小川佐太郎の失策(新選組些末記/隊士落命記より)
慶応二年二月。
京の街は、底冷えのする沈黙に包まれていた。
夜明けの鴨川には薄氷が張り、川霧が白く立ち上る。
北山おろしが吹くたび、辻の灯籠はかすかに揺れ、軒先に吊るされた干し大根が、からからと乾いた音を立てた。
先月、薩摩と長州が紆余曲折の末、密かに手を結んだという噂が広まって以来、都の空気は張り詰めた糸のように、いつ切れてもおかしくない。
辻々では瓦版がひそやかに売られ、
「次は長州じゃ」
「いや、京が火の海になる」
そんな囁きが、湯気の立つ鍋屋の暖簾の奥へと吸い込まれていった。
再び長州再征の沙汰が下るのではないか。
そんな不安が、町人たちの胸の底で澱のように沈んでいた。
米の値は跳ね上がり、庶民の不満は凍りついた雪の下で、きしきしと音を立てて膨らんでいる。
西本願寺を屯所とする新選組もまた、この不穏な世情に釣れて、
「誠」という名の頸木を、さらにきつく締め上げていた。
局中法度は、剣よりも鋭く、隊士たちの喉元へと突きつけられている。
その日、五番組の新米平隊士・小川佐太郎は、組長の武田観柳斎に呼び止められた。
扇子で口元を隠し、妙に女性的な物腰で歩み寄る観柳斎は、微笑みの奥に冷たい計算を隠している男だった。
「小川さん、ちょっといい?島原で、鹿恋女郎が男に包丁を振り回してるそうなの。どうせくだらない痴話喧嘩に決まってるから、あんた一人で充分でしょ。適当に収めてきなさい」
弘化二年生まれ、二十一歳。
美濃の寒村から、剣一つで身を立てる夢を抱いて京へ出てきたばかりの佐太郎は、その言葉を疑わなかった。
それが、死への片道切符だとも知らずに。
島原大門をくぐった途端、佐太郎の目に飛び込んできたのは、常軌を逸した光景だった。
「このエセ文士!殺したる!」
小千代という女郎が、出刃包丁を振りかざし、通りの隅で腰を引いた中年の男に斬りかかっている。
男の足元には、描きかけの挿絵と、墨の乾かぬ草稿が散らばっていた。
「や、やめないか!」
佐太郎が慌てて間に割って入った、その瞬間。
刃が空を裂き、鈍い感触が頭皮をかすめた。
「あら…」
小千代が小さく声を漏らす。
佐太郎の自慢だった見事な総髪が、根元からばっさりと斬り落とされていた。
「…すんまへん。手ぇが滑ってしもて」
「スンマヘンで済むか!もう少し手元が狂っていたら首が飛んでいるところだ!」
そう言ってから、遅れて寒気が来た。
平静を装いながら、佐太郎は残った髪を引っ詰め、なんとか頭頂で結い直した。
だが出来上がった姿を見た小千代は、先刻の剣幕も忘れ、腹を抱えて笑い出した。
「あはは!何それ、聖護院大根の葉っぱみたいやないの」
佐太郎は上擦りそうになる声を必死に抑えた。
「…お前は笑っていい立場じゃないぞ。喧嘩の理由次第じゃ引っ立ててやるからな」
理由を問われた小千代は、またぞろ怒りが蘇ってきたらしく、懐から一冊の絵草紙を叩きつけた。
表紙には、墨も生々しく『出口柳地獄鍋草紙』とある。
「ほな、これ見とくれやす。ここ!どない思わはります?」
挿絵を指さし、小千代が叫ぶ。
「この胡蝶言う鹿恋女郎、うちそっくりや思えへん?」
「いやしかし…美人画の顔なんて、みんな似たようなもんだろ?」
「どこがやの!見とおみ、この泣き黒子!この長襦袢の絵羽模様!ほれ、どない見ても、そのまんまどすやろ?!」
「おいおい、待ちなさい。私は戯作者に過ぎん」
中年男が、妙に尊大ぶった声で口を挟んできた。
――三代目佐藤魚丸。
「絵師が勝手に描いたんだ。偶然だよ」
肩をすくめ、空とぼけてみせる。
「へえ。ほな、ここは?どない言い訳しはるつもりどす?」
小千代は声を荒らげた。
「色事の最中に情夫が踏み込んできて、客の尻を包丁で刺す話。先月、ほんまにあった騒ぎどす!」
「そんなの、郭じゃよくある修羅場じゃないか」
「ほな!ほな、次は?」
小千代はにじり寄る。
「怒った女が包丁取り上げて、情夫の目玉くり抜いとるやないの。こんなん、どう考えてもうちの話や!」
佐太郎は思わず後ずさった。
「……ちょ、ちょっと待て。こ、これも本当に…?」
「奉行所では『ちょっとやりすぎ』言うて、少々お叱りを受けただけどす」
小千代は吐き捨てるように言った。
昨今は奉行所も男女の諍いになどいちいち構っていられないのか、ずいぶん雑な裁定だ。
「せやのに、この男はそのネタで大儲け。うちには一文も入れへんとか、そないな話、通る思わはる?」
魚丸は胸を張る。
「手慰みながら、私の作品だからな」
「うちの寝物語をそっくりそのまま書き写しただけどす!このスケベ三文作家!」
佐太郎は呆れて魚丸を見た。
「……なんだ。あんたも客かよ」
「それがなにか?」
魚丸は平然と言ってのけた。
「私の話では、そのあと女は残った目玉もくり抜いて、鴨鍋で煮て食うことになっている。そこは私の創作だ」
「はあ!?」
小千代の声が跳ね上がった。
「世間では、うちがほんまに目玉食べた女や思われとるんどすえ。怖がって客も寄りつけへん。これ、営業妨害どすやろ? お侍さんかて、そう思わはらへん?」
詰め寄られ、佐太郎は冷や汗をかいた。
――勝手ニ訴訟取扱不可
局中法度のあの条文が、冷たい刃の形で胸に浮かぶ。
しかし、気づいた時には口を滑らせていた。
「……で、あんたはいくら欲しいんだ」
「儲けの五分は貰わな割に合わん!」
「で?魚丸先生は、実際いくら儲けたんだ?」
「聞きたいか?」
魚丸が耳打ちした額に、佐太郎は息を呑む。
喉がひとつ、鳴った。
美濃の両親に、何年も仕送りできる金だ。
しかも、今年は米の出来を気にせずに済む。
――戻れば、剣の稽古。
――巡察。
――寒村で待つ、年老いた父と母の顔。
今年もまた削るように送ったわずかな金。
それらを一瞬で振り払うように、佐太郎は唇を噛んだ。
「…これは例えばの話だが。新選組の内幕を少し話せば?」
魚丸は地面に散らばった草稿に目を落とし、薄く笑った。
「売れるかもな。誠の剣客の裏話ほど、脂の乗る鍋はない」
その夜以来、佐太郎は魚丸と密会を重ね、
この滑稽な幕府末期の狂騒について、知り得た裏事情を少しずつ漏らしていった。
――これは、組長の命令の延長だ、と自分に言い聞かせながら。
三代目佐藤魚丸の新作は飛ぶように売れた。
そして、その一冊が読書家である武田観柳斎の目に留まるのは、当然の帰結だった。
屯所の一室。
観柳斎は絵草紙を突きつけ、妙に平板な声で問いかけた。
「小川さん。これ、この『信太郎』って、あんたのことよね?」
佐太郎は喉を鳴らし、引きつった笑みを浮かべた。
「まさか。これは、その、巷で言われとる新選組の評判を寄せ集めた人物でしょう。戯作者の創作ですよ」
自分でも無理のある理屈だと分かっている声だった。
観柳斎は、苦しい弁明を咎めもせず、ただ扇子の先で挿絵の一点を静かに示した。
「聖護院大根みたいな髷。こんな野暮ったい頭、ほかにいるかしら」
逃げ場はなかった。
「…先生、見逃してもらえませんか。この程度で切腹なんて、あまりにも…」
小川は、ほとんど呻くように哀願した。
「あらあら、今さら泣き落とし?いい?法度ってのは、裁かれる者のためにあるんじゃないのよ?」
観柳斎は微笑んだ。
「それを見た人間が、自分を戒めるためにあるの」
慶応二年二月十八日。
佐太郎は髷を解かれ、床に落ちた元結を見つめる。
――ああ、あれは笑い話じゃなかったのか。
短刀が腹に沈み、血が畳に滲んだ。
享年二十一。
数日後、島原。
小千代と魚丸は、褥の中で、絵草子の次回作について話していた。
「なあ、先生。この話のつづきやけど」
小千代は甘い声で囁いた。
「胡蝶と信太郎の悲恋もんにするのは、どない?」
魚丸はうつ伏せのまま、キセルをプカリと吹かす。
「恋に殉じて法度を破り、散りゆく若侍、か……西鶴の二番煎じだが、まあよかろう…」
そして、戯れにキセルをくるりと回し、付け足した。
「…聖護院大根地獄心中、てなところか」
「なんや、垢ぬけんお題やなあ」
京雀たちの間で、まことしやかな噂が流れた。
「あの心中ものに出てくる大根侍は、新選組の隊士らしいで」
「ほう、誰や?」
「さあなあ?どっちにしても、とうに腹を切らされとるやろ」
鴨鍋の脂のように、欲望と嘘が煮え立つ都で、
小川佐太郎という名は、
笑い話に溶けて、跡形もなく消えていった。
今回はchatGPTとGeminiを使ってみました。やっぱ文章上手いわ~。でも気になるところ修正してたら時間は手書きよりかかるかも…。
あといちおう、他の作品はオーガニックですから。




