WONDERFUL LIFE
――最後のゲームを開始します。
台座に、白い文字が浮かんだ。
部屋には、椅子が五つあった。
武器もない。水槽もない。天井から降りてくる刃もない。壁一面に赤く点滅する制限時間もない。これまでの部屋に必ずあった、あの悪意に満ちた不足が、ここにはなかった。
ただ、椅子が五つ。
中央に、投票箱のような黒い台座が一つ。
私たちは、しばらく誰も動けなかった。
互いに距離を取り、マスク越しに息をしていた。全員が同じ黒いマスクをつけている。顔は見えない。声は変えられている。名前も分からない。ここに来るまで、私たちはそういうものとして扱われてきた。
見知らぬ誰か。
敵。
邪魔者。
生き残るために、退かさなければならないもの。
最初はもっと大勢いたはずだ。
水が足りない部屋があった。鍵が一つしかない部屋があった。眠れば首輪が締まる部屋があった。透明な扉の向こうで、酸素の残量だけが減っていく部屋があった。
誰かが泣いた。誰かが怒鳴った。誰かが先に手を出した。誰かが倒れた者をまたいだ。
私も、そうした。
しなければ死ぬと思った。
たぶん、そう思いたかった。
少年のような体つきの参加者が、短く笑った。
「最後だなんて、信じられるかよ」
変えられた声でも、若さは隠せなかった。怒りと恐怖の境目をまだ知らない声だった。
その隣で、青年が肩を押さえている。布を巻いているが、傷は塞がっていない。血が黒く固まり、指先まで汚していた。
「ああ。どうせ、最後の次がある」
青年はそう言ったが、その声にはもう皮肉を支える力も残っていなかった。
中年の男は黙って台座を見ていた。出口の位置、椅子の間隔、こちらの怪我の具合。そういうものを、目だけで測っている。ここまで生き残った者の目だった。
老人は椅子に腰を下ろしていた。呼吸は浅い。けれど、その目だけは妙に静かだった。諦めているのではない。諦めることにさえ、もう疲れた人間の目だった。
そして私も、椅子に座る。従うしかないのだ
――投票の前に、顔を確認してください。
かちり、と部屋のどこかで音がした。
マスクのロックが外れた音だった。
「顔?」
少年が吐き捨てる。
「今さら?」
誰も答えなかった。けれど、誰も逆らわなかった。
ここでは、逆らえば死ぬ。そう学んできたからだ。
最初にマスクを外したのは、少年だった。
その顔を見た瞬間、胸の奥に嫌な懐かしさが走った。
知っている顔だった。
けれど若すぎた。
頬にはまだ柔らかさが残り、目だけが鋭い。世界を敵に回す覚悟だけはあるくせに、自分が世界に傷つけられることをまだ本当には知らない顔。
次に青年が外した。
胃の底が冷えた。
寝不足の目。唇の端の傷。夢という言葉を捨てたふりをして、まだどこかで拾い直せると思っている顔。
ほとんど同時に、中年の男が外した。
もう疑いようがなかった。
――それは、私の顔だった。
歳月に押しつぶされ、責任という名のもとに何かを諦めてきた顔。帰る場所を持っているからこそ、死ぬことができない顔。
老人が外した。
皮膚は薄く、口元はわずかに震えていた。だが目だけは濁っていない。すべてを見てきたような目だった。見てきたうえで、それでもまだ目を閉じない者の目だった。
最後に、私もマスクを外した。
四人の視線が、こちらへ向いた。
誰も声を出さなかった。
たぶん、全員が同じことを考えていた。
これは誰の顔だ。
私の顔だ。
私たちは、同じ名前を言った。
父の名も、母の名も、生まれた町も、小学校の名前も、初めて殴り合いの喧嘩をした日のことも、同じだった。
同じはずだった。
だが、少しずつ違っていた。
「高校の夏」
中年の男が、ぽつりと言った。
「あいつから電話があった」
少年が眉をひそめる。
「あいつって誰だよ」
青年が顔を歪めた。
「分かるだろ」
「分かんねえよ」
少年は苛立ったように言う。
「あいつなら今日も学校に来てた。俺の弁当、勝手に食いやがった。明日も普通に来る」
青年は目を伏せた。
「明日は来ない」
「何だよ、それ」
「来ないんだよ」
青年の声は震えていた。
「夜に電話してくる。『今から来られるか』って。それだけ言う。いつもの冗談みたいな声じゃない。笑ってるのに、笑ってない。俺は、気づいた。気づいたのに、気づかなかったことにした」
中年の男が静かに続けた。
「俺は行かなかった。翌朝、大事な用事があった。あいつはいつも大げさだったし、その夜もそうだと思った」
「思ったんじゃない」
老人が言った。
「思うことにしたんじゃ」
中年の男は反論しなかった。
少年だけが、まだ納得していない顔をしていた。
「嘘だ。そんなの、これからのことだろ。まだ何も起きてない」
その言葉が、私の胸を刺した。
まだ何も起きていない。
そう言える自分が、確かにそこにいた。
羨ましいと思った。
同時に、憎いとも思った。
白い壁の一部が光った。
そこに、これまでの部屋の記録が映し出される。
水の部屋。鍵の部屋。眠りの部屋。酸素の部屋。
並んだ記録には、殺害とも、処刑とも、脱落とも書かれていなかった。
ただ、短くこうあるだけだった。
――選択結果。
少年が壁を睨む。
「何だよ、これ」
青年が、かすれた声で言った。
「殺せとは、一度も書いてなかった」
中年の男が顔を上げる。
「でも、そうしなきゃ出られなかった」
「本当に?」
青年が言った。
「水は分けられなかったのか。鍵は壊せなかったのか。眠る順番を決められなかったのか」
「そんな余裕、あるわけないだろ!」
少年が怒鳴る。
その声に、私はかつて自分が誰かへ浴びせた怒声を思い出した。
酸素の部屋。
透明な扉の向こうに、人がいた。膝をつき、こちらへ手を伸ばしていた。扉を閉めれば、こちら側の酸素は足りる。開けたままなら、全員が危ない。
そう表示されていた。
私は扉のロックを押さえた。
向こうから叩く音がした。拳の音。爪の音。額をぶつける音。
閉めろ、と誰かが言った。
待って、と誰かが泣いた。
私は手を離さなかった。
最後に、向こう側の声が言った。
ごめん。
あれは誰の声だったのか。
今なら分かる気がした。
青年が壁にもたれた。
「主催者は、どこにいるんだ」
少年が台座を蹴る。
「出てこいよ! 見てんだろ!」
返事はない。
中年の男が天井を見た。台座の裏を覗き込んだ。老人は動かなかった。
監視カメラは見つからない。
スピーカーも見つからない。
隠し扉も、覗き穴も、管制室へ続く通路もない。
白い部屋は、ただ白いままだった。
「誰が、これを殺し合いにした?」
中年の男が言った。
誰も答えなかった。
老人が、ゆっくりと顔を上げる。
「鏡が要るな」
少年が老人を睨む。
「何だよ、それ」
「主催者を探すなら、鏡が要る」
青年の唇が震えた。
「俺たちが、ってことか」
老人は頷かなかった。
ただ、否定もしなかった。
その沈黙が、何よりはっきり答えていた。
殺せと言われたわけではない。
選べと言われただけだった。
けれど私たちは、それを殺し合いにした。
水を分ける前に、奪うことを考えた。
鍵を壊す前に、隠すことを考えた。
扉を開ける方法を探す前に、誰を外へ置いていくかを考えた。
誰かが仕組んだ。
誰かが追い込んだ。
誰かが悪い。
そう言えた方が、ずっと楽だった。
台座に、新しい文字が浮かぶ。
――最終投票を行ってください。
五枚の白い紙が現れた。
それぞれの前に、一枚ずつ。
――最も多く選ばれた一名を、残します。
青年が笑った。
「残す、か」
次の文字が浮かんだ。
――ただし、自身への投票は無効です。
部屋の空気が止まった。
全員が自分だった。
それでも、自分には投票できない。
少年が紙を掴んだ。
「俺一択だろ。まだ始まってもないんだ。何でも変えられる」
強い声だった。
けれど、紙を握る手は震えていた。
「電話にも出る。走って行く。あいつを一人にしない。お前らみたいにはならない」
青年は、しばらく何も言わなかった。
やがて、傷口を押さえたまま呟く。
「俺なら、まだ間に合う」
その声は、間に合わなかった人間の声だった。
「夢も捨てずに済む。謝ることもできる。まだ、全部終わったわけじゃない」
中年の男は、投票用紙の隅に何かを書きかけた。
すぐに塗り潰した。
たぶん、家族の名だった。
「俺には、帰る場所がある」
それだけだった。
それだけで十分だった。
家に明かりがついているかもしれない。待っている者がいるかもしれない。もう期待されていなくても、帰らなければならない場所がある。
その重さを、私は知っていた。
老人は、すぐには紙を取らなかった。
「わしは、全部持っていける」
「全部?」
青年が聞く。
「怒りも、未練も、暮らしも、悔いも。未来は短い。じゃが、短いからこそ、もう捨てる場所も少ない」
少年が噛みつくように言った。
「あんたを選べってことか」
「違う」
老人は首を振った。
「選べ、と言われておるだけじゃ。最後くらい、誰かのせいにせず選べ」
台座の文字が点滅する。
投票してください。
少年は、怒りのままペンを握った。
青年は、何度も書きかけては止めた。
中年の男は、塗り潰した紙の隅をじっと見つめていた。
老人は、四人の顔を一つずつ見た。
私は、自分の紙を見下ろした。
そこには五つの選択肢があった。
少年。
青年。
私。
中年。
老人。
自分の欄にペン先を置いた。
だが、そこから先へ線は進まなかった。
その名だけは、どうしても文字にならない。
顔を上げると、四つの私が黙ってこちらを見ていた。
少年を残せば、まだ何も知らない自分にすべてを背負わせる。
青年を残せば、未練を生かす。
中年を残せば、帰る場所を守る。
老人を残せば、終わりまで歩いた時間に渡す。
どれも正しい気がした。
どれも間違っている気がした。
選ばなかった人生は、いつも正しそうな顔をしている。
選んだ人生だけが、血を流す。
一枚目の紙が、箱に落ちた。
次に、二枚目。
三枚目。
四枚目。
最後の一枚を持つ手が、まだ止まっていた。
親友の声が耳の奥で鳴る。
今から来られるか。
水の部屋で泣いた声が重なる。
鍵の部屋で怒鳴った声が重なる。
酸素の部屋で、向こう側から聞こえた声が重なる。
ごめん。
私は、ひとつだけ書いた。
そして、投票箱へ入れた。
紙が底に落ちる音は、思ったより軽かった。
白い部屋の明かりが、ゆっくりと落ちていく。
台座に、最後の文字が浮かんだ。
――WONDERFUL LIFE
ひどい冗談だと思った。
けれど、誰も笑わなかった。
少年は泣きそうな顔でこちらを睨んでいた。
青年は、唇だけで何かを言った。
中年の男は、塗り潰した紙の隅を握りしめていた。
老人は、静かに息を吐いた。
誰が選ばれたのか。
私は言わない。
投票箱は閉じた。
けれど、白い紙の感触だけが、まだ指に残っている。
暗闇の中で、文字だけが消えずに浮かんでいた。
――WONDERFUL LIFE
そこに書くべき名前を、私は今も考えている。
あなたなら、どの私を残すだろう。
お読みいただきありがとうございました。
創作の励みになりますので、評価・感想をお願いします。
今回は、デスゲームを「誰かに強制された殺し合い」ではなく、「人生の中で何かを選び、何かを選ばなかったこと」の比喩として書いてみました。
生きることは、いつも正解を選べるわけではありません。
それでも選び、その結果を抱えて進んでいくしかない。
タイトルの WONDERFUL LIFE は、明るい肯定というより、傷や後悔まで含めて「それでも人生だった」と言うための言葉です。
最後の一票を誰に入れるか。
少しでも考えていただけたなら嬉しいです。




