【5】四重菱の川 2
今日は水曜日。そろそろノブ兄に返事をしないと――でも。
「俺異動が決まってさ。まあお互い頑張ろうや」
そう言って笑いかけられたら――同じ顔はダメ。でもここで逃げても“その時”は必ず。だったら思い切って。でも……でも……。分かっていながら、行きたい気持ちと止めたい気持ちが両腕を引く。
その夜、夢を見た。私はまたあの裏部屋に。床には見覚えのある蓋付きの壺。(あれはやっぱり夢だった……)
すると突然
――カタ カタ カタ カタ――
壁が揺れアンバランスな赤線がじんわり。そして字になった。
桃端・池央・菱丈・杉会
――カタ カタ カタ カタ――
――カタ カタ カタ カタ――
(何これ!?)
いきなり黒髪の頭が出て、その拍子に……ドタン、のはずがスーっ。覚めると、消したはずの電気がついていた。
翌朝は一膳が重かった。母に顔色が良くないと言われ熱を測ると八度超え。午前中の仕事を丸投げし横に。喉も鼻も苦しくないが、体のそこら中に重しをのせられたよう。
うつらうつらしていると、目の前に川が見えた。
(ああ、あの夢だ)
子供の頃から熱が出るたび見る夢……。何度も見ているのに、はっきり覚えていられない。山に挟まれた河原。流れが絵模様の川。初めて良く見た。すると、今まで青海波だと思っていたものは、四つ重ねの菱形だった。それが、右から左へ動きながらブクブクと膨れ……徐々に這い上がって来た。それがウワァーっと来る前に夢はクローズ。この先はない。目に菱形を焼きつけようと頑張った。けれど、どんどん角が取れ青が水色に。
――青海波ではなく四重菱――
何度も言い聞かせた。
それからまたうとうとし、気づくと外は暗かった。
母がやって来た。
「夕飯になるけど、どう? 食べられそう?」
「うん。起きていく」
カーテンを引いてくれた。
「あら、これ……」
ショルダーのチャームに手を。
「この前出かけて買ったの。正しくは買ってもらった」
――チャリ、チャリ、チャリ――
――チャリ、チャリ、チャリ――
「何ともないの?」
「どうして?」
「鈴のことよ。赤ちゃんの時から鈴の音で泣いたのよ。小学校に上がっても鈴は嫌いで、中学になっても、私の財布の根付け鈴、嫌がってたじゃない」
「言われてみれば……。でも、今は平気」
母は不可解な表情のまま出て行った。
夜になると熱が上がり、次に気づくと、また母がいた。
「何か食べたいものある?」
「ううん」
「パジャマ足りてる?」
「なんとか」
「じゃあ、おなか空いたら出ていらっしゃい」
机に飲み物が置かれた。
起き上がると寒気。一晩寝たのに……。その時急に頭がぐらっ。貧血……か……。枕を抱えた。
――ジャリジャリ――
――ジャリジャリ――
遠くで鈴音。
……会いたくなった。
目を開けるとギィーの顔が前に。
「久しぶりじゃない」
言おうとして舌が回らず唾をゴクン。
「誰に会いたいか、わかった?」
流れたものが染みた。
「行ってくればいいのよ」
ギィーはいなくなった。
(簡単に言わないでっ)
でも、素直に従いたくなった。
起きていくと母が顔を覗き込んだ。
「まだ熱高いの? 目が赤いけど」
「測ってないけど、そうでもないと思う」
「うどんでも煮る?」
「ううん。お茶漬けでいい」
上にサケフレークをこんもり。
食べ終える頃、汗がフワっ。何かが吹っ切れた。
夕飯はいつも通りに食べ、しかしお風呂は止めてまた横に。気づくと外が明るかった。昼まで寝たかと焦ったが、時刻はしっかり八時前。体温は――六度三分。OKだっ。
――連絡遅れてごめん。何時に待ってたらいい?――
送信し着替え始めると、ブブっと着信音。
――朝9時――
と返って来た。
その夜、父に話した。
「ああ、貴美子さんと澄香ちゃんによろしくな」
そう言った。
部屋に戻り服をバッグに。スカートで行くことにした。
出掛ける前日の朝、洗濯物を干していると父を呼ぶ母の声。
(横手のおじさんか、進堂のお婆さんか……)
どちらにしてもお茶出しは母がするだろうと干し終えて家に入ると「さっき、ノブちゃん来たのよ」との言葉。もう商店街の開く時間だった。「遅刻じゃないの?」と言うと、今日から休暇と言ったという。
「それで何しに?」
「お父さんに、明日出掛けることを断りに。気を付けて行って来ますからって。あなたを呼ぼうとしたら、いいって言うから声かけなかったんだけど」
「なんでこんな時間に? 休みなら夕方来たって」
「これから出社って言ってたわ。昨日帰り際に入った物を持ち帰って仕上げたんですって」
だから、なわけか。
その後、母は買い物に出掛け、たこ焼きを買って帰って来た。
お昼過ぎ、靴磨きを終え部屋にいると母が入って来た。
「もう用意済んだの?」
「うん。まあだいたい」
「これ、持って行かない?」
雑誌で見た温泉グッズを出した。
「貴美子さんとこリゾート地に近いから、もしかしたらって」
こういうのを一度買ってみたかったのだと母は言い「それから」と言って重そうな包みを紙袋から。
「仁仁庵のお蕎麦セット。貴美子さん、お蕎麦好きだったから。ちょっと重いけど車なら平気よね」
そう言って風呂敷に包んでくれた。そうだった。服装ばかりが気になって、こちらのことは抜けていた。




