【3】 真夜中のドライブ
少し前から、母は旅行番組を好んでつけるようになった。ただ、終わると出る溜息も恒例に。たぶん無意識に吐いている。父は初めチラチラ、その後は見ぬふり。でも私に言わせれば、この姿は半年前にも……だった。
「清水さん、ご夫婦で娘さんの所へ行って、帰りに〇△■温泉に入ってきたんですって。緑がとってもきれいだったって奥さんが。お湯も良かったみたいですよ。電車で二時間ちょっとで行けるんですって」
あの時父は「ああ、そうか」で立ち去っていた。
(『今度行ってみるかの一言くらい』……)
しかし、あの日の母を知らない父は、いつの間にかこの場から消え、溜息は気持深くなった。
それがある日、珍しく一緒にエンディングまで。
(少しは何か感じたか)
が、ところがどっこい、だった。
母の目が画面から離れるなり
「そんなに行きたいなら、どこへでも行って来たらいい」
と、とんでもな尊大暴言。母は一瞬キョトン。が、すぐ心外を。
「あなた一人じゃ、お茶だって……」
言えない気持ちを険しい目で訴えた。なのに父は
「『行って来ていい』と言っているのに。まったくお前にはかわい気というものがっ」と、救いのない上塗り。
(もうダメ……)
早々部屋を出ようと立つと、地元関連のニュースが流れ『――桃端彰彦氏の関与も――』と聞こえた。
「あれ?今、『桃端』って?」
合わせたように声は止んだ。
「彰彦氏って誰?」
「桃端セメントの社長さん。あそこ〈池央〉のご親戚よ」
切り替え上手の母が答えてくれた。と、いきなり
「今度は桃端かっ」
そして襖をビシャリっ。わからないが彰彦氏が油になったか……。
「ねぇ、その人ハンサム?」
と聞いてみた。
「ええ。スーツがお似合いになるなかなかの好男子よ。奥様の関係で婦人会にお見えになると輪ができるわ」
「父さんにその話した?」
「したわ。だってあんなに似合う方、初めて見たのよ」
……なワケだ。
「入江の多依子さんが奥様と親しいのよ。奥様は有名な代議士さんの御親戚ですって。お子様が二人いらして、お一人は留学中だそうよ。その方のところへ、もう一人の方と遊びに行かれるって先週お聞きしたから、もしかしたら、今行かれているのかもしれないわね」
母の言葉のどこかに羨望があるなら父とどっこい。でも、どこにも。それどころか、密かに切望しているのは夫と二人の温泉旅行。もちろん、たまには自分も知り合い達に同じ話題を提供したいとの思いもあるだろう。でも、それを差し引いてもこの母は、頼まれても行きたくないと言われるタイプの父と、敢えて"行きたい"と言う奇特な人だ。それを「かわい気がない」――はない。
その後、二人は膠着状態に。しかし、父を刺激した桃端氏には節目が訪れていた。
ある朝、父がいつものローカルラジオをなぜか大音量に。耳でも悪くなったのかと驚いたが、実は、台所にいる母に聞かせるためだった。男性アナウンサーの声が転落事故のニュースを伝えていた。
「――繰り返します。今日未明〇〇県〇〇川の河川敷に、男性が倒れていると付近の旅館から通報がありました。その後男性は搬送先の病院で死亡が確認されました。又、先程続報が入り、この男性は△△県に本社のあるセメント会社社長桃端彰彦さんと見られています。桃端さんは通報先の――」
何度も繰り返す声に聞き違える余地はなく、朝飯も早々に母は入江さんに電話。そんな母を父はチラっチラっ。
******
あれから、母のところへはよく電話がかかって来る。しかし、何かが決まった話は聞かない。そんなある日の午後、険悪臭を察知してか最近なりを潜めていた隣の息子さんからメッセージが来た。
――明日、空けといて――
鬱々逃れにはグッドタイミングだった。すぐOKと返し、朝から出る気満々で準備。ところが寝る前にもう一報が。
――二時に迎えに行く。ちょっと早いががんばってくれ――
二時? 早い?……早すぎる!しかし、有無を言わさずホントに丑三つ時に来た。
「急なことで悪かったな」
眠れた時間は三時間足らず。横顔には枕の段々跡。化粧のりなんかっ……。なのにその一言だけかっ?!。
「まさか、心霊スポット巡りじゃないわよねっ」
「違うよ」
「じゃあ、なんでこんな時間なのっ」
「ちょっと遠くへ行くんだ。山越えて」
「仕事よねっ」
「そう。今日は三食昼寝付きだ。着いたら話すよ」
語気の挑発なんてなんのその。悠々とインター方面へハンドルを切った。こういう時、五歳差は悲しいくらい大きい。
(これ以上は何を聞いても……)
不本意ながらあくびの度にキキキは消沈、オレンジ色の照明に“おやすみなさい”と手を振られた。
振動が途切れ目が覚めた。
「朝飯食べるぞ」
さっさとドアをバタン。服のしわを伸ばしながら出ると、褪せ始めた夜色に三台の大型車。のこのこ付いて行くと、電燈を蛾が巻いていた。
「何にする?」
ノブ兄はすぐに大盛カツカレーに決めた。でも私は……。「お前、それだけでいいの?」と言われたが、おむすび一個が限界だった。
しばらくして外に出ると、みんなお日様に変えられていた。
「下りた時、ラッシュにぶつかるのはゴメンだ」
走りだすとスピードを上げ、意図通りに市街地を抜けた。やがて、ゴルフ場の看板が畑中の彼方此方に。しばらく行くと右折。上り坂に入った。
(こういうトコって狸が飛び出て来るんじゃ……)
ちょっとビクっていると、いきなり広い駐車場がバーン。向こうには大きな建物もあった。車は端に一台だけ。
(ノブ兄も停めるなら端だな)
するとスーッと縦列の真後ろへ。
(あたりっ!)
ところが、こちらが満足した隙にまたさっさと降車。「着いたら話す」を聞き逃し、追い降りると前のドアがガチャリ。
「あーちゃん、朝からワルイね」
聞き覚えのある声が代弁してくれた。
二人について石段、小道を行くと、どっしりした構えの建物裏に。きっと名のある神社だ。ところが、裏口らしき場所から上がり事務員らしき男性に案内され進むと、広い廊下で待っていたのは袴の神官ではなく和服の女性。その女性はサブさんと面識があるらしく、二言三言交わし私たちの方へ。
「ようこそいらっしゃいました。本日はよろしくお願い致します」
深々と頭を下げた。
二人の後をノブ兄と。結い上げた髪、覗くうなじ、随分艶のある巫女さんだ……。この感じだとドアの向こうはダウンライトか半円ソファーが似合うから、やっているのは占いか降ろし。先に疑念が……。と、横から「あの女性は旅館の女将」の声。
「……旅館なの?ここ」
「そう。結構有名」
「……」
「桃端セメントの話知ってるか」
「社長さんが亡くなった話?」
目を合わせるとノブ兄は足を速めた。
階段を上り踊場へ。女将が脇のドアを開けると細長い通路が続いていた。側面は総ガラスで下は木木雲。こんもり見えるが落ちたら――梢は刃に変わるだろう。前を見ると女将の着物の腰下に敷物の緋色がユラユラ、と、視界がぼやけキーンと耳鳴り。
通路を出ると、ちょっとした坪庭があり奥にドアがあった。
「お入りください」
女将が後ろにすーっと立った。
先に入ったサブさんは二間続きの奥の窓を全開に。「あの辺り」とノブ兄に指した。
「それにしても、高いなぁ」
「三階の屋上レベル」
「これじゃあ――」
ノブ兄が言いかけた時
「自殺と断定されたのですか」
女将が言葉を入れた。
「いいえ、まだです」
サブさんは向き直った。
桃端社長は少し前に、公私共に信頼していた友に妹と姪を殺されていた。、そして今は自身に汚職の嫌疑が。母の言うには家族は現在海外とのこと。普通に考えれば自死……のはず……。
下を見る気はしないので香炉の置れた床の間に目を。すると女将がまたすーっと。
「こちらに何か?」
女優顔に薄化粧。とっさに今は外されている掛け軸について尋ねると「清流に緋鯉の絵です」と。瞬間、そこに緋鯉が浮かび苦しそうに体をよじった。
――ザー――
サブさんが手前の部屋の窓も開け「ここからじゃ無理だろう?」とノブ兄に。風が通り香煙の中にクチナシの匂いが混じった。
「お庭にクチナシがあるんですね」
何気なく聞くと、女将は「いいえ」と首を。
「それでは近くに。ここまで匂うなんて、かなり大きな木なんですね」
すると
「あの……」
で沈黙。窓辺にいた二人が振り返り、ノブ兄が「クチナシ?」と聞いた。
「そう。この辺、匂いがしてる」
二人がやって来た。
ウロウロしながら
「クチナシは、あったんですか?」
とサブさん。
「はい。上流の山の中に」
と女将。
(何?私が聞いたのは、今してるこの匂いなんだけど……)
ノブ兄と目が合った。
その時、部屋の外でチャイム。
「申し訳ありません。そろそろお客様が。鍵をお預けいたします」
しかしサブさんは「僕らもそろそろ」と、一緒に部屋を出た。
駐車場へ戻るとサブさんは「俺はもう少し仕事して帰るわ」と言って上着を車内に。「あーちゃん、またねっ」笑いかけた。
こっちも乗ろうとすると、お腹が″グッグ―″。ノブ兄は、ビックリ目のあと無言でニタっ。
(早出のせいだっ!)
しかし私も笑った。
ハンバーガーショップでの温情休憩後インターへ。立て直しを計り聞いた。
「ねぇ。本当は何しに来たのよ」
「サブが『一緒に見てくれ』って言ったろうが」
「ホントそれだけ?」
返答はなく、携帯の着信音だけがやたらと鳴っていた。
ピークは過ぎたと思われる頃、マイクロバスが行き交うパーキングへ。しかし、座れはしたがなかなか運ばれて来なかった。キョロキョロしていると前から小声が。
「桃端社長は即死でさ、現場の状況から、転落死と断定された。丁度宿泊部屋の下付近だったから、部屋の窓からだろうということになった。汚職の件もあったから関連捜査もされた。でも何も出ず、自殺か事故かとなったんだ。あの女将は、桃端社長を目撃した最後の人物で、徹頭徹尾自殺を否定していたそうだ。そんな時、サブが社長の携帯の中に、変わった写真を見つけたんだよ。例の河川敷が三枚。『そのどれもにぼやけた煙のようなものが写っている』とサブは言ってた。それでサブはあの女将に、社長が下の河原のことを何か言っていなかったか聞いたんだそうだ。すると女将は『下の河原に女性を見かけるが、川へはどうやって下りるのか』と聞かれ、だが近辺からは下りられないので見間違えではないかと言うと、桃端さんは『ここ二、三日毎日見てる』と言ったと話したそうだ。女将が『絶対とは言えないが川へ下りる道はない』と言うので、サブはピンと来て、お前を連れて来てくれって言ったんだ」
「そんなこと言われても」
こちらも小声に。その時やっと運ばれて来た。すると、私の御膳を見るなり「お前そんなに食べられるの?」と。それでミニ天重を半分に。なおもお蕎麦もチラ見。でも、それは気づかぬふり。
「あそこで気になったのは、女将の着物に敷物の色が映っていたことと、壁に緋鯉が浮かんだことと、クチナシの匂いくらい」
そば湯を飲みながら言うと「フーン」。ただ、なぜかクチナシの匂いについて念を押し「俺にはわからなかった」とおかしなことを。それから「そう言えば」と携帯を見始めた。
「あの辺りには、クチナシは無いそうだ。サブが聞き込んで来た」
「でも、確かに――」
「確かに昔は上に大きな木があって、下まで匂ってきていたそうだ。それがある年、いつもと枝振りが違うのを不思議に思った地元の人が、近くまで見に行ったところ、異臭がしているので警察を呼んだんだそうだ。異臭元は女性で、損傷が激しいことから上から落ちたと断定された。まあ、自殺ってことだろうな。それから上の道は閉ざされ、木も切られた。クチナシに関しては、そういうことがあったんだそうだ。」
「フーン」
真似をしてみた。
その後、ノブ兄は車内で仮眠を取り、私は敷地内散見。日のあるうちに寺に着くと
「夕飯分は今度な」
と戻って行った。
「あら、ノブちゃん帰っちゃったの?」
一足違いで出て来た母は、すぐまた奥へ。鍋でも火にかけているのかと思いながら家に入ると
「あなたぁ、ノブちゃん今夜はお仕事ですってよぉ」
の声。丑三つ時は許しがたいが、逃避は正解だった。
部屋で着替えていると
――ギィー――
ギィーが来た。「着替え中」と背を向けると「そんなのいいわよ」と正面に。開き直ってシャツを下に落とすと、そこから白いモヤモヤが上がってきてスーッ。と、間髪入れずギィーがシャツに。そしてポリポリ。これって……。
「ギィー、それ何?」
ダメ元で。
「米粒になった女よ」
「女?」
「そう。女」
「桃端社長の?」
「違う」
「じゃあ、どこのだれ?」
「桃端みたいな男に捨てられた女。似てたのよ」
「似てた?」
「そういう男だったのっ」
「ねぇ、クチナシの香りは――」
「直わかる」
そしてギィーはいつも通りチョチョチョ。私はタンスの後ろを覗いた。穴なんて……。言った通りなら憑き物を食べたってわけだ。
ギィーに会ったのは十歳の時。スミちゃんが転校し淋しくて泣いていたら、タンス脇からチョチョチョと出て来た。
「直代わりが来るわよ」
「どこ見てるのよっ」
信じ難いが声はそれ――白いハムスター――からだった。以来良く出てくるようになり、前触れで木戸の開く音がするので自然に″ギィー″と呼ぶように。ギィーの方もそれで了承しているらしい。ギィーの言うことは前から良く当たっていた。だから、さっきの事も嘘ではないだろう。その前の犬の事も。ただ、″憑き物喰い″なんて以前は……。
ギィーはダークなものじゃない。根拠はないが断言できる。としたら……憑き物に好かれるようになった?変わったのは私?……。
四日して、ノブ兄がいつもの時刻にやって来た。上がって来ると、大きな菓子折りを袋から出し「あの女将から」と。重い包みを開けると中に大粒の栗菓子。
「まあぁ!」
母は、当然のように一局より先にお茶にした。
「ここまで行ったの?」
栞の住所を見て母が
「どれくらいかかるんだい?」
父が訊ねた。
「そうですね。夜なら休憩入れて六時間あれば。昼だともう少し」
「なんだって、そんなところに桃端は?」
「離れを借りていたそうなんです。女将と知り合いで」
「桃端が出資してたのかい?」
「いいえ。パトロンは大手の会長です。昔桃端社長が女性とトラブった時、間に入ってくれたのが今の女将だという話です。社長の方が世話になってるんですよ」
父は、あまりにも明白な笑顔を返した。
「そうだ。これこれ」
入れて来た手提げから何かを出した。
「これ、お正月にオープンになったばかりの新館のパンフレットなんですよっ。よかったらお二人でいつかどうですか?」
受け取るなり母はそれをオープン。私も覗き込んだ。最初の『ごあいさつ』にかなり年配の女性の顔。
「あれ?じゃあ、あの人若女将だったんだっ」
「若女将?」
変な顔で聞き返された。
「そう。娘さんかお嫁さん?」
「会ったのこの人」
「うそ、うそ。もっとずっと若かったっ」
「若かった? どこ見てたんだよ」
ここまで言われては、白黒を着けるしかない。
「だって。私たちが会ったのは、四十そこそこの女性だったじゃない。黒髪を高く結っていてあまり笑わない伏し目がちの。後ろからずっと見てたし、正面から会話もしたし。この人がどんなに特殊メイクしても、あの人にはならないわよ。顔も頭も形違うものっ」
懸命に言い切り「そうだっけ」を待機。しかし、ノブ兄は「はあ」だけで。
その後、お茶を飲んでいるうちに“まさか”な考えに行き着いた。それで、帰り際靴ひもを結ぶ後ろ姿に謎かけ。
「ねぇ、女将はクチナシの匂い、わかってたのかな」
「そんなわけないだろ、今は木はないんだから」
「でもね。匂いは実は女将から……。だからね……」
ノブ兄は、おもむろに立ち上がると顔だけ向け「マジ」と口パク。玄関を開けると偶然マットな甘さが入り込んできた。
「おい、おい、おい……」
一歩後退いた。
「これは、うちの裏の木よっ」
フォローすると、力強くコックリ。そして猛ダッシュして行った。
******
桃端社長は、他殺でも自殺でもなく事故死と断定された。これでやっと葬儀だと関係者は安堵。しかし、その日程はいつまで経っても公表されなかった。『家族に連絡がつかない』というのが理由だった。後から聞いた話では、この時桃端家は二重の悲劇に見舞われていたという。母の言っていた海外旅行先の事故で、妻子も亡くなってしまっていたのだ。こちらは船の事故だった。あまりのことに婦人会も自重し、母はしばらく外出を控えた。