外伝短編|今日、ご飯いる?
夕方のキッチンは、まだ明るかった。
窓の外に残った光が、すりガラスを通って白く広がっている。
部屋の照明はついていないのに、手元はちゃんと見えた。
冷蔵庫の低い音が、静かに続いている。
換気扇は回っていない。
鍋もまだ火にかかっていない。
その手前で、母が野菜を切っていた。
まな板の上を包丁が進む音。
規則的で、少しだけ乾いた音。
人のいる家の音だと思った。
私は鞄を置いて、制服のままキッチンの入口に立った。
「今日、ご飯食べる」
母が振り返る。
一瞬だけ、包丁を持つ手が止まった。
それから、少しだけ目を細めて笑う。
「早いね」
声は軽かった。
驚いた、というより、ちょっと嬉しそうな響きだった。
「なんか、お腹空いた」
「珍しい」
そう言いながら、母は包丁を置いた。
私はそのままキッチンに入る。
床はまだ昼の熱を少しだけ残していて、靴下越しにぬるい。
母が冷蔵庫を開ける。
白い光が広がって、棚の奥に並ぶ調味料や卵のパックが見えた。
私はその隣に立つ。
「何ある?」
「何がいい?」
「何でも」
「それが一番困る」
そう言って、母が笑う。
その笑いに合わせるみたいに、私も少しだけ笑った。
冷蔵庫の中には、半分だけ残った豆腐と、ラップのかかった小鉢と、使いかけのネギがあった。
母がそれを順番に見て、何かを決めるみたいに頷く。
「じゃあ、簡単なのでいい?」
「うん」
会話はそれだけなのに、止まらなかった。
母が野菜室を開ける。
私は横から皿を取る。
何も言わなくても、手が自然に動いた。
棚から皿を2枚出す。
重ねると、陶器の触れ合う小さな音がした。
その音を聞いて、母が少しだけこちらを見る。
「ありがと」
「別に」
そう答えながら、私は皿を流しの横に置いた。
母が鍋を出す。
水を入れる。
火をつける。
青い火がついて、底の薄い金属がすぐに鳴り始める。
水の温度が上がっていく音は、目には見えないのに、分かる気がした。
私は冷蔵庫から麦茶を出す。
コップを2つ並べる。
氷を入れると、ガラスの中で軽くぶつかった。
母は味噌を取り出して、鍋の前に立った。
私はテーブルに箸を置く。
置く場所も、向きも、いつの間にか決まっていた。
夕方のニュースがテレビから流れ始める。
リビングにいるわけでもないのに、音だけはここまで届く。
どこかの街の映像。
聞き慣れたアナウンサーの声。
その合間に、天気予報の明るい音が混ざる。
「明日、雨だって」
母が言う。
「うそ」
「今言ってる」
鍋の湯気が、少しだけ上がる。
私はテーブルに座って、テレビの方へ顔だけ向けた。
画面は見えない。
でも、母も同じ方向を見ているのが分かる。
「じゃあ朝だるいな」
「だるいのはいつもでしょ」
「ひど」
そう言ったとき、テレビで芸能ニュースに切り替わった。
誰かの妙なコメントに、母が先に笑う。
少し遅れて、私も笑った。
同じタイミングだった気がした。
母が鍋を運んでくる。
テーブルの上に置くと、木の表面に少しだけ熱が移った。
湯気の向こうで、味噌の匂いが広がる。
「熱いから気をつけて」
「分かってる」
箸を取る。
向こうでも、同じ音がした。
ほとんど同時だった。
私は少しだけ可笑しくなったが、何も言わなかった。
母もたぶん気づいていたけれど、やっぱり何も言わなかった。
味噌汁は少しだけ濃かった。
でも、その日の体にはちょうどよかった。
ご飯を口に運ぶ。
茶碗の縁が少しだけ温かい。
「今日、どうだった」
母が聞く。
「普通」
「普通って何」
「普通は普通」
母は呆れたみたいに息を吐いて、それからまた少しだけ笑った。
「それで伝わると思ってるのがすごい」
「伝わってるじゃん」
「まあね」
会話は短い。
でも、切れない。
次に何を言うか考えなくても、ちゃんと続いていく。
明日の授業のこと。
提出物のこと。
朝いつ出るか。
パンがもう無いこと。
帰りに牛乳を買うかどうか。
どれも大事な話じゃない。
でも、どれもちゃんと口に出されて、
ちゃんと受け取られて、
そのまま流れていった。
母が「明日どうする?」と聞いたのは、食べ終わる少し前だった。
「朝、早い?」
私は少しだけ考える。
考えてから答える、その数秒の間も、別に気まずくなかった。
「いつも通りでいい」
「じゃあ、先に出るね」
「うん」
それで決まる。
湯気は少しずつ薄くなっていく。
窓の外の光も、いつの間にか弱くなっていた。
食べ終わった茶碗の底に、少しだけ米粒が残る。
私は箸でそれを集める。
母が立ち上がり、皿を重ねる。
私は自分の分を持って流しまで運ぶ。
水道の栓をひねると、水の音が立つ。
さっきまで続いていた会話の代わりみたいに、その音がキッチンに広がった。
私はその横でコップを置き、
母は手を動かしながら「麦茶入れといて」と言う。
「はーい」
そう返して、冷蔵庫を開ける。
白い光がまた広がる。
その光の中で、何も特別じゃない夕方が、ちゃんとそこにあった。
言葉は短かった。
でも、止まらなかった。
言葉が流れていた世界は、たぶん、こういうことだった。
⸻
夕方のキッチンで、鍋の音が続いていた。
小さく、規則的な音。
沸騰する手前の、水の内側だけが動いているみたいな音だった。
コンロの前に、母が立っている。
背中は少し丸く見える。
丸くなったというより、そこに自然に収まっている形だった。
換気扇の音は一定で、強くも弱くもない。
窓は閉まっている。
外の色は、カーテン越しに薄くなっていた。
「今日、ご飯いる?」
背中越しに、声が来る。
大きくない。
聞き返さなくても分かるくらいの音量。
冷蔵庫の扉が少しだけ開いたままになっていて、白い光が床の一部を照らしていた。
中の明かりだけが、妙に明るく見える。
私はリビングにいた。
ソファに座って、スマートフォンの画面を見ている。
指は動いていた。
何を見ていたのかは、数秒前には分かっていたはずなのに、少しだけ曖昧だった。
母の声に、一瞬だけ顔を上げる。
上げた、と思ったあとで、少し遅れてその動作を認識する。
答えようとしたわけではない。
ただ、音の方へ視線が向いただけだった。
そのまま、もう一度、画面に目を落とす。
声は出ない。
出そうと思えば出せた。
「食べる」
「いらない」
それだけのことなのに、口は開かなかった。
鍋の蓋が、小さく鳴る。
母は聞き返さない。
コンロの火を、少しだけ弱める。
その動きは迷いがなくて、何度も繰り返してきた人の手つきだった。
テレビの音が重なる。
ニュース番組の司会者が、何かを読んでいる。
抑揚のない声ではないはずなのに、全体が平らに聞こえる。
内容は、耳に入れば理解できる。
でも、今はただ音として流れていた。
キッチンから、匂いだけが変わっていく。
味噌の匂い。
少し焼けた油の匂い。
湯気に混ざった、やわらかい匂い。
それで、たぶん今日は汁物と何かを温めているのだと分かる。
母は皿を出した。
棚を開ける音。
陶器の触れ合う音。
昔は2枚出ていたはずだ、と思う。
思ったあとで、その記憶が今の光景と重ならないことに気づく。
一人分だけ並ぶ。
白い皿が、テーブルの端に静かに置かれる。
私は動かない。
ソファに座ったまま、スマートフォンの光だけが手元に残る。
画面を見ているのに、中身は頭に入っていなかった。
スクロールした指だけが、先に動いていく。
キッチンの音が続く。
鍋の音。
箸を置く音。
茶碗の底がテーブルに触れる音。
冷蔵庫の扉が閉まる音。
どれも小さい。
どれも近い。
どれも、会話の代わりみたいに聞こえる。
何も起きていない。
それが、はっきり分かる。
怒っているわけではない。
責められているわけでもない。
困っている人も、泣いている人もいない。
ただ、何も起きていないまま進んでいる。
母は一人で食べ始めた。
テレビの音の向こうで、箸の触れる小さな音がする。
茶碗が持ち上がって、また置かれる。
その間隔が、妙に正確だった。
私は画面を閉じる。
一瞬だけ、自分の顔が黒いガラスに映る。
表情は、特に何もなかった。
部屋の空気は乾いている。
でも、寒くはない。
快適なはずの温度の中で、時間だけが少し遅く感じられた。
食べ終わる気配がする。
椅子が引かれる音。
食器が重なる音。
母が一人で片付けている。
流しで水が流れる。
一定の量で、一定の速さで。
その音だけが、部屋の中に広がる。
私は立ち上がる。
スマートフォンを持って、自分の部屋へ戻る。
廊下は暗くない。
でも、色が少ない。
ドアを開ける。
入る。
閉める。
その音が、自分で思っていたよりも軽い。
ベッドの端に座って、少し遅れてから、自分が何も答えなかったことを思い出す。
答えなかった。
でも、聞き返されなかった。
聞き返されなかった。
でも、何も壊れなかった。
そのことに、安心していいのかどうかが、少しだけ遅れて分からなくなる。
キッチンには、もう誰もいないはずだった。
それでも、水の音だけが、しばらく続いていた。




