全ての始まり
「じゃあ、お先に失礼します!」
時刻は20:25分、俺はタイムカードを打刻すると閉店準備をする同僚たちに挨拶をし帆布のトートバッグを肩にかけて閉店後のホームセンターの薄暗い駐輪場へと向かった。
我が愛車「ハンターカブ」のシートに跨りスマホを取り出してリダイヤルする。
数度のコール音の後、通話の相手が出るなり
『お兄ぃ、遅い!早く来てくれないとお風呂入れないんだからね!』
妹の鈴香の俺を責めるかのような声が耳に響く。
「おい!すぅ!これでも閉店作業抜けてきてるんだからな!?みんなに迷惑かけてるのにそんな言い方ないだろ!?」
「お客サマの所に商品届けるようなもんだし、いいじゃん?あ、代金は来月まで待ってね、今月ちょっと厳しいんだ♪じゃ、早くね。」
「すぅ」は言いたいことだけ言うと一方的に通話を終了する。
「まったく、あいつときたら・・・。」
我儘な妹に振り回された俺はスマホをポーチにしまい込み、エンジンを始動させて駐輪場からバイパスへとハンターカブを走らせる。
交通量の少ないバイパスを妹の住むアパートへと愛車で向かう道すがら、今夜の月が妙に紅いのに気が付いた。
『紅い月は地震の前兆とか言うけど、最近地震が多いのに関係あるのか?』
昨今、日本に限らず世界的規模で地震が頻発しているのだが、南海トラフとかの大きな地震の前触れの様に煽る報道の所為もあって、万一の為の防災グッズが売れまくって品薄状態が続いている。
俺の職場であるホームセンターでも特に防災グッズを纏めた「防災セット」の予約注文者が増えており、妹もその予約者のうちの1人だった。
本日ようやく入荷したのを知らせると『仕事帰りに持ってきて』とか宣いやがる。俺のアパートと妹のアパートは職場を挟んで反対方向に10km位離れてる事もあり、次の休みにでも持って行くと言ったら
『今日地震が起きて可愛い妹が被災したらどうすんのよ!?』
とか言われて内心そんな事ある訳ないだろう、とか思ってたんだがこの月の紅さはちょっと気にはなるな。
川沿いの街灯の少ないバイパスを走る途中、前照灯に照らされた道路上の小さな物体に気がついた。
『・・・あちゃぁ、見た以上無視は出来ないよなぁ・・・。』
俺は愛車を減速させて路肩に停車させ、問題の物体に目を向ける。それはすでに冷たくなった子ネコの死体だった。タイヤで轢かれた訳ではなくバンパーにでもぶつかって死んだのであろうその子ネコの死体は割とキレイで、鼻から血が出ているのを除けば寝ているだけの様に見えなくもない。
死体を丁寧に抱えた俺は道路の向こう側の土手の法面まで歩き、落ちていた木切れを見つけると柔らかそうな地面を掘り子ネコの死体を丁寧に埋めた。
『今度生まれてくるときはこんな事故に合わないようにな。』
そして土手側からバイクを止めた路肩へ戻る為、道路を渡ろうとふと視線を正面に向けた瞬間。
『・・・あ。』
紅い月の光に照らされて暗い杜を背景に幾つもの丹い鳥居が並ぶ幻想的な風景に目を奪われた。
『こんなところにお稲荷様があったのか・・・。』
バイクを停めた時には子ネコに気を取られ気付かなかったが、そこは稲荷神社の鳥居のすぐそばだったようだ。道路を渡りバイクの傍らでお稲荷様に向って手を合わせ、改めて子ネコの冥福を祈った。
―その時、スマホから不快な大音量の警報が鳴り響いた。
『地震警報!』
間もなく地震が起きる事を知らせる警報に俺は思わず鳥居の下へと駆け出した。
古くから在る神社仏閣は強固な地盤の上に建てられている事が多く、幾度の地震に耐えてきた実績があり震災に対しては安全な場所と言える。そんな知識が頭によぎり安全を求めて稲荷神社の境内に走ったと云うよりも、何故か境内に向かわなければいけないような強迫観念のような思いに突き動かされて、気付いた時には走っていた。
幾つも連なる鳥居を抜け、境内に入った瞬間に足元の地面が大きく揺れ、体が宙を舞う感覚に襲われた。そのまま上下の感覚も失われ自分が落下しているのか上昇しているのかの判別も出来ないまま意識が暗転していった。
深い眠りから覚めたような感覚で気が付いた時には木々に囲われた青空が目に飛び込んできた。そこは気を失う直前に居た稲荷神社の境内ではなくうっそうと茂る森の中、いや地面が傾斜している事から山の中の様だった。
『なんでこんなところに・・・?』
時間も宵の内だったはずなのに現在は夕方にはまだ早い時間帯の様だ。体を起こしながら状況を確認する、荷物は肩から下げたままだし財布、スマホ等の所持品もそのまま、ケガ等も特にはない様だ。スマホの時間を確認すると16時前と解った。
電波は・・・届いていないか、こんな山の中だしな。マップアプリを開くが何かおかしい・・・。
『GPSを拾ってない!?』
電波は兎も角、空が見えている状況でGPSが拾えない事があるはずがない!
そう、地球上ではどこに居ようと拾えるGPSが拾えていない。これの意味するところは『ここは元居た世界、時間軸ではない』と言う事か?
そう認識して真っ先に思い浮かんだのは『天狗攫い』、一般的に『神隠し』と呼ばれる現象だった。
『神隠し』、昔住んでいた長野のばあちゃんの家の近くに「天狗」が棲んでいると言われている山があり、なにか事ある毎に『天狗様に攫われて神隠しに遭うぞ』と脅かされていた記憶が蘇る。神隠しに遭った者は数か月から数年して元の世界に帰されると言われており、「異世界転移」と云う現象をすぐに思い浮かべなかったのは『神隠し』ならいつかは帰れるだろうという淡い希望を無意識に抱いていた故なのかもしれない。
まぁ、こんな山の中で色々考えていたところで何も進展しない、まずはどこか人の居そうな場所に辿りつかなくては・・・。しかしこの場所を離れて良いのだろうかとも不安にもなった。転移してきたこの場所に意味があり、この場所からしか元の世界に戻れない可能性もあるのではないだろうか?かと言って夜にこんな山の中にいる事自体が非常に危険であることも事実だ。一旦ここを離れるにしても後でここに戻れるようこの場所の目印をつけて置いた方がいいだろう、そう考えて周りを見渡す。
すると、すぐ傍の斜面に白い岩の塊があるのを見つけた。岩と言っても斜面に埋もれている訳ではなく、台座のような平たい石の上に建てられた人造物のようだ。大きさは高さ1m位で表面は風化している為か形状がはっきりしない、元は何かを模った像だったのではないのか?とにかく目印には丁度良い、信仰の対象だった可能性もあるし、一応手を合わせておくことにした。
『どういう訳かこの場に来てしまいましたが、特にケガもなくこの場に居られる事を感謝します、出来ればこれからも無事である事を願います。』
小さなころから信心深いばあちゃんに言い聞かせられていた事がある。
世の中には八百万の神様達が居られて、そのお力も様々で天変地異を引き起こす程の大きな力を持つ神様から小さな現象を操る程度の力しかない神様もおられる。
そして神様にお願いをする時にはただ願うだけでなく、自らその願いが実現するように努力を惜しまないことが大切で、努力を重ねてもあと少し届かないというときにそれまでの努力を見ていた神様が足りない分だけあと少しの力を与えてくださる。
反対に願うだけで努力をしない者には逆に試練を与える神様もおられるから、願う際には相応の努力をしなければならない、と。
西洋の言葉にも『天は自ら助くる者を助く』とあり、自分で動かなければ願いは叶わないというのは世界共通認識なのだろう、それならこの『異世界』でも自分で努力しなければいけないのは同じはずだ。
俺は『元の世界に戻る』という目的のために自分で出来る事は惜しまずにするという決意を新たに、その石像のある場所を後にした。
それからしばらくは以前は街道のような道であったのであろう山道を下って行った。
今は全く手入れされておらず雑草が生え放題だが地面は固く踏みしめられていた所為か結構歩き易い、その為か思っていたより早く麓に辿り着きつつあるのか周りの木々も徐々にまばらになってきていた。
『・・・ん?人の声?』
進行方向から人の声が聞こえた気がした、そろそろ人里に辿り着く頃合いかと思ったのもつかの間、その人の声が切羽詰まっている事に気づいた。
目を凝らすと前方で何かが動いている、あれは熊?と・・・小さな女の子だ!
『熊に襲われているのか!!?』
四つ足の状態で体高で1.0m位か、結構大きな熊からその小さな体を大きな樹の幹を挟んで反対側になるよう必死に逃げ惑う女の子。
『な、何か武器になるようなものは・・・。』
あいにくそんな物が都合よく落ちているはずもなく、持っているもので何か出来ないか考えて・・・ええい!イチかバチかだ!
スマホに入れていた『警報音』アラームアプリ、起動すれば大音量でサイレンの音が鳴り響くというヤツだ、それを起動すると同時に熊を目掛けて走り出す。
『うおおおおおおおおおお!』
サイレンの大音量と共に叫びながら熊の注意を引き付けるように走る。この世界で初めて聞くであろう音色の大音量に驚いた熊が女の子から10m程距離を取った。明らかに警戒、困惑しているようだ、俺は熊と対峙しながら女の子を熊の視界から隠すように背中側へとかばう、激しく点滅するLEDを熊の方へ突きつけるようにスマホをかざす。熊は困惑しているのかこちらを向いたまま少しづつ後退していく。
『よし、そのまま向こうへ行け!』
そう願いつつスマホを熊に突きつけるも、すぐに熊の後退が止まった。
『!』
こちらが妙な音を鳴らすだけで危険が無いと見たのか、熊はゆっくりとこちらへ近づき始めた。少しづつ、少しづつ、こちらが変な動きをしないか確かめるかのように近づいてくる。
『・・・・駄目なのか!?』
背中に隠した女の子は必死にしがみついている、なんとかこの子だけでも助かる方法はないか、必死で頭を働かそうとするものの何も思いつかない。それどころか非現実的な「死」が目前に迫っている事実を前に一体なぜこんな事になっているのか、目の前にいる動物は何なのか、自分が何を考えているのかすら解らなくなっていた。死を目前にパニックになりかけたその時。
・・・・熊の動きが止まった?
一気に我に返り状況を理解しようとすると、熊は俺たちの後方に気を取られている様だ。後方で何かが草を踏みしめ近づくような音がしているのに気づく。
熊は俺たちの存在など忘れたかのように急いで距離をとると、一旦後方を確認した後に脱兎のごとく走り去った。
・・・熊は去った。が、あの熊が明らかに怯えるような存在が俺たちの後方に居るという事実は動かない。熊よりヤバイ奴・・・、一体どんな奴なのか?命の危険のさなかに居る事は変わりなく、全く動けないままでいたのだが・・・。
気付いた時には後方の危険な存在もいつの間にかいなくなっていた。
一体、今のはなんだったのだろう?
ふと後ろを振り向くと泣き顔で固まっていた女の子と目が合った。改めて観ると10歳位の金髪でそばかすの有るかわいらしい子だ、明らかに日本人ではない。
「・・・もう大丈夫みたいだよ?」
努めて優しく日本語で話しかけると、女の子の目にみるみる涙が溢れて
「・・・・怖かったよぉぉ」
と、再びしがみついて泣き出した、。
『よかった、言葉は通じるみたいだ。』
俺は熊の危険から逃れられた事と、こちらの世界でも言葉が通じるという事実に心から安堵した。