【10】解界(げかい)
「久しいのう」
懐かしい声に、舎外門はグワァンと胸を膨らませた。
「御門跡慈懐様ぁっ、御戻りにございまするぅー」
――ギィギィギィー――
三門が一度に開いた。
大門を越すと肩がズシリ。朝もやの空気が、ヤタに連れられて来た日を思い起こさせた。
彼の日のように足が竦む。すると横から声が。
「我ら皆参れましてございます」
すーっと強張りが解けた。二の門でヤタは去った。
慈懐はひとり先へ。ふと、喜致を預け戻った日のことが……。身体が凍えはじめた。するとまた
「満願成就。御愛でたきことにござりまする」
隣に東条が。凍てつきも外れた。
東条も三の門の前で控え、慈懐は″二度とは入れぬ″と決めた身を本域に。漂う焚付の臭いに伽藍の匂いが混じってきた。
履物を脱ぎ、上がろうとすると動きが鈍重に。腰が意に反した。
(錆びたものよ)
揃えようと静かに屈むと、横から小振りの手が。
「御門跡様。御戻りなされませ」
楚楚とした若僧が笑んでいた。
「関弥」
「喜致様は。今暫くにござりまするか」
頷くと、関弥は先を開けた。
これから勤行らしく本間に皆が集い、上座には兄弟子達の姿があった。通り慣れた回廊を更に奥へ。師匠の間の手前で腰が沈んだ。
「御師匠様」
カタリっと音が。
「よう戻りたっ。早う入れ」
重い腰を浮かせ伏した
「四肢は。耳目は」
師は己が手で四肢を確かめ、肩に手を置いた。
「浮き世止まりにて。無事に――」
溢れだすもの耐えがたく、咄嗟に上を。
「きっ、喜致様っ」
途端に目水は引いた。
「ハハハっ。申すと思うた。なれど我じゃ」
師が己が耳を横に。
「此が喜致が耳っ。そなたが耳よっ」
「申し訳ござりませぬっ」
引いたものが即座に面から。
「なんの。されどそなたも酔狂者よ」
「比類無き御姫君様にござりまする」
「なれば好きと致せ」
在りえない許しがでた。
「美致は離れじゃ。学師よりそなたが事を聞き、其より眠郷よ。護役二人が隣間にて守を。そなたが行きて、鼻なりとつままば覚めまいかのう」
「滅相も無きこと。此よりは、慈懐が御守いたしまする」
「更に仕えんとかや。そなたは今より主殿ぞ」
「されど……。されど姫様は、我姫様にござりまする」
頭湯気まで上に。
「アハハハハハ」
笑いが渡った。
――スススス、スススス――
聞き慣れた音。
「喜致様、何事かござりましたか」
彼の声だった。
「承和、そなたの申した通りじゃっ。満足にて戻りたわ」
(『つきや』?)
「普関様では」
「本名は承和よ。そなたの本名は懐と承和の承で″なつき″じゃ」
「……」
恩師は無言でにじり寄ると慈懐の背を撫で……慈懐は訳の分からぬまま、唯々口から上がろうとするものと組み撃ち合った。
「こうして見るとよう似ておる。血は争えぬものじゃのう」
傍らで、師はまた不思議なことを。
「して、喜致様は」
恩師が聞いてきた。
「幼馴染の御娘殿と浮き世にて添いておられまする」
「山中の清流と。よう遇えたのう」
「はい。高徳の御方故」
「己が子を御方とかや」
「親冥利に尽きるのう」
恩師も知っていた。
「師匠らへ知らせを」
「かしこまりましてござりまする。そなたも姫様が御元へ」
促され離れに。いつの間にか身は軽かった。
「御っ、御内弟子様っ」
腰を抜かしかけた朝右衛は、衣を直すと目頭を押さえた。
「姫様は彼方に」
あの朝の香が迎えた。朝右衛は境戸を立てて去り、慈懐は裾に。すると
「スギサク、スギサク。 スギサク、スギサク」
黒髪が波打ち、幼名を。
** ** **
奥院には、師匠二人が駆けつけていた。
「若君っ」
「若君っ。御戻り君様は何処にっ」
「美致が元じゃ。皆よう成したっ」
その時
――パサパサパサ――パサパサパサ――
常ない裾さばきに、普関は御間から顔を出した。
「いかがいたしたっ」
「御川波立ち内に金色がっ」
関弥の声に、寛然と寛養は立ち上がった。
「水鏡が立ちまするぞっ。若君っ」
「喜致かや。なれど早すぎよう」
慈養も立った。
** ** **
暖かな風が美致姫の香を揺らした。
(姫様。日も昇りたようにござりまする)
衝立を退けると、陽は貴かく美しかった。しばらくすると本処の方がどよめき、耳を向けると足音が近付いて来た。
――ザザ――
わずかに境戸が引かれソソっと師が顔を。背後の金色に、慈懐は跳び伏した。
「驚きたるか?衣の所為じゃっ」
師はニタリ。そして揚々と戸を放ち、黄金蓮華の様な女人を出した。
「今し方じゃ。そなたが働きにて深朝も鈴も戻りたっ。世話になりたのう」
喜致の目と美致姫の目元が笑みかけてきた。
黄金女人が衝立側の枕許に、師が向かいに座った。
「慈懐。既に存じおろうが、此が美致が母姫じゃ」
師は胸を張った。
「深朝姫様。慈懐にござりまする」
「深朝にござりまする。慈懐殿、快なる戻り道中にて、真楽しゅうござりました」
確覚はしていたが、四方に蒸気が吹いた。深朝姫は、横たわる美致姫の姿を枕辺から裾まで眺め、さっきまで波打っていた髪を手に。
「見事な御髪じゃ」
「大きくなりたであろう」
「はい……」
母姫はそっと顔を寄せた。
「そなたに良う似ておろう」
「眉は親王様似にござりまする」
「そうかのう」
「中宮様にも似ておりまする」
「母君に。言われてみればそうかも知れぬ。なれど気質はそなた似ぞ。辛抱良きが、手強しっ」
「『手強し』此が深朝が」
「我には醍醐味じゃ」
喜致顔の師と美致姫顔の許嫁姫は、他者を忘れたように喜々としていた。
やがて、深朝姫が立ち上がった。
「姫よ。婿殿が御来しじゃ。早う目覚めよ」
そして「此方へ」と慈懐を。夢のようだった。
「姫が寝顔に飽きなば、此を揺らされませ」
"姫様の御鈴"が掌に。裾控え者に御枕辺侍りが許された。
(此が事があろうとは……)
信じられずにいると、微かな寝息が耳に。
(……二度と御姿は拝せぬものと……)
責務の衣で覆い続けた独辛が、形を変え常盤木色の上にポッ。その時だった。
――バサ、バサ、バサ、バサ――
鳥が飛び入り、咄嗟に袂で御面を。
――ジャリンっ!リンっ!リ、リ、リ、リン――
御鈴が、こぼれた。
――ズズズズ――
美致姫が伸びを。
――パサリ――
掛物がめくれた。
――ピィー、ピィー、ピィー――
――バサ、バサ、バサ――
静穏が戻り、袂を。目が合った。
「姫様、御久しゅうござりまする」
ところが、口の代わりに利手が頬に。戦き退こうとすると、薄い手に押さえられた。
姫様に、姫様に――御詫びを、御礼を、御許しを――しかし、指を伝うものに競いを解かれた。鼻をすすり、美致姫が口元をほころばせた。自然に慈懐も。
(……満願成就なり……)
と、いきなり背骨が立を失い、身が透きはじめた。
(獄を望みしものに往生はなし。山神が温情にて終いを此方にと許されしまで)
慈懐は余魂の最期を悟った。
「姫様。此にて永久の御暇を」
しかし声は
「姫様……力が抜けまする」
と。すかさず常の間合いで
「なれば抜け」
が返り来た。
(此は如何に⁈今生の暇乞いをしくじりしとはっ)
しかし狼狽を余所に瞼は無情にも……。すると、美致姫の瞳が閉じられた内を一気に染め上げた。
** ** **
「只今朝右衛が此を」
慈養の前に二鈴が置かれた。
「ほう。つなぎ解けしか」
「はい」
「して姫は」
「未だ離れにとのことに」
「懐承もかや」
「婿殿は、姫と代わり、眠りておられるそうにござりまする」
「なれば、此度は美致が守とか」
「懐承殿は、御手姫が頬、御肩姫が髪の上にて、休まれおられるそうにござりまする」
「肩髪の上……。控えしままに寝転びたるか」
「はい」
「退かぬのか」
「承和が転がさんと引けど一向にと」
「……」
「姫が鼻つまみても、御首も動かされぬ様と」
「……」
「『御背中、表より丸見えにて、御熊の如し』と朝右衛が」
「何っ。我が弟子を皆で虚仮といたしおるとかっ」
「二人には愛しき甥君にござりまする。陰永き故、陽気当てを施しおるのでござりましょう」
「……なれば。陽移らば我が衣を」
「御仰せなれど、伯父君が衣が掛かりましょう」
「……暫くは起きぬか……。寛然ら皆が会いたしと待ちおるに」
「其故、起こさぬのでござりまする」
「起こさぬ。美致がかや」
「はい」
「……」
「婿殿は、御門跡の最上段に就かれました故、一度〈ひとたび〉表に出なば、奥には易うは戻られぬと、思うておるのでござりましょう。」
「……」
「なれど、衝立も隣間に片付けしとのことなれば、そろそろ」
「衝立」
「姫が『重し、苦し』と声立てなば、必ずや御目覚めとなられまする。なれど、婿殿が事故、御目開きて間近に姫が顔あらば」
「当たり処まで飛び退くわっ。故に衝立を。フフ、ハハハハハハ」
声は離れまで。
「きっと、そなたがことじゃ」
美致姫は慈懐の片耳を引き、フフっと笑いをかけた。
――ジャリン――
――ジャリン――
慈養は二鈴を揺らした。
「そなたのつなぎは固かりし。よう解けたのう」
「離別の苦、退きし故にござりまする」
「此を持ちし姫〈もの〉は皆、迎えんと待てど戻らず。喜致のみが戻りし故、妙とて聞けば、持ちてはおらなんだ」
「なれど、繋ぎ定めと成りし御鈴は、つながらぬ帝血が定めを和子で結びて御元に。よう働きましてござりまする」
「誠よ。先に繋ぎしは中将。出来したわ」
「中将は」
「奥離れの奥に皆皆ずらりじゃ。そなたが呼ばば、中将始め父君達も大臣達も御出ましとなろう」
その時、間を風が抜けた。深朝姫の髪に絡んだ一片を慈養は静かに端へ。許嫁姫は袖を広げた。
「小振りが深朝、此方が我じゃ。故に、我は小振りを持たん」
――ジャリン――
「なれば、深朝も此方を持たん」
――ジャリン――
対鈴は念願の両掌を合わせた。




