称号:【無能】から始める万能力の王国再興記 〜無能と追放された俺、設計図一枚で六種族国家を創る〜
「お前の天職は——《荷物持ち》だ」
ガリウス将軍の声が、金張りの天井から降ってきた。
玉座の間に五十八名の貴族と騎士が立ち並んでいる。みな一様に、アランを見ていた。
その目に、期待はなかった。
——最初から、そういう顔をしていた。
アラン・フォスター、十八歳。三ヶ月前に「勇者適性あり」と判定され、王都に連れてこられた農村の子だった。貴族の子弟と同じ訓練を積み、同じ食卓を囲んだ。それでも彼らにとって、アランは最初から異物だった。話し方が田舎じみている、と笑われた。食事の作法を知らない、と蔑まれた。それでも歯を食いしばって三ヶ月、耐えた。
羊皮紙がバサリと開く。ガリウスの白い顎鬚が揺れた。
「付与スキル《重量無効化》《整理整頓》。攻魔・防魔・体力値はいずれも標準以下。戦闘評価——ゼロ」
くすくす、という音が石の壁に広がった。
騎士の鎧がジャリ、と鳴る。後列でドルド侯爵がハンカチで口を押さえた。剣士クロードが小声で囁く。「最初から挙動がおかしかったんだよな」。魔法使いセレナが目を伏せた。答えない。斥候のファリスは壁を見ていた。
「今日中に王都を出ていけ」とガリウスが羊皮紙を袖に収めた。「宿舎の荷物を持って、今すぐ」
その言葉を合図に、笑いが爆発した。
蒼い目のリゼロッテ王女が金の扇で口元を隠す。銀のティアラが傾き、その唇が動いた。
「ご苦労様でした、【無能】くん」
声が三度、跳ねた。
アランは何も言えなかった。膝が震えるのを、歯を噛んで止めた。三ヶ月分の、色んなものが首のあたりに詰まってきて、声が出てこなかった。
廊下の陰に、一人だけ立っている人物がいた。白いローブをまとった聖女エリス・シュタイン、十七歳。両手で小さな布包みを抱えて、壁に溶け込むように立っていた。笑っていない。ただじっと、こちらを見ていた。
目が合った。
彼女の唇だけが動く。声はない。
——食べて。ごめんなさい。
城の外れで、アランはそれを開いた。固いライ麦パン、二切れ。北風がひゅっ、と砂を巻く。
かじった瞬間、ぼろぼろと涙が落ちた。
固くて、ぱさぱさで、塩気が強い。王都の食堂の柔らかなパンとは比べ物にならない。でも、喉を通った瞬間に——崩れた。
惨めさより先に温かさが届いたのだと、後になって気づいた。
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## 【第二幕 荒野が城になった日】
王都から三日。石畳が消え、土の道が荒れ野に変わる頃、アランは倒れた。
歩けなくなったのは空腹のせいだった。ライ麦パンの二切れが底をついて半日、水だけで歩き続けた。膝が地面について、顎が砂に触れた。
そこで——あふれてきた。
頭の奥が、ぼわっ、と白く光る。
数字。設計図。農業効率表。坑道傾斜角。外交オプション一覧。回復薬調合温度。城塞の最適防衛ライン——
「……前世だ」
声が、静かに落ちた。砂漠に落ちる水滴みたいに、跡形もなく消えた。
日本の大学生。夜中だけが自分の時間だった。過労気味の両親、狭い部屋、画面の光だけが友達だった。「王国建設シミュレーション」に八百七十時間を注ぎ込んだ男。最高難易度を全クリし、隠し実績を全て解放した。
(この世界の構造は——あのゲームと同じだ)
《完全領域創造》。《荷物持ち》の裏に隠れていた、この世界における究極の「建国スキル」。半径三百メートルの任意空間を対象に、所持者の「設計記憶」を物理的に具現化する。素材はその場の地脈から自動収集。施工時間は設計の複雑度に比例する。
アランは立ち上がった。砂を払い、荒野の地面に掌を押し当てた。
ドゴン、と大地が唸った。
ゴゴゴゴ——土が盛り上がり、石が組み上がる。砂埃が空を覆い、地響きが十分間続く。風がひゅうっ、と流れを変えた。
そこに、白亜の城塞がそびえ立っていた。
五層の主塔。跳ね橋と外堀。内壁と外壁の二重構造。地下には貯水槽と食糧庫、精製室が口を開けていた。
「……完璧だ」
ただ、玉座に相当する部屋に立った時、アランはしばらく動けなかった。
完璧な城だった。設計通りの城だった。でも——誰もいない。
風がごうっ、と吹き抜ける。石の壁が、その音を反響させた。広い部屋の中心に、一人で立っている。
(まあ、いい)
アランは設計書を広げた。次にやることは決まっている。今は感傷に浸っている場合じゃない。
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## 【第三幕 最初の仲間と薬一粒の価値】
城が完成した翌々日、ドワーフが来た。
ゴルドーという名の鍛冶師だった。魔物に採掘地を荒らされ、行き場を失っていた。小柄だが肩幅が広く、鉄色の顎鬚に煤が混じっている。城塞を見上げて口をぽかんと開けた。
「誰が建てた」
「俺だ」
「……嘘つくな」
「本当だ」
ゴルドーはしばらく城壁を拳でガン、ガン、と叩き、目地を舌で舐め、指でつついた。やがて低く唸る。
「目地がゼロだ。圧縮強度が市販石材の四倍はある。こんな技術、どこで手に入れた」
「頭の中にある」
「……住んでいいか」
「一つ条件がある」とアランが言った。「この設計図を一緒に実装してくれ。施工技術が欲しい」
ゴルドーが手を差し出した。ガシン、と固い音。
その週、ゴルドーの声がけでドワーフ十四名が合流した。ガンツ、ドラグ、ネルソン、テルク——それぞれが掘削・鍛冶・木工・石組みの専門家だった。城下に作業場が生まれ、カン、カン、カン——槌の音が荒野に響くようになった。
翌週、エルフの長老シルヴァが三十名を率いてやってきた。
白髪に深い皺。緑の鋭い目が、アランの差し出した地質マップを三十秒眺めた。
「……この分析は正確だ」と低い声で言う。「どこで手に入れた」
「頭の中にある」
沈黙。風がびゅっ、と砂を撒いた。
「我々はここに居場所がある——そういうことか」
「条件がある」とアランが返した。「近辺の魔石鉱脈の採掘にドワーフと協力してくれ。収益は折半する。エルフの里に食糧と安全が確保できる計算だ」
シルヴァが目を閉じた。「……利害の一致だけで縛るのか」
「それが一番長続きする」
長い沈黙。
「……なるほど」とシルヴァが呟いた。「それで十分だ」
エルフ三十名がその日から城下に定住した。
同時期、アランは地下の精製室で回復薬の調合を始めた。
薬草の煮出し温度を摂氏七十度に固定し、二十分間撹拌する——それだけで、薬効成分の抽出率が通常の三倍以上に跳ね上がる。ゲームでは「隠しパラメータ」扱いだった工程を、この世界で誰も知らなかっただけだ。
完成品を一滴、左手の甲に垂らした。建設作業で擦り切れた傷がある。
しゅわっ、と細かい泡が立った。
十秒後——消えていた。
アランはしばらく自分の手を見た。ゲームの中では当たり前の処理だった。数値が上がる、それだけの現象。でも今は、本物の皮膚が、本物に癒えていた。
「……使える」
それだけ言って、次の調合に取りかかった。
完成品を見た魔道具師マリア・テセが固まった。灰色の髪を束ね、眼鏡の奥に計算を宿す女だ。流民の中から技術を見込んで声をかけた人物だった。
「……純度が通常品の十倍以上あります。これ、何ですか」
「回復薬だ」
「わかってます。でも——聖教会の薬師も、同じ素材を使って?」
「全員、調合法が間違っていた」
マリアが十秒、天を仰いだ。それから眼鏡を外して磨き、装着し直した。
「……量産できますか」
「できる」
「私に責任者をやらせてください」
「頼む」
その薬が商人ベルナルド・カルベの手に渡った時、大柄な男が椅子から半分落ちながら叫んだ。
「アラン様! これは——王都でも手に入らない最上品です! 一粒が、国家予算の二百分の一に匹敵する!」
「調合法が間違っていただけだ」
「それを誰もが言えればいいんですが! 専属契約を! 独占販売権を差し上げます。代わりに食糧・木材・石材・金属——城建設に必要なもの全てを仕入れルートに乗せます」
アランは羊皮紙を受け取った。
その週から物資の流入が始まった。城下の市場に商人の馬車が並ぶ。カーン、カーン——荷台の扉が開く音が重なった。城下町の発展が、加速し始めた。
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## 【第四幕 六種族が集まる理由と侯爵の算盤】
獣人族長ラグナが率いる八十名が現れたのは、建国から一ヶ月後だった。
筋骨隆々とした虎族の男。二メートルを超える体躯。耳と尻尾が立ち、武装した八十名の目がギラリと光る。
「貴様がアランか」
「そうだ」
「俺たちの村が魔物に囲まれている。三日以内に外壁を建てろ。できないなら今すぐここを焼く」
ドワーフたちが舌打ちをする。エルフの弓手アリアが静かに弦を張った。
アランは地図を広げた。「村の座標を教えてくれ」
ラグナが眉を潜めた。「……三日で外壁が作れるのか」
「設計は一時間。施工はドワーフが二日でやる。三日目には完成している」
「嘘だろ」
「ゴルドー、できるか」
ドワーフの親方が拳をガン、と打ち合わせた。「二日でやってやる。掘削から組み上げまで」
ラグナはしばらくアランを睨んでいた。それからゴルドーを見た。また、アランを見た。
その巨大な膝が、砂利の上に静かについた。ドン、と地が響いた。八十名が一斉に続く。
三日後、獣人の村に高さ八メートルの石壁が完成した。魔物の第一波がドガン、ドガン——壁に激突し、弾き返される。ラグナの息子、七歳のクロが父親の肩から見下ろして「お父さんの城だ」と呟いた。
それを聞いたラグナの横顔が、わずかに崩れた。
翼人族長老ファロン・ウィングが空から舞い降りた。半妖精族長メルリアが花の香りとともに現れた。人間の流民が百、二百と城下へ流れ込んだ。やがて六種族、総勢三千二百名が白い城を中心に暮らしていた。
商業区が自然発生した。エルフの薬草師。ドワーフの金属細工。翼人の広域偵察情報。それぞれの技術が交差し、独自の産業が芽吹く。
エルフのソルが開発した「光葉草の圧縮油」が街灯に使われた。コストが魔石の十分の一で、同等の明るさが出る。ソルは最初、それを里の秘蔵技術として隠していたが、アランに「正当な対価を払う」と言われた瞬間、三秒だけ考えて頷いた。秘密を利益に変える方が、隠すより価値がある——この城下では多くの人が、それを学び始めていた。
城下の一角では、ゴルドーの弟子ネルソンが獣人族の子供に鍛冶の基礎を教えていた。子供の耳がぴんと立って、真剣な目で小さな槌を握っている。翼人族の老人が人間の子供に文字を教え、半妖精の少女が獣人の子供と石畳を一緒に駆けていた。
それを遠くから見ていたアランが、設計書に「聖医師の診療所:第二区画・南東角・120平方メートル」と書き込んだ。まだエリスは来ていない。でも、来た時のために。
マリアが報告書を持ってくる。「今月の回復薬売上、ヴェルドラ王国の税収の二倍を超えました」
「想定より早い」
「早すぎます。——王国が動くかもしれません」
三日後、ハウプト侯爵家の使者レオンハルトが門前に現れた。微笑が目に届かない顔をした男が言う。
「この土地は本来、ハウプト領の東端管轄です。権益の三割を閣下に移譲していただければ、王国からの圧力を遮断できる」
「断る」
「……王国軍が動けば」
アランは地図を広げた。王国の主要商業路とこの城の立地。物流が遮断された場合に損失を被る貴族の名前を、二十七家分リストアップした紙を差し出す。
「王国が俺を潰すと、この全員が損をする。その全員が俺の間接的な盾だ」
「……ハウプト家も入っている」
「入っている。三週間前から準備していた」
レオンハルトがゆっくりと立ち上がった。「……失礼しました」
使者が去った後、アランは独り言を言った。「……二ヶ月以内に、何かが動く」
その読みは正確だった——ただし一ヶ月で来た。
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## 【第五幕 魔族将軍ダリウスの侵攻】
魔族将軍ダリウス・ヴァルガが率いる一万五千の軍勢が東国境へ雪崩れ込んだ。国境砦が三日で陥落。騎士団第一隊が壊滅。ガリウス将軍が戦線を離脱し、王都へ撤退した。
ベルナルドが息を切らして城に転がり込んでくる。「アラン様——王都が——!」
「わかっている」
「どこで」
「二週間前に予測していた」
魔族軍の動き方はゲームデータと完全に一致していた。資源拠点を焼き、食糧庫を破壊し、民の士気を削いだ上で本城を包囲する——ダリウスはそのパターン通りに動いていた。
アランはすでに防衛を三倍に強化していた。外壁の増段。地下水路の暗渠化。複層魔法陣の敷設。エルフ弓手隊の要所配置。獣人族迎撃部隊の編成——全て計算済みだった。
「敵軍がここに接触するのはいつだ」とラグナが問う。
「十日後」
「なぜそこまで正確に」
「移動速度と兵站消費から計算した。ただし——」とアランが続けた。「兵站を先に叩く。ファロン、東の谷の輸送部隊を焼けるか」
ファロンが目を細めた。「夜間に二十名。行ける」
「頼む」
夜、設計室に明かりが灯っていた。アランは就寝前の二時間を必ず設計と計算に充てていた。翌日の業務が何十件積まれていても、その時間だけは削らない。ある深夜、マリアが精製室へやってきた。
「……眠らないんですか」
「計算が終わったら眠る」
「毎晩じゃないですか」マリアが暗い灯りを見た。「……私も手伝います」
「頼む」
それ以来、夜の設計室には二人分の足音が響くようになった。
二日後、魔族軍の兵站が燃えた。翼人族の奇襲隊が輸送部隊を壊滅させ、帰還した。ファロンの部下カルウとリュネが焦げた羽を誇らしげに広げた。
アランは「よくやった」と言い、給与証書を渡した。
ファロンが片眉を上げた。「……感謝ではなく、金銭で返すのか」
「感謝は個人の感情だ。金は組織を維持する。お前の部下にも正当な対価を払う。それが継続する関係だ」
ファロンはしばらくアランを見た。それからゆっくりと頷いた。「……面白い人間だ」
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## 【第六幕 閉じた門と、震える手】
「開けてくれ! リゼロッテだ! ヴェルドラの王女だ! お願い、開けてくれ!」
アランは城壁の上から見下ろした。
金の髪が泥に汚れ、ドレスが裂けている。リゼロッテ王女。馬車の後ろに、かつての仲間たちが続いていた。クロード、セレナ、ハンナ、ファリス——全員が疲弊しきった顔をしていた。その後方に、王都からの難民が千人以上続いている。
「アラン! 頼む、開けてくれ!」とクロードが叫ぶ。声が割れていた。
アランは門番長リオンに静かに言った。「門を閉じろ」
ドン、と重い音が荒野に響いた。
「アラン!」クロードの声が跳ね上がる。「俺たちを見捨てるのか!」
「見捨ててはいない」とアランは壁の上から答えた。声に感情は乗っていなかった。「入国を許可しないだけだ」
「同じだろ! なんで——」
「なぜかを聞くか」
「聞く」
「三ヶ月前、五十人以上の前で俺を笑った。それだけだ」
沈黙が落ちた。
クロードが口を開き——閉じた。
リゼロッテが地面に両膝をついた。金の髪が砂埃に落ちる。涙が地面を濡らす。かつて扇の陰で笑っていた女が、今は両手を地に押しつけている。
「何でもします……お願い……領地を、全部あげます……どうか我が国を……」
アランはそれを眺めながら、静かに言った。「では、契約書を作る」
全員が息を飲んだ。
「ヴェルドラ王国の全領土・全行政権を、この城に移譲すること。王族と旧臣下は非戦闘市民として保護すること。ただし政治権は一切持たない。民草は全員受け入れる。以上を同意するなら、城内に入れてやる」
リゼロッテが顔を上げた。
クロードが「そんな条件……」と声を震わせた。
「呑めないなら今すぐ帰れ。別の逃げ場を探せ」
ゴゴゴ、と地鳴りがした。魔物の軍勢が接近している。風がびゅっ、と砂を巻く。
ハンナが泣きながらクロードの袖を掴んだ。「クロード……外は——」
クロードが唇を噛んだ。セレナが目を伏せた。
三分後。リゼロッテの手が、震えながら伸びた。
「……飛び印を、くれ」
羊皮紙がリオンの手から降ろされた。リゼロッテが署名した。クロードが。セレナが。ハンナが泣きながら続いた。ファリスが無言で手を押し当てた。
城門が開いた。ズゴン、と重い音。
難民たちが雪崩れ込んでくる。馬が嘶き、荷車が軋む。老人が倒れ込み、子供が泣いている。
「リオン、民の振り分けを頼む。住居は南区の第三・第四エリアを開放する」
「了解しました」
「マリア、回復薬を医療班へ。負傷者を先に処置させろ」
「すぐに動かします」
「ゴルドー、仮設の炊事場を三カ所——」
「もう始めてる」
ドワーフの親方が手を振って走っていく。
リゼロッテはそれを城の内側から眺めていた。誰も命令を待たない。誰もが自分の役割を知って勝手に動いている。笑い声まで聞こえる。
「……どうして」と彼女は呟いた。誰にも届かない声で。「どうして、この人には、こんなものがあるんだろう」
翌日から、リゼロッテは城下を歩き回っていた。
誰も彼女に礼をしない。ドワーフは無視し、エルフは会釈だけし、獣人は通り過ぎた。三ヶ月前なら屈辱だった。でも今は——それが当然だと感じていた。
市場の端に、半妖精の少女が花を売っている屋台があった。隣でドワーフの子供が泥だんごを作り、向こうで翼人族の老人が人間の子供に文字を教えている。
「……なんで、こんなことができるんだろう」
クロードが後ろから声をかけた。「リゼロッテ」
「……見て、クロード。あそこ」
ゴルドーの弟子ネルソンが、獣人族の子供に鍛冶の基礎を教えている。子供の耳がぴんと立って、槌を真剣に握っていた。
「……ヴェルドラじゃ、こんな光景は見たことなかった」とクロードが静かに言った。
リゼロッテは何も答えなかった。ただ、目の奥が熱くなった。
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## 【第七幕 エリスが来た日】
翌朝。一騎の白馬が城門前に現れた。護衛の騎士カインを連れた、白ローブの少女。
聖女エリス・シュタイン。
アランはカインの顔を確認した上で、すぐにリオンへ頷いた。門が開く。
「……来てくれたか」
馬を降りるエリス。白いローブに旅の泥が跳ね、栗色の髪が風で乱れていた。それでも目は一切揺れていなかった。
「聞いたよ。王都から逃げる途中で、噂が流れてきた」
「どんな噂だ」
「荒野に白い城があって、六種族が集まって、回復薬が国家予算を超えて——アランが建てたって」
「三種族じゃない。今は六種族いる」
エリスが一瞬止まった。それからくす、と笑った。夜明けの空気に馴染む、静かな音。
「……それだけ聞けば十分。あの時のパン、やっと返せた気がした」
アランは何も言えなかった。
城内に入ったエリスは、広場の光景に足を止めた。六種族が入り混じって市場を開いている。パンの焼ける匂い。槌の音。子供たちの笑い声。遠くでエルフの楽器が柔らかく鳴っていた。
「……本当に作ったんだね」
「作った」
「どうやって」
「前世の記憶だ」
エリスは少し考えた。「前世」
「驚かないか」
「驚いてる。でも——あなたが荷物持ちで終わる人じゃないことは、最初からわかってたから」
アランはしばらく黙っていた。それから聞いた。「……なぜ俺にパンを渡した。あの場で俺の味方は誰もいなかった」
エリスは少し考えた。北風がふわっ、と吹いた。
「特別な理由はない。ただ——あなたが一人で取り残されるのが、嫌だった。それだけ」
その言葉が、城壁より固いものになってアランの中に刻まれた。
「帝国の初代聖医師として迎える。正規の給与と住居を保障する」
エリスが目を細めた。「雇用してくれるの?」
「組織が大きくなったら、感情論だけでは動かせない。利害で結べる関係が一番長続きする」
「冷たい言い方」
「……でも本音も言う」アランは少しの間を置いた。「お前がいる城の方が、俺は判断が早くなる」
エリスは何も言わなかった。ただ、空を見上げて——「……うん」と答えた。
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## 【第八幕 白亜の城塞、決戦】
魔族軍の前衛が城塞に到達したのは、エリスが来た日の夕刻だった。
地響きとともに五千の魔物が外壁へ殺到する。ドガン、ドガン——衝角が城門を叩く。
「エルフ弓手隊、第一射用意!」アリアの高い声に応え、百名のエルフが壁上に並ぶ。
バシュ、バシュバシュ——矢が雨のように降り注ぎ、前線の魔物を薙ぎ払う。
「獣人迎撃部隊、南回廊へ展開!」とラグナが地鳴りのような声を出す。ズバン、ズバン——重厚な斧が梯子をかけようとした魔物を叩き落とす。
「ゴルドー、北の水門は!」「閉鎖完了! 逆流ルートに魔法陣も済みだ!」
アランは城壁の中央から全体を見渡していた。データが頭の中を流れる。敵軍の動き、陣形の変化、後方からの補充タイミング——全てが計算の内側にある。
漆黒の甲冑。魔族将軍ダリウス・ヴァルガが丘の上から城を見据えた。その声だけがよく通る。
「……荒野にこれほどのものを作り上げたか。感心はする」
ダリウスが手を上げた。後方の魔物軍が動く——五千がさらに倍になる。地平線が塗り潰された。
城内の空気がひりりと締まった。リゼロッテが壁の陰で震えている。クロードが拳を石壁に押し当てた。
「……どうする」とラグナが低く問う。
アランは答えず、懐から羊皮紙を取り出した。「マリア、第七貯蔵庫の魔法石を全放出」
「全放出ですか! 城の動力源が——!」
「十分間だけ切れても構わない。外壁の魔法陣を全展開する」
マリアが走った。三十秒後——
城の外壁全体が、ぼうっ、と白く発光した。
バシン、バシン、バシン——
外周の地面から魔法陣が起動し、土が隆起する。地下深くに仕込んでいた副壁が設計通りに生えてきた。高さ十五メートルの第二外壁が、魔物群の前衛を半包囲する形で出現した。
ドゴン、ドゴン——
ダリウスが馬を止めた。「……なんだ、これは」
退路を塞がれた前衛五千がパニックに陥る。閉鎖空間の中で同士討ちが始まる。
「エルフ、第二射!」バシュバシュバシュ——アリアの号令に百の弓が応える。
「ラグナ、南門開放!」ドガン——隠し門が開き、獣人族迎撃部隊が突撃する。ズバン、バキン、ドン——重厚な音が折り重なる。
十五分後。前衛五千が壊滅した。
丘の上でダリウスが遠く城を見下ろしていた。その横顔に感情は読めなかった。ただ一言。
「……引け」
魔物の群れが退き始める。ずるずると、地平線の向こうへ消えていく。
城壁の上で誰かが歓声を上げた。
それが連鎖した。
ドワーフが盾をガン、ガン、ガン!と打ち鳴らす。獣人族がウォォオォ!と吠える。エルフが弓を天に掲げた。翼人族が空へ舞い上がった。難民の人間たちが、泥だらけの顔で泣きながら叫んでいた。
リゼロッテが壁の陰からそろそろと出てきた。呆然と広場を眺め、声が出なかった。
「……アランが、やった」
クロードが拳を石壁に叩きつけた。赤い痕が残った。「……俺たちが【無能】と笑った奴が」
セレナが何も言えず、ただ空を見上げた。
城壁の補修は翌朝から始まった。ゴルドーが仕切り、ドワーフと弟子たちが外壁の破損箇所を点検する。カン、カン、カン——槌の音が朝の空気を叩く。
エリスは医療班とともに負傷者の治療にあたっていた。城内の仮設天幕に十数名が横たわっている。
「痛い?」とエリスが聞く。
「いや、大丈夫だ」と獣人族の若い戦士が答えた。腕に深い切り傷がある。
エリスが手を当てると、柔らかな光が滲んだ。傷がゆっくりと閉じていく。
「……聖女様って、本当に使えるんですね」
「当たり前ですよ」とエリスが笑った。「でも私より回復薬の方が速いかもしれない」
「それはそれで、なんか悔しいな」
エリスが笑い、戦士も苦笑した。
それを遠くから見ていたアランが、設計書の「聖医師の診療所」の項目に、静かに丸をつけた。
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## 【第九幕 アラン帝国の誕生】
戦闘から三日後。城の大広間に全ての主要人物が集まった。
ゴルドー、シルヴァ長老、ラグナとクロア、マリア、ベルナルド、ファロン、メルリア、リオン。そしてヴェルドラ王国の残存者たち——リゼロッテ、クロード、セレナ、ハンナ、ファリス。
全員の視線がアランに集まった。
「ヴェルドラ王国の全領土・全行政権移譲に関する契約書。署名は有効だ。これをもって、この城塞を首都とする新国家——アラン帝国が今日、正式に成立する」
広間が静まり返った。
「帝国の国是は三つ。一、種族差別の禁止。二、能力による完全評価制——出身・血筋・天職は問わない。三、全民への生活基盤保障。衣食住の最低保証は国庫が担う」
ゴルドーが太い腕を組む。「文句ない」
シルヴァが目を閉じ、深く頷く。「賛成する」
ラグナが床をドン、と踏んだ。「俺も」
ファロンが静かに言った。「翼人族も参画する」
メルリアが続けた。「半妖精族も」
アランは最後にリゼロッテを見た。
元王女が立ち上がった。傲慢さは跡形もない。ただその目に、奇妙な静けさがあった。
「……一つだけ聞いていいか」
「言え」
「なぜ私を助けなかった。情がないのか、意地悪なのか」
「どちらでもない」アランはまっすぐ答えた。「民を守る力がないのに権力を持つと、民が死ぬ。人間として保護するのは当然だ。ただそれだけだ」
リゼロッテは長い沈黙の後、ゆっくりと頭を下げた。「……わかった」
クロードが何かを言いかけ——しかし何も言わなかった。セレナが目を閉じた。ハンナが小さく泣いていた。
「——以上をもって、アラン帝国を宣言する」
ガン、ガン、ガン——ドワーフが盾を鳴らした。ドン、ドン、ドン——獣人族が床を踏んだ。エルフが澄んだ歌声を上げた。翼人族が天窓から空へ舞い上がった。
広間が震えた。白い城塞が、この大陸に産声を上げた瞬間だった。
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## 【第十幕 星の下で、もう一つの始まり】
その夜。城壁の上にアランとエリスだけが残った。
星が出ていた。荒野の空には何も遮るものがなく、天の川がぼんやりと手の届く場所に見えた。
「帝国、か」とエリスが呟く。
「大げさだと思うか」
「思わない」少しの間。「でも——あなたが本当にやりたかったのは、帝国を建てることじゃないよね」
アランは答えなかった。
夜風がふわっ、と吹いた。荒野の草が、さわっ、と揺れる。
「……パンを分けてくれた人が、居心地よく生きられる場所が欲しかっただけか」
エリスがくすっ、と笑った。夜の空気に馴染む小さな音。「そんな理由で帝国を作るの?」
「悪いか」
「……全然。最高だと思う」
しばらく、二人で星を見ていた。
大広間の宣言が終わった後——エリスがアランの袖を軽く引いた。
「ねえ」
「何だ」
「ちゃんと食べてる?」
アランは一瞬止まった。「……食べている」
「本当に? 夜中まで設計室にいるって、マリアさんが心配してた」
「マリアが余計なことを」
「余計じゃないよ」エリスがくるりと前に回り込んだ。「帝国の皇帝が倒れたら困る。公式な懸念として伝えておきます」
「……帝国の初代聖医師が、皇帝の健康管理を担当するのか」
「そういう契約にしてください」
アランはしばらく彼女の顔を見ていた。
「……わかった。食事の時間は確保する」
「約束ね」
「約束だ」
その会話を、広間の端でクロードが聞いていた。彼は何も言わなかった。ただ、握っていた拳を、そっと開いた。
夜、戦後三日目の城下は静かだった。
避難民の子供たちが広場の噴水の縁に座り、エルフのミレンが星座の話をしていた。獣人の子供クロが前のめりになって聞いている。翼人族の少年が空を見上げて「あれが北の星か」と呟く。
城壁の見回りをするリオンが通りかかって立ち止まった。三ヶ月前まで流民だった青年。今は帝国の門番長として剣を腰に差している。
(……俺がガキの頃は、こんな夜があったか)
記憶にない。ずっと食べることだけ考えていた。
それが今は、星の話を聞いて笑っている子供たちがいる。焚き火の匂いが漂い、パンを焼く煙が空へ上っている。
「リオン」振り返ると、アランが立っていた。「見回りは他の班に任せていい。お前も休め」
「いや、俺が——」
「休め」
アランが短く言って歩き去った。
リオンはしばらく城壁に背を当てて、子供たちを眺めていた。
(……こういう場所を、作ってくれたんだな)
誰にも言わなかった。
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遠く荒野の向こうに、ダリウスの本軍がまだいる。東の大陸では三国が覇権を争っている。ハウプト侯爵グレンは次の一手を考えているはずだ。そして城下には、今日から千人以上の新しい民が増えた。
全部、把握していた。
だが今夜は——ただここに立って、星を見ていた。
六種族四千人が暮らす白い城。荒野の真ん中に生まれた、小さくて大きな世界。
今日をもって、アラン帝国が産声を上げた。
これは始まりに過ぎない。




