第29話 存在の境界 ― 失われた記憶の海
……冷たい。
けれど、それは“冷たさ”という感覚さえ曖昧だった。
目を開けても、何もない。
空も、大地も、音さえも存在しない。
そこにあるのは、無限に広がる白い空間――
いや、白ですらない。“色の概念”を失った何か。
「……ここは……どこだ?」
声を出したはずなのに、自分の声が聞こえない。
喉が震えた感覚はある。
だが、音が世界に届かない。
まるで、世界そのものが聴くことを拒絶しているようだった。
俺は手を見た。
指が、ゆっくりと透けている。
皮膚の下にあるはずの骨が淡く光り、
その光も、次第に滲んでいく。
「……リオン? エリシア?」
呼んでも返事はない。
彼らの名前の“響き”が、すでに記憶の中でぼやけていく。
――誰だ、それは?
胸がざわつく。
知っているはずの人の顔が思い出せない。
俺は歩き出した。
地面はない。けれど、歩ける。
前も後ろもわからないが、それでも歩かないと“消えてしまう”気がした。
足音がない。
影もない。
ただ、俺という“概念”が、世界に微かに残っている。
(……これが、虚無の中か。)
ニヒルの声が頭に響く。
――ようこそ、“存在の境界”へ。
ここは、在るものと無きものの狭間。
お前が存在である限り、ここでは苦痛を感じ続ける。
「……苦痛?」
――“思い出す”ことが苦しみになるのだ。
なぜなら、思い出すたびに、存在は形を失うからな。
その言葉に呼応するように、視界の端で“何か”が揺らいだ。
そこに――エリシアがいた。
けれど、彼女は“形”を保てていなかった。
髪が風のように流れ、顔が水に溶けるように揺らいでいる。
「ユウマ……?」
声が霞んでいる。
一音ごとに、彼女の存在が淡くなっていく。
「エリシア! しっかりしろ!」
俺は駆け寄った。だが、抱きしめた感触がない。
腕がすり抜けた。
――触れることはできない。
“存在”が確定しない者同士は、交わることすら許されぬ。
「黙れ、ニヒル!」
俺は叫んだ――はずだ。
けれど、声は空間に吸い込まれて消える。
――なぜ怒る?
怒りは、生きている証拠。
だがその“生”も、やがて意味を失う。
お前は創造を誇った。
ならば創れ。
“何もない世界”に、何を生み出せる?
「そんなもの……!」
答えようとして、言葉が途切れた。
“創る”という概念そのものが、指の間から零れ落ちていく。
頭の中が霞む。
なぜ、俺は“創る”ことを信じていた?
誰のために?
なぜ戦ってきた?
リオン――
その名前が、脳裏を掠める。
けれど、すぐに霧のように溶けた。
「……やめろ……!」
足元の白い空間が波打ち、そこから黒い影が立ち上がる。
それは、俺自身の姿をしていた。
――お前は、存在の意味を見失った。
ならば、私が“終わり”を与えよう。
俺は剣を構えた。
いや、構えた“つもり”だった。
手の中にあった剣が、ゆっくりと崩れ、
灰のように空気へと消えていく。
「……俺の、剣……」
――この世界では、“形”は意味を持たない。
あるのはただ、“意思”だけだ。
虚無神の声が響くたび、思考が揺らぐ。
自分という輪郭が削られていく。
(俺は……誰だ……?)
気づけば、エリシアの姿も消えていた。
声も、匂いも、思い出も――全てが空白になっていく。
残ったのはただ一つ、胸の奥の微かな“熱”だった。
(……それでも、消えたくない。)
理由はわからない。
けれど、この感情だけは本物だった。
それが何かの名前なのか、誰かへの想いなのかすら、もう思い出せない。
それでも――その“想い”が、まだ俺をここに繋ぎ止めていた。
――愚かだな。
“無”の中で抗うことほど、無意味な行為はない。
「無意味でも……構わない。
俺は、“意味”を創る側だ。」
その瞬間、虚無の白が、微かに震えた。
微かな光が――闇の底で、ゆっくりと灯る。




