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外伝短編|今日、ご飯いる?

作者: 安剛
掲載日:2026/03/21

 夕方のキッチンは、まだ明るかった。


 窓の外に残った光が、すりガラスを通って白く広がっている。

 部屋の照明はついていないのに、手元はちゃんと見えた。


 冷蔵庫の低い音が、静かに続いている。

 換気扇は回っていない。

 鍋もまだ火にかかっていない。


 その手前で、母が野菜を切っていた。


 まな板の上を包丁が進む音。

 規則的で、少しだけ乾いた音。

 人のいる家の音だと思った。


 私は鞄を置いて、制服のままキッチンの入口に立った。


「今日、ご飯食べる」


 母が振り返る。


 一瞬だけ、包丁を持つ手が止まった。

 それから、少しだけ目を細めて笑う。


「早いね」


 声は軽かった。

 驚いた、というより、ちょっと嬉しそうな響きだった。


「なんか、お腹空いた」


「珍しい」


 そう言いながら、母は包丁を置いた。


 私はそのままキッチンに入る。

 床はまだ昼の熱を少しだけ残していて、靴下越しにぬるい。


 母が冷蔵庫を開ける。


 白い光が広がって、棚の奥に並ぶ調味料や卵のパックが見えた。

 私はその隣に立つ。


「何ある?」


「何がいい?」


「何でも」


「それが一番困る」


 そう言って、母が笑う。


 その笑いに合わせるみたいに、私も少しだけ笑った。


 冷蔵庫の中には、半分だけ残った豆腐と、ラップのかかった小鉢と、使いかけのネギがあった。

 母がそれを順番に見て、何かを決めるみたいに頷く。


「じゃあ、簡単なのでいい?」


「うん」


 会話はそれだけなのに、止まらなかった。


 母が野菜室を開ける。

 私は横から皿を取る。


 何も言わなくても、手が自然に動いた。


 棚から皿を2枚出す。

 重ねると、陶器の触れ合う小さな音がした。

 その音を聞いて、母が少しだけこちらを見る。


「ありがと」


「別に」


 そう答えながら、私は皿を流しの横に置いた。


 母が鍋を出す。

 水を入れる。

 火をつける。


 青い火がついて、底の薄い金属がすぐに鳴り始める。

 水の温度が上がっていく音は、目には見えないのに、分かる気がした。


 私は冷蔵庫から麦茶を出す。

 コップを2つ並べる。

 氷を入れると、ガラスの中で軽くぶつかった。


 母は味噌を取り出して、鍋の前に立った。

 私はテーブルに箸を置く。


 置く場所も、向きも、いつの間にか決まっていた。


 夕方のニュースがテレビから流れ始める。

 リビングにいるわけでもないのに、音だけはここまで届く。


 どこかの街の映像。

 聞き慣れたアナウンサーの声。

 その合間に、天気予報の明るい音が混ざる。


「明日、雨だって」


 母が言う。


「うそ」


「今言ってる」


 鍋の湯気が、少しだけ上がる。


 私はテーブルに座って、テレビの方へ顔だけ向けた。

 画面は見えない。

 でも、母も同じ方向を見ているのが分かる。


「じゃあ朝だるいな」


「だるいのはいつもでしょ」


「ひど」


 そう言ったとき、テレビで芸能ニュースに切り替わった。

 誰かの妙なコメントに、母が先に笑う。


 少し遅れて、私も笑った。


 同じタイミングだった気がした。


 母が鍋を運んでくる。

 テーブルの上に置くと、木の表面に少しだけ熱が移った。

 湯気の向こうで、味噌の匂いが広がる。


「熱いから気をつけて」


「分かってる」


 箸を取る。


 向こうでも、同じ音がした。

 ほとんど同時だった。


 私は少しだけ可笑しくなったが、何も言わなかった。

 母もたぶん気づいていたけれど、やっぱり何も言わなかった。


 味噌汁は少しだけ濃かった。

 でも、その日の体にはちょうどよかった。


 ご飯を口に運ぶ。

 茶碗の縁が少しだけ温かい。


「今日、どうだった」


 母が聞く。


「普通」


「普通って何」


「普通は普通」


 母は呆れたみたいに息を吐いて、それからまた少しだけ笑った。


「それで伝わると思ってるのがすごい」


「伝わってるじゃん」


「まあね」


 会話は短い。

 でも、切れない。


 次に何を言うか考えなくても、ちゃんと続いていく。


 明日の授業のこと。

 提出物のこと。

 朝いつ出るか。

 パンがもう無いこと。

 帰りに牛乳を買うかどうか。


 どれも大事な話じゃない。


 でも、どれもちゃんと口に出されて、

 ちゃんと受け取られて、

 そのまま流れていった。


 母が「明日どうする?」と聞いたのは、食べ終わる少し前だった。


「朝、早い?」


 私は少しだけ考える。


 考えてから答える、その数秒の間も、別に気まずくなかった。


「いつも通りでいい」


「じゃあ、先に出るね」


「うん」


 それで決まる。


 湯気は少しずつ薄くなっていく。

 窓の外の光も、いつの間にか弱くなっていた。


 食べ終わった茶碗の底に、少しだけ米粒が残る。

 私は箸でそれを集める。


 母が立ち上がり、皿を重ねる。

 私は自分の分を持って流しまで運ぶ。


 水道の栓をひねると、水の音が立つ。

 さっきまで続いていた会話の代わりみたいに、その音がキッチンに広がった。


 私はその横でコップを置き、

 母は手を動かしながら「麦茶入れといて」と言う。


「はーい」


 そう返して、冷蔵庫を開ける。


 白い光がまた広がる。


 その光の中で、何も特別じゃない夕方が、ちゃんとそこにあった。


 言葉は短かった。

 でも、止まらなかった。


 言葉が流れていた世界は、たぶん、こういうことだった。



 夕方のキッチンで、鍋の音が続いていた。


 小さく、規則的な音。

 沸騰する手前の、水の内側だけが動いているみたいな音だった。


 コンロの前に、母が立っている。


 背中は少し丸く見える。

 丸くなったというより、そこに自然に収まっている形だった。


 換気扇の音は一定で、強くも弱くもない。

 窓は閉まっている。

 外の色は、カーテン越しに薄くなっていた。


「今日、ご飯いる?」


 背中越しに、声が来る。


 大きくない。

 聞き返さなくても分かるくらいの音量。


 冷蔵庫の扉が少しだけ開いたままになっていて、白い光が床の一部を照らしていた。

 中の明かりだけが、妙に明るく見える。


 私はリビングにいた。


 ソファに座って、スマートフォンの画面を見ている。

 指は動いていた。

 何を見ていたのかは、数秒前には分かっていたはずなのに、少しだけ曖昧だった。


 母の声に、一瞬だけ顔を上げる。


 上げた、と思ったあとで、少し遅れてその動作を認識する。


 答えようとしたわけではない。

 ただ、音の方へ視線が向いただけだった。


 そのまま、もう一度、画面に目を落とす。


 声は出ない。


 出そうと思えば出せた。

 「食べる」

 「いらない」

 それだけのことなのに、口は開かなかった。


 鍋の蓋が、小さく鳴る。


 母は聞き返さない。


 コンロの火を、少しだけ弱める。

 その動きは迷いがなくて、何度も繰り返してきた人の手つきだった。


 テレビの音が重なる。


 ニュース番組の司会者が、何かを読んでいる。

 抑揚のない声ではないはずなのに、全体が平らに聞こえる。


 内容は、耳に入れば理解できる。

 でも、今はただ音として流れていた。


 キッチンから、匂いだけが変わっていく。


 味噌の匂い。

 少し焼けた油の匂い。

 湯気に混ざった、やわらかい匂い。


 それで、たぶん今日は汁物と何かを温めているのだと分かる。


 母は皿を出した。


 棚を開ける音。

 陶器の触れ合う音。


 昔は2枚出ていたはずだ、と思う。

 思ったあとで、その記憶が今の光景と重ならないことに気づく。


 一人分だけ並ぶ。


 白い皿が、テーブルの端に静かに置かれる。


 私は動かない。


 ソファに座ったまま、スマートフォンの光だけが手元に残る。


 画面を見ているのに、中身は頭に入っていなかった。

 スクロールした指だけが、先に動いていく。


 キッチンの音が続く。


 鍋の音。

 箸を置く音。

 茶碗の底がテーブルに触れる音。

 冷蔵庫の扉が閉まる音。


 どれも小さい。

 どれも近い。

 どれも、会話の代わりみたいに聞こえる。


 何も起きていない。


 それが、はっきり分かる。


 怒っているわけではない。

 責められているわけでもない。

 困っている人も、泣いている人もいない。


 ただ、何も起きていないまま進んでいる。


 母は一人で食べ始めた。


 テレビの音の向こうで、箸の触れる小さな音がする。

 茶碗が持ち上がって、また置かれる。

 その間隔が、妙に正確だった。


 私は画面を閉じる。


 一瞬だけ、自分の顔が黒いガラスに映る。

 表情は、特に何もなかった。


 部屋の空気は乾いている。

 でも、寒くはない。

 快適なはずの温度の中で、時間だけが少し遅く感じられた。


 食べ終わる気配がする。


 椅子が引かれる音。

 食器が重なる音。


 母が一人で片付けている。


 流しで水が流れる。

 一定の量で、一定の速さで。

 その音だけが、部屋の中に広がる。


 私は立ち上がる。


 スマートフォンを持って、自分の部屋へ戻る。


 廊下は暗くない。

 でも、色が少ない。


 ドアを開ける。

 入る。

 閉める。


 その音が、自分で思っていたよりも軽い。


 ベッドの端に座って、少し遅れてから、自分が何も答えなかったことを思い出す。


 答えなかった。


 でも、聞き返されなかった。


 聞き返されなかった。


 でも、何も壊れなかった。


 そのことに、安心していいのかどうかが、少しだけ遅れて分からなくなる。


 キッチンには、もう誰もいないはずだった。


 それでも、水の音だけが、しばらく続いていた。

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