しばらくしてから、隣の男からいびきが聞こえてきた。もうもうと牛が鳴くようないびきだった。矢田部は暗闇を見る様に目をこらして起きていた。
その内に目が慣れて来たのだろう。かすかな月明かりがシートの隙間から入ってきているのか、先ほど男にもらった新聞の見出し文字が目に入った。二歳の男の子供が親に殴られて重体になっているというニュースだった。親を責めることはできなかった。自分はもっとひどい人殺しだ。ただ、死にそうになっている子供が哀れだと思った。もし、神様がいるのなら、明日自分は死ぬから残りの寿命をこの子供にやってくれるように、頼もうとぼんやり思った。
「いや、俺は地獄に行くから、閻魔様にたのもう」
そう考えて、ようやく矢田部は肩の荷をおろしたような気持ちになり、少しうとうとすることができたのだった。そして、一時間ほど眠り、矢田部は隠し持っていた劇薬を飲んだのだった。
矢田部は命をとりとめた。明らかに死ぬつもりのような矢田部を、男がやはり気にかけていたので、発見が早かったのだ。
「死んだつもりで、やりなおしたら、どうでしょう。あなたは、もう罪も償っているのですから」
男はこんなことを言う柄ではないというように、ぼつ、ぼつと喋った。矢田部はあの朝自分の冷たい指先を握ってくれていたあの感触を思い出した。それから、三日して、もう一度男が矢田部を見舞ってくれた。矢田部はようやく男を笑って迎えた。
「地獄に行くつもりでした。本当にあなたには、お世話になりました」
出会いの頃には想像もできない親しみをこめて矢田部は男と話をした。
「ところで、地獄の餓鬼と呼ばれる亡者が、何故いつもお腹をすかせているか、あなたはご存じですか。私が聞いた話なのですが、地獄の餓鬼にもちゃんと極楽と同じ食事が用意されているのだそうです。その食事は大きな大きなテーブルに用意され、その席の傍らには大きな大きなテーブルを超える長い箸が置かれている。
餓鬼達は我先にと食べようとするのですが、箸が長いので、口に入れて食べることができない。それで、食事が目の前にあるのに食べる事ができず、飢えているというのです」
「極楽では、その長い箸を持ちテーブルの向いに座っている人の口に食事を入れてやる。互いに分け合い食べさせあうから、満足でいられるという話ですよね」
応じて話す男に矢田部は一瞬驚いたが、話続けた。
「実際のところは全世界の食糧を本当に均一に分けると、チョコレートの一枚も我々は口にすることができないという話を聞いたこともあります。私は実は死んで閻魔様にお願いしたいことがあったのです。私が死ぬかわりに、かわいそうな子供にかわりに残った寿命をあげてほしいと。それが、罪滅ぼしになるような気がしましてね」
男は黙ってきいてくれていた。
「閻魔様には会えなかったのですが、不思議な白い人にあいました」
それは、スクリーンで映画を見ているようだった。
「見た感じは男も女も何だかぼんやりした人型の白い塊のように見えます。ぼんやりしているのですが、皆美しく思えます。そしてある二人が話している声が聞こえてきたのです。
「あなたは、前回とても辛い経験をされた。お気の毒な事です。今回は私が参ります」
「ありがとうございます。あちらの世界は何もかもがはっきりとしていて、大変ですが、私は嫌いではありません」
「そうですよね。あちらの世界はここに比べて、何もかもが色とりどりにきらめいて疲れますが、こちらから見ている分にはきれいですよね。あちらの世界からこちらは見えませんが、あなたの事を私は見ておりますので」
二人の美しい人達は軽く抱き合い、それからどこかへと、消えていったのだが、矢田部はその時突然理解したのだ。自分がどのような世界で生きているかを。
「生きようと思います。分け与えつつ、奪いつつ」
男は嬉しそうにうんうんと首をふった。矢田部は知っている。今この瞬間にも、あの美しい人達はやはりこの美しい国へと生を得て、やってきている。そして、自分が殺してしまったあの中学生も、どこかで亡くなるかわいそうな子供もあの美しい国へと帰っていく。
目の前の男と友人となる。自分は長く生きる。詫びながら、それでも、幸せを祈りつつ生きるのだ。




