【古記 その二 美致姫 二】 [二 深(こき)紐(ひも)の難]
前回に続き過去編です。
〔二月後 美致姫二十五 喜致二月 慈養四十八 普関四十二 慈懐二十〕
「親王様。朝右衛殿が文にて」
「斯様に早うにか」
「はい。『本日は風立たず穏日なれば、法要も近づきし故、御形見分けに戻りたし』と御願われおられるとのことに」
「良かろう。朝行かば戻りも早かろう」
** ** **
「『風立たず穏日』とは、三条が娘、紅司が断かや」
「然様に」
「雲が様にて日様見しとは。奇才よのう。殿人より雲か」
「只今は、菖深君様と文交わす仲と」
「ほう。なれば、彼の君は緒岐様が弟君が筋故、御子授からば喜致が護役に」
「其はよろしゅうござりまするな」
「姫を行かせし故、中将が館は此が十月、一族勢揃いよのう」
「はい。奥にては、さぞ賑やかなることに」
「三条も久々に母中将と……。東条、二条は母に従でありしが三条は……。似し者同士、よう言い返しをなしておりたのう」
「はい。常静なる中将様が、向きになられて」
「なれど、我も三条が言こそと。内にては三条贔屓でありた」
「普関もにござりまする」
「彼の母娘は……只今もであろうか」
「なれど、三条殿も先頃『御祖母君となられし』と」
「ほう。保君にかや」
「はい。姫君と伺いておりまする」
「三条は多鶴宮殿が御方となりしが、中将が、朝右衛が後見とて姫付といたせし故、彼の宮殿には済まぬことをと常より思いしが……」
「なれど、此までに五人にござりまする」
「ほう。五人。姫付の芳司、紅司、父宮元の保君が他に二人……。よう、産みたわ」
「誠に」
「朝右衛は、殿宮も和子も早うに儚くなりしが、此で紅司が御方とならば、他の姫付は皆殿子持ち。中将が筋は頼もしきことよ。皆姫に習いてと意気込みおろうが、三条は除くとし、先は朝右衛のみで。後は順繰りで良かろう」
** ** **
「慈懐、先から鳴きおるは蒔尾かや」
「普関様。藤尾にござりまする」
「藤尾とか」
「はい。御師匠様」
「彼様に野太き声で。誰ぞが尾でも踏みしか」
「然様なことは」
「なれど、優しき母犬が。初めて聞くわ」
** ** **
「昼食も過ぎしに、未だに鳴きおるのう」
「気立ち増してはおりませぬか」
「慈懐、妙見は何と」
「好物を持てど、見向きもせずと」
「犬は耳鼻優れし。茂みに狐狸でもおるのかのう」
「御師匠様。いっそ垣先へ放たれては」
「此より酷うなりなば妙見と計れ」
「かしこまりましてござりまする」
「静まりたようじゃな」
「親王様……なれど、また別声が」
「日も傾きしに。此度は松尾かや。膠付きの車など通りしか」
――ササササ、ササササ――
「慈懐にござりまする」
「只今鳴くは松尾かや」
「照波にて。遠吠え始めし故、一の門二の門の、蒔尾、松尾が応じておりまする」
「何故照波が。鳴きしことなど無き犬が。して、藤尾は」
「丸まりて。只今は眠りの様に」
「己が子らが騒ぐに……。具合でも悪しか」
「普関様。犬は千里先が事をと」
「親王様、何処ぞ御具合い悪うはござりませぬか」
「我は別段。……普関。姫は……。もう中将が元へ戻りて――」
――スッ――
「使いをっ。慈懐、そなたは藤尾等と門前までを」
〈四半刻後〉
――スススス、ズズズズ――
――スススス、ズズズズ――
「中将様にっ」
――ズズズズ――
――ズっ――
――ジャリン――
「中将が落ち度にござりまするっ」
「……仔細を」
「御車侍が申しまするには……『戻り仕度を』と言い来し芳司を侍女が呼び止め『内裏が御使いより』と申し何やら手渡ししと。芳司は其を持ち戻り、車侍は整え待てど風変わりても御奥より気配なき故、侍女に訪ねさせしところ……。薫煙が……。眠りの御様にて……。なれど……。御指冷たく……。ひとえに我が一族が失態に……。くっ」
――スッ――
「宇世と姉波を」
――スススス、スススス――
「薫煙……」
「……空薫物を御配りなさるとて……皆と御選びなさりておられしそうに……ござりまする」
「……三条も……娘たちも……」
「御供許されましてござりまする」
「許せっ」
「何を仰せにっ。至らぬは我らにっ」
「館戻りを許したは我じゃっ。我に隙ありて……。ようやっと姫を此方に……。六歳待たば喜致も共にと……」
――ササササ、ササササ――
「御師匠様。中将様縁の御方が赤児を抱きて――」
「離れに。暖を忘るるな」
「しかと」
――ササササ、ササササ――
「中将。床を設させる故、奥にて休め。……そなたは我が乳母。伴は許さぬっ」
「……後生にござりまするっ。若君っ」
「……皆が嘆きを……我と受けよっ」
――ササササ、ササササ――
「御案内いたしましてござりまする」
「慈懐、そなたも離れに。なれど先に明恵に、二の寺三の寺の法祥・泉永に牛車で参れと使いをと」
「心得ましてござりまする」
** ** **
――ササササ、ササササ――
「慈懐にござりまする。明恵殿には伝えて参りました」
「早う内へ」
――サササ、サササ――
「慈懐、東条が末娘清月じゃ。そなたは東条が子となりておる故、清月は妹じゃ」
「慈懐様、清月にござりまする」
「慈懐にござりまする」
「清月は“きち”が乳母じゃ。此が赤児は美致姫が和子。名は我が名を取りて喜致じゃ」
「美致姫様の。其は何と――」
「……」
「……御師匠様」
「只今普関が……連れ参りておる」
「……何卒。御仔細を」
「我にも分からぬ。分かりしは喜致が母姫の去りしことのみ。せめて首の座るまではと思うておりたが、時がない。里にきちを」
「承知いたしましてござりまする」
「清月、喜致を」
――ザザ、ザザ、ザザ――
「慈懐。そなたに後見を頼みたい」
「御師匠様……」
「美致姫が和子じゃ。いづれは本寺に。そなたが元にて護りてほしいっ」
「此が慈懐、何事あろうとも御役目務めさせていただきまするっ」
「喜致よ。なれば御後見殿にお抱きいただこうぞっ」
――ザザ、ザザザ、ザザ――
「……喜致様。慈懐にござりまする。……母君様には幼き頃より……っ……っ……くっ……御役全う出来ずの至らずを……何卒御許しくださり……っ……ませ」
「慈懐、そなたは一足先にヤタと行きて里近くの末寺で喜致と清月を待て。時はかかろうが必ず着かせる」
「かしこまりまして……ござりまする」
「後……。里に着きたれば、此を清月に」
――ジャリ、ジャリ――
「其は、姫様の……」
「形見じゃ。清月、必ず慈懐より受け取り喜致に持たせよっ」
「心得ましてござりまする」
「……清月殿、喜致様を」
「はい」
――ザザ、ザザ、ザザ――
――カサッ、カサ、カサ――
「御預かりさせていただきまする」
――カサ、カサ、カサ――
「なれば、御師匠様。此より立ちまする故暫し御暇を」
「今暫くで着くなれど……会うて参らぬか」
「生りし日の御姿を内に御置きいたしとうござりまする」
「……其もよかろう。無事戻れよ」
「必ずっ」
――ササササ、ササササ――
「清月、着いて参れ」
「かしこまりましてござりまする」
「此が奥に中将がおる。喜致と共に休め。真会を寄こす故、何なりと申せ」
「かしこまりましてござりまする」
――トトトト、トトトト――
「御門跡様、姉波君様参られましてござりまする」
「直ぐ行く」
――ザッザッザッザッ――
「御門跡様。参りましてござりまする」
「姉波君、妹宮が先帝が御元へ参りた」
「……御門跡様。二の君様から御逃れになられるための御方便なれば、然様に仰せくださりませ。しかと心得まする」
「否じゃ」
「誠……誠のことにござりまするかっ。御許し下さりませっ」
「本日。日のあるうち内裏より使いが来たそうじゃ」
「此より内裏へ。訪ねし後、また参りまするっ」
――ドスドス、ドスドス――
「誰かおらぬかっ」
――トトトト、トトトト――
「お呼びにござりまするかっ」
「葬儀は我が仕切る故、此が後の法要に皆は参れと一門に伝えよっ」
「……かしこまりましてござりまするっ」
〈於大臣家〉
――カタン――
「ヤタ殿かな」
「高良殿。七台に」
「七台殿……」
「普関様よりに」
――ス――
――カサ、カサ、カサ――
「普関様は」
「姫様が御館へ」
「他処の使いは」
「六台が蓮景殿。五台が御里と弟君様へ」
「七台殿。戻り道、蓮景殿の謹斉殿に『御仔細分かり次第御伝えいたしまする』と伝言願えぬか」
「承りまする」
「誰ぞぉ-。砂多を-」
「かしこまりましたぁー」
――ツツツツ、ツツツツ――
「高良様。砂多にございます」
「検追頭様が使いが参る。高良は此より奥間へ。房穂様にもお越しをと。使いもじゃ。其と、本日は夜護を増やせと護頭に。武具も見よと」
「心得ました」
――ツタツタツタツタ――
「大臣。高良にござります。よろしゅうござりまするか」
「いかがした」
「普関様より」
「何っ」
――ズッ、ズズズ――
――カサ、カサ、カサ、カサ――
「真かっ」
「無念なれど」
――ドンドンドンドン――
「父君。房穂にござりまする」
「房穂っ。此を見よっ」
――カサ、カサ、カサ、カサ――
「高良、此は……。美致姫様は中将殿が元では……」
「高良も然様に」
「内裏の誰が」
「恐らくは……二の君側」
「二の君側……」
「……縹かっ」
「……」
「房穂。我ら親子は、茅が墓には入れぬっ」
「父君……」
「茅が大臣家なるは、帝血が護り故ぞっ。此が失態、如何とも成し難しっ。くっぅっ」
「なれどっ、父君は大臣となられ直ぐ御病にて……」
「病などっ。病などっ。先帝様方に……何と、何と、御詫びをっ」
「……骸が先は本寺が御意にて。宇能様、房穂様。茅は臣の頭にござりまする。普関様は一の使いを此が茅に。表の皆をとの御心に御応えいたさねばなりませぬ」
「高良。何をせよと」
「内裏に使いを。大臣命にて一族皆退避」
「退避」
「警使は武具を納め、倉ごと検追頭に任せよと」
「……」
「……」
「只今が内裏は縹と見るが真かと」
「姉波君は」
「親王様が御呼びなされておられましょう」
「彼の宮家とは縁遠き故……。其が元か……」
「此方の不覚に……。なれど、宮方には晴姫様がおられまする」
「使いは蓮景殿へも」
「はい。二の使いがと。三の使いは普関様が御里に」
「縹を討たれなされるかっ」
「御兄君東宮様が御折は、深朝姫様第一とて御退きなされしと聞き及びておりまする。なれど……」
「此度は其が深朝姫様の……」
「……縹は我が一族の……」
「房穂。我らも覚悟いたさねばっ」
「はいっ」
「宇能様。弾丈様との使いを密に。事起こらば、内裏は弾丈様が占められましょう。我らも此方を。都を守りて親王様が御援護をいたさねば」
「わかりたっ。房穂、筆を。書状を内裏へ」
「心得ましてござりまするっ」
〈於内裏〉
――ズダズダズダ、ダダン――
「紅季女様ぁ― お助けくだされぇ―」
「何事にっ」
――ダン、ダン、ダン、ダン――
「紅季女っ。由野姫が乳母を此方へ」
「検追頭殿。そなたは内裏外の者。去られよっ」
――バタバタバタバタ――
「弾丈様。由野姫は捕らえ、詰間に」
「検追頭殿っ。お上が妃を捕らえしと。聞き捨てならぬっ。語られよっ」
「妃と乳母は、姫宮様が御尊命を奪りし賊っ」
「まことかっ」
「否っ 否っ」
「羽衣女は否と。証ありやっ」
「先に捕らえし使いが『羽衣女様が御命じに』と申しし」
「いっ、偽り事にっ。我らを嵌めぬと――」
「申し言は詰間でいたせっ」
「ぎゃっ。放せっ、放せぇ―」
――バタバタドシドシ――
「紅季女様っ 紅季女様ぁ―」
――ドスン、ドスン、ドスン、ドスン――
「けっ検追頭殿っ、此は何事っ。内裏にはそなたが配下しか。侍は何処へっ」
「大臣命にて一族は去りた」
「大臣。茅殿が。何故……」
「姉波殿。姫宮様に仇なしし賊は、碧公殿が妃と乳母にござる。一族にとり、内裏 は仇館との大臣が御判断にござる」
「まっ、まこと……かっ」
「紅季女。碧公殿は」
「……」
「御寝所では――」
「後見殿っ、御口退かれよっ」
「紅季女。碧公殿を此方へ」
「否っ」
「紅季女殿。従われよ」
「姉波殿っ。姫宮殿がお上を昼夜虜にっ。其故、日々眠れずおられしを知りおるであろう。ようやっと薬香効きて今し方御眠りになられしぞ。其を起こせとは。そなたは臣ぞっ」
「……」
――ガタン――
「紅季女、騒がしっ」
「お上っ」
「ファァ―……。ん、誰じゃ、お前は。検追頭に似ておるが、彼は外者故……」
「お上っ。此は新しき衛頭。姉波殿に用ありて参りしまで。さあ、御寝所へっ」
「碧公殿。検追頭にござる。貴殿が妃、由野姫と其が乳母が、姫宮様に仇なしし故、捕らえて御後見様に御報告いたす」
「……御後見様……姫宮様……美致姫殿がことかっ」
「然様に」
「美致姫殿に由野が何をっ」
「おっお上、此は偽者っ。早よう御寝所にっ」
「碧公殿。本日、姫宮様へ深紐がけの品を貴殿が使いが―」
「美致姫殿は、今御館には居らぬっ。居らぬ所へ使いなど出さぬっ。姫宮は何処にっ、何処に居るっ」
「本寺に、御着きなされし頃に」
「本寺?」
「御先帝様が御元へ御逝きなされましてござる」
「先帝は……彼の世じゃ。行けぬ……」
「先帝様が御元へ」
「まっ……真かっ」
「然様に」
「何故っ」
「其は此より由野に」
「姫宮……死んだ……真……死んだ!?由野おぉぉぉ」
――ダダ、ガッ――
「放せっ」
「お上っ、お待ちをっ。由野は既に詰間に捕らわれの身にっ。此度が事はお上は知らぬ事っ。関わりてはなりませぬっ」
「黙れぇ」
――バシバシ、ドス――
「うっ」
――ダダダダ――
「姉波ぁ―、付いて参れぇ―」
「お上、お待ちを―」
――ドスドス、ドスドス――
「紅季女。末期の湯浴みなどしてはどうじゃ」
「亡き東宮様が乳兄弟とて、言過ぎましょう。いかにお前とて、関わり無き者に手出しはできまい。彼の姫宮は碧公様にとりて誠災い。清々したわっ。本寺が後見とて、兄死なば身寄り無し。哀れな末路に由野が慈悲をかけたのじゃっ」
「直、其が万倍の慈悲が其方にかかろう」
〈於深縹 コウヤ館〉
「コウヤ様。浅殿より使いが。『仇色抜きし故、今宵宴げ』と」
「浅館へ出向けと」
「はい」
「センロウ。ソヤ殿は何を」
「中縹が配にて宮者が娘を」
「女か」
「はい」
「理由は」
「紅季女が子の執心と」
「……紅季女より此方へは」
「何も」
「なれば如何にして」
「浅殿が娘筋より」
「またも亜薬か」
「はい。昼に使いを。夕前に結と。疾風が如き出来と、家人も鼻高高に。なれど誠は――」
「裏有りか」
「はい」
「誠は俄か病にて。亜薬は宵の薫物に入れし故、昼薫は無かろうと皆申しおります。死にしは夕前。亜薬が効には無し。なれど浅者は手柄手柄と」
「……手柄は良いが何故女じゃ」
「……」
「レンヤ殿が元へ参る。センロウ、話を集めよ」
〈於中縹 レンヤ館〉
「レンヤ殿はおるか」
「はい」
「おう、コウヤ。浅がことか」
「レンヤ殿。何故女を。本尊は寺宮だけでは――」
「女の親代わりが寺宮じゃ。女は違う」
「なれば何故」
「知りたしか。なれば、まあ坐れ」
「昔。縹一族が此処に入りし折、先者らの祝いがありた。本尊が立宮となりたと喜びておりたのよ。気障り故、勇みし一人が本尊を殺りた。輩は蜂巣となりたそうじゃ。小気味良し。面白し。我らも祝盃を上げたそうじゃ」
「小気味良し」
「そうじゃ。試薬も楽し。騒ぎ見るも心地良し。ウハハハ」
「なれば、後の本尊絶ちも」
「違うわ。後は一族が為。『本尊筋は巡り良し』と聞きし者らが、本尊絶ちを決めたのじゃ。返しは入らぬ。骨抜きなれば返し討ちはできまいて」
「なれど、女は」
「まあ聞け。昔大館の下女に懸想して垣内に忍びし折に雛男を見てのう」
「雛男」
「男なりの雛顔者じゃ。大館の小娘に見送られ女車でしゃなしゃなよ。其より雛顔が目に付きて目障りで目障りで。其が或る時、何故か、雛顔がのた打つ様浮かびて……。快しとは彼の事じゃ。ウククク」
「……」
「雛顔は今宮が二男でのう。したが、二男にしては重衛故ほじほじ探ると、なんと、本尊じゃった。儂は小躍りし薬選びをしたわっ。なれど、し損じ寺へ逃げられたっ。大館の約女を捨てたのよ。憐れな約女は、此見よとばかりに別宮が子を生みたわ。すると雛顔は、謝念故か約女子が親代わりとなりたのよ。子は女にて、よう寺参りしておりたそうな。わかるかコウヤ。雛顔は、寺宮は、約女娘を、寺で"女"にしておりたのよっ」
「なれば子ができよう」
「おらぬっ」
「……」
「其が約女娘を紅季女が子が見つけ騒動よ」
「柔面か」
「さあな」
「子無くばよかろう」
「悪しっ」
「何故」
「紅季女が子は若し。出来るやも。女が子を生まば、親代わりの雛顔が出張るっ。縹危うしっ」
「なれど女をとは」
「彼の雛顔。寺宮となりし雛顔を、今一度唯宮に戻し薬にて楽しみたしと、いま一人も殺りた。なれど雛顔は出て来ぬ。なれば……」
「故に女か」
「そうじゃっ。念願叶いたっ。雛顔にようやっと吠え面かかせてやりたわっ。先刻何やら心浮き、寺に下従を遣りたのじゃ。すると、はしこき犬と見え、吠えつきしと。直後に浅から吉報よ。ウククク。今頃は犬に習いておろう。オホオホオホ」
「亜薬ではなしと」
「そうであろうよ。今日の今日では死なぬ。なれど死んだのよぉ。待ちわびた雛顔が吠え面じゃぁ」
「なれば、浅の手柄では」
「よいのよ。目出たし目出たしで」
「何故薫物に」
「宮女なれば薫物も多かろう。届け物もまた多し。宵香なれば寝間で知らぬ間に。いづれの物かなど分からぬわっ。吉報をゆるりと待たんと。吠え面を日々思い楽し楽しとのう。ウクククク」
「……」
「浅には浅が思惑あり。ジンヤにはジンヤが思惑あり。此でソヤが孫娘は先者が女頭。近々ジンヤは紅季女が子に名乗ろう。なれば直ぐ『ジンヤ様』じゃっ。 『寺宮吠え、縹先者染めし』 故に今宵は祝杯なのよっ。」
「……」
「わかりたか。わかりたなれば、しかめを直して浅で会おうぞ。クフフフフ」
〈於深縹 コウヤ館〉
「コウヤ様。レンヤ様は何と」
「御満悦じゃ。センロウ。寺宮を何処ぞで見たか」
「寺宮……。彼の折の死に損ない……」
「なれば此度の宮女は」
「『麗し』の噂なら」
「麗し」
「二人は兄妹故、似顔なれば寺宮も」
「兄妹かっ」
「はい。同じ前宮が子に」
「……」
「コウヤ様。死にしは宮女と伴女九人と」
「宮女館は性悪の病流行か」
「聞いてはおりません」
「……」
「今宮が使いが検追頭に引かれ――」
「しくじりたなっ」
「なれど、此度も縹村までは来ますまい」
「そうかぁ」
「……」
「命奪りゃあ命取りよっ。殊におんなは拙しっ。此度の輩こそ疾風じゃっ」
「なれば荒者を山より集め――」
「無駄。無駄。直ぐには来ぬわっ」
「……レンヤ様は何故……」
「雛顔が吠えっ面っ。お次は何処の宮者かのう」
「……」
「センロウ。お前が妹ツタが、レンヤが妾と間違われ、どこぞの女に逆恨みで殺られたなれば、何とする?」
「馬鹿女をなぶりて谷へ」
「じゃろうなぁ……」
「……」
「縹は……レンヤまでやも。センロウ。望むなれば逃げよ。其も良し」
「コウヤ様は」
「今更じゃ。……センロウ。今宵コウヤは腹下し。浅には参れぬとソヤ殿に告げて参れ」
「はい」
〈於本寺〉
――スススス、スススス――
「普関か」
「只今、御着きにござりまする。姫様は奥離れに」
「して……」
「御緒抜け俄かにて……最早……」
「……」
――ザッザッザッザッ――
「……御仔細分かりましたのか」
「未だ」
「……姉波君様は参られましたのか」
「参りて、参内いたすと」
「……喜致様は」
「奥の間に。中将と清月が付きておる」
――カタン、ザッザッ――
「……姫よ……慈懐は後見を受けし故、案ずるな……」
「慈懐は……参りましたのか」
「姫には会わぬと立ちて行きたわ」
「幼き頃より御睦みいただきましたなれば……。無事戻りましょうや」
「後見を受けし故、必ず戻るであろう。……普関、明くる前に姫を……」
「……かしこまりましてござりまする」
「境内に明かりを。重門全て閉めさせよっ。姉波君は奨戸より通せっ。開くるは法祥、泉永のみじゃっ」
「心得ましてござりまする」
〈於蓮景殿〉
――トタトタトタトタ――
「晴姫様。御使者が参りましてござりまする」
「……瑞姫を呼びて奥間へ」
「かしこまりましてござりまする」
――トタトタトタトタ――
「申しつけて参りましてござりまする」
「何事に」
「普関様より、『美致姫様御隠れ』と。高良殿より『仔細分からば伝達いたしまする』と」
「何ぃっ……」
「無念に」
――ススススス――
「御義母君様。瑞にござりまする」
「此方へ」
――スススス――
「瑞姫……」
「美致姫様御隠れにござりまする」
「何故っ。御義母君様、美致様が御気病さほどに重うござりましたのかっ」
「……」
「瑞姫様。御病にてでは……」
「なれば何故っ。中将殿が元で。護館で何故にっ」
「今朝、亡き主殿が御館へ。昼限りの御戻りと、なりておられしそうじゃ。姉波が呼ばれしと」
「瑞姫様。内裏絡みにござりまする」
「中将が元へ行かれしは、護身故であろう。表で何が……。喜致殿が美致殿を表と隔される何事かがありたのじゃっ」
「御義母君様……。早衣が……。『御館に二の君が使いがよう参る』と誰ぞに聞きしと申して――」
「二の君じゃとっ。縹の童が美致殿にとかっ。姉波は何をっ。臣らは何をっ」
「代わりし茅の宇能様は御病にて此が二歳内裏には」
「……宇能殿はさぞ口惜しゅうあろう……。なれど……なればこその公卿と姉波じゃっ。彼の者らは……。勅令反きじゃっ」
「晴姫様。なれど、其なれば茅の御方方、宇能様、房穂様、高良殿等も同罪に」
「くっ……」
「……うっ……うっ……うう……」
――コトン――
――トタトタトタトタ――
――トタトタトタトタ――
「大臣命により、一族皆内裏退きしとのことにござりまする」
「なれば内裏は」
「弾丈様が入りしかと」
「……」
「……」
「晴姫様。本寺が方が明時様に。巻き煙が雲となりて都方へ」
「……謹斉。美致様の仇は内裏の誰じゃっ」
「瑞姫様。其はしかとは」
「なれど検追頭殿が入りしとならば……」
「瑞姫。縹じゃっ。裏には縹がっ」
「晴姫様。縹は掌中が御珠に手を」
「喜致殿は……」
「普関様が漏らさずの策を画されましょう。故に只今はござりますまい。なれど、縹より動かば……。其が流れにござりまする」
「本寺に普関。此方に謹斉。茅に高良。謹斉そなたは喜致殿が御兄君祥致様が護役。宮方を固め高良と計り帝血の守護をっ」
「かしこまりましてござりまする。晴姫様。姉波君が頼りて参りまする。何卒御門閉めを」
「わかりた。晴姫は俄か病。瑞姫は義母に付きておる」
「心得ましてござりまする」
〈於普関が里〉
「実承様。御待ち申し上げておりました」
「苔善。御姉君は」
「御父君様が御間に」
――ツツツツ ツツツツ――
「寛姫様。実承様御着きとのことに」
――トン、トン、トン、トン――
「姉君。実承にござります」
「治帯と科野は」
「控えておりまする」
「苑葉。治帯と科野を」
「はい」
――ツツツツ ツツツツ――
――ツツツツ ツツツツ トントントントン ――
「御連れいたしました」
「寛姫様。治帯にござります」
「科野にござります」
「皆、此方へ。苑葉。火鉢は」
「此に」
――カサッ カサカサカサ――
「実承、そなたから。見し後くべよと御兄君様が」
「心得ましてござります」
――カサカサカサカサ――
「……」
――カサカサカサカサ――
「……」
――カサカサカサカサ――
「……」
――カサカサカサカサ――
「……」
――カサカサカサカサ――
「……」
――カサカサカサカサ――
「……」
――カサカサカサカサ――
「くべよ」
「はい」
――ザッザッ――
「御後見は慈懐様」
「……美致姫様が御裏護様じゃ」
「……此より縹動かば本寺は御遠念の貴刃を……」
「若君がことなれば、討ちて討ちて残さずの御覚悟と」
「其が折は本寺に構うなとの御遺言じゃ」
「御本血様をと」
「寛姫様。実承様。我ら、しかと承りましてござりまする」
――バサバサバサバサ――
「動くなれば宵または明け」
「なれば姉君。我らを一夜此処へ」
「わかりた。苔善。館を固めよ」
「心得ましてござりまする」
〈於本寺〉
――スススス、スススス――
「申しつけて参りました。表は明恵に任せてござりまする」
「よかろう。見よ普関。いつの間にやら白ねずみが角に。寛養が化身かのう」
「御師匠様が、弟子が不肖を詫びに戻られたのでござりましょう」
「承和」
「御誕生時より護役を仰せつかりながら……。只只、承和が不明にござりまする。代も叶わぬ此が上は御存分となさりてくださりませ。犬にも劣る者など御侍り汚しにござりまするっ」
「……我とて……藤尾が声を……。不明は同じ。承和よ。我こそが後見ぞっ。御|生入成す庇護者は我じゃ。なれど。深朝が成せしことを、我は成せなんだ。役立たずは我よ……」
「喜致様……」
「……美致は達ちて生みし喜致を我に。其が喜致を我は慈懐に。そなたは慈懐が後見。帝血は、必ずや美致が願いを叶えるであろう。彼が寛養なれば、『短慮はならず』と我らに申し参りたのじゃ」
「……くっ……っ……」
「承和。我と共に夜守をいたせ。姫は難しき事をよう言うて……そなたが一番弟子じゃ。在りし日治君が、姫と語るは誰より楽しと申しておりたわ……」
「……誠賢き御方にて、此が承和も時には……くっ……うぅっ……」
「……我もつい……遣り込められたわ……ハ、ハ、ハ……」
「……何を……に……ござりまするか……」
「……我との間に秘め事は無し、と言うたのよ、するとのう、――ジャリン――じゃ」
「ジャリン……」
「突如、我と深朝が鈴をのう……。『御父君様、御母君様が繋ぎ鈴』と……」
「……して喜致様は」
「告げしは『中宮様』と。宣るしかあるまい……」
「それではっ……」
「ようやっと、迎え入れぬとする矢先……」
「口惜しゅう……ござりまする……っ……っ……くぅっ……」
「……此が髪を……直ぐは落とさで六歳後までと……。喜致に一目、姫宮が姿見せたしと……。……くっ……っ…くっ……」
〈於 奥院奥間〉
「中将。具合は」
「……申し訳ござりませぬ……」
「葬儀は無事に」
「……申し訳……ござりませぬ……ぅぅ」
「皆、穏やかなる御面でありた。……今頃は深朝を囲みて花摘みを……。嘆くは此方ばかりやもしれぬぞ……」
〈翌朝〉
――タタタタ、タタタタ――
「姉波君様、参られましてござりまする」
「わかりた。普関、明恵と共に隣間に控えよ。宇世も直参るであろう」
「かしこまりましてござりまする」
――ザッザッザッザッ――
「只今戻りましてござりまする。二の君と偽りて妹宮様へ使いを送りしは由野姫にて、二の君自ら詮議され一族皆極刑命ぜられましてござりまする」
「何の罪じゃ」
「乳母と謀りて、毒なる薫物を、妹宮様に。其故、御命短めし罪にござりまする」
「如何なる毒じゃ」
「薬師が調じしものと。検追頭が薬師を捜しておりまする」
「由野姫は何故に」
「『二の君が御寵愛を妬みて』と申ししそうにござりまする」
「妬むも何も……。姫は応じてはおらなんだ」
「いかにもにござりまする。されど、二の君が御様甚だしく、己が中宮位を危ぶみて、とのことにござりまする」
「由野姫が里は、蔓名守家であろう。母が里は浅縹。我らとの縁は無きなれど血類は多かろう」
「されど、二の君には狂わぬばかりの御怒りにて、只今も処刑の最中にござりまする」
「質甚だし。姫が乳母に、然様言うたそうじゃが……」
「幼き頃より、其が質ありて、長じて後も変わりませぬ……」
「何故、然様な者を姫に近づけたっ」
「二の君が後見なれば、国泰きこと第一と。御幼少より本寺にて、博学なる皆様方が御薫陶を御受けに御なりなされたる妹宮様であられますれば、必ずや二の君が質、御収めくだされまするものと」
「姉波君。先帝が、そなたを後見に据えしは何故かお分かりか」
「されど、昨今の奥の殿の乱れは皆が目に余るものにて、六妃順次懐妊いたせど互いに子堕ろし薬を用い、里戻りの妃もおりまする。中宮殿が主とならるる御方がおらねば、内裏はもちませぬっ」
「其故、弟君の葬らるるに賛同いたせしか」
「……」
「治君が事は二の君が命であろう」
「……同じ後見とは申せ、妹宮様と二の君とでは、雲泥の差異にござりまするっ」
「其が雲の姫に泥をとか」
「……」
「二度言おう。我が父君が如何に思し召され、愛姫美致を降嫁させ、婿兄のそなたを二の君が後見になさりしか、お分かりかっ」
「……至らぬことにござりました」
「戻られよ」
「今一つ。二の君が妹宮様に今一目とっ。参りますれば御開門をっ」
「断なり」
「……御仰せ違わず御持ちいたしまするがよろしゅうござりましょうやっ」
「美致姫亡き今、世俗の何に遠慮があろうかっ。戻られよ」
「……かしこまりましてござりまする」
――タタタタ、タタタタ――
「御門跡様、検追頭様が参られておりまする」
「此処へ参れと申せ」
「かしこまりましてござりまする」
――タン、タン、タン、タン――
「喜致様。御詫びの仕様もござりませぬっ」
「宇世……」
「……くぅ……くっ……くぅ……」
「……鬼の弾丈が泣くは深朝以来か……」
「……くっ……うぅ」
「面を上げよ」
「……うぅぅ……くっ……くっ……」
「本寺のヤタとて気付けなんだ。我も」
「……なれどっ……」
「深紐は本寺も蓮景殿も使う。使いが跡など誰が追おうか。皆、一族じゃ」
「……うっ……うっ……」
「……」
「なれどっ……なれどっ……」
「如何に検追とて、一族は別。父君も我も其までは命じぬ。そなたが落ち度には非ず」
「なれど……なれど……紅季女に気をとられ、愛らしき姫宮様をっ」
「美致は……皆が恐れしそなたが良しと。目が優しと言いておりた……」
「……上がりし折りは、垣より……『宇世、宇世』と……ぅぅ」
「検追準頭を使いにとはのう……」
「『此を御兄君様に』と……」
「押し花やら……折り籠やら……。深朝が文はと探すに……何処にもなしでのう……」
「なれど……なれど……包みしは深朝様にて……。御花添えしも深朝様にて……くぅぅっうぅぅ」
** ** **
「我らが分まで泣きたのう」
「御許しくださりませ」
「泣くも供養。良い」
「有り難きことにござりまする」
「なれば、仔細を。薬師は如何に」
「昨夜のうちに、河原にて絶えておりましてござります」
「河原か。姉波君が参りて、只今仕置きの最中と申しおりたが」
「一ノ川の河原から三ノ川の河原まで、酷獄の様にござりまする」
「本寺は喪中と言うに……」
「誠に……」
「して」
「深の御紐故、常のことと御取り次ぎいたせしと。御届け処が奇しくも御薫物場にて、誰ぞが結びを解きしと」
「薫きたのか」
「御跡が」
「薬師は何処の」
「由野姫が母元、浅縹が者にござりまする。前より由野姫が乳母と通じしなれど、子堕ろしの薬とばかり……。深の御紐は……して遣られましてござりまする」
「……父君母君が内を退かれ八歳。知らぬ間に妖殿にとか……」
「……申し訳ござりませぬ……」
「内はまた別。そなたに責はない」
「なれど開与様が折、碧公も紅季女も討きておらば、只今の内裏に由野など……」
「そなたが手は美致が握りし手。彼の折も此よりも朱とはならず」
「喜致様……」
「宇世。時には中将を。そなたになれば心許そう」
「中将様は」
「只今は奥院に。禁じし故、自害はいたすまい」
「心得ましてござりまする。……喜致様。御願いの儀がござりまする」
「申さずとも良い。任せる」
「大御心、忘れはいたしませぬっ」
「なれば、我も頼み事ある故、事定まりなば今一度本寺へ」
「かしこまりましてござりまする」
――タン、タン、タン、タン――
「普関、明恵」
――ザー――
「……内裏にも居らぬに、悋気のみにて端宮が女主を殺こうか」
「……」
「……」
「美致が非業は、後見が我でありし故。二の君が姫に寄り、我と繋がるを忌まれし故でありた」
「うぅぅ……」
「……くぅっ」
〈於奥院奥間〉
「中将。姫達は由野姫が悋気にて殺められしとのことじゃ」
「……」
「御門跡様、悋気とは」
「二の君が懸想甚だしく、己が中宮位を危ぶみてと」
「……」
「何と言う……何と言う……」
「……」
「……美致姫様には何の咎も無きに……。和子様まで御放しになりなされしに……。御門跡様……御仇は討たれませぬのか。元は全て彼のうつけ君。なさるるがままにござりまするかっ」
「控えよ清月っ。……何人よりも……御辛きは……くっ……若君じゃぁ……くっ……」
「御許し下さりませ。なれど……なれど……っ……っ……」
「……清月が申す通り。なれど、彼のうつけを東宮と定めしは、我が父君じゃ……。我が退き、従弟宮が立てども亡き者とされ、故に一の君は辞退。二の君が母方が宮を殺めしと薄々分かりしなれど、父君は二の君側を廃さず、立太を認められた」
「……なれど……彼の折……内にては……二の君の外は立太御辞退。多くの者が……若君が御還俗を……御父君様に御請願なされ……。若君……二の君立太には……斯なる仕儀が……ござりまして……ござりまするぅ……っ……」
「……我が彼の折……我が元凶……」
「若君っ……。……さりながら……二の君は只今は……政に心向けぬ故、世は治まりておりまするっ」
「姉波君が、出自に依らず妃をあてごうて来た故じゃっ」
「さりとてもっ……。世は治まりておりまする。御父君様が政は、直の君には繋がねど、優れしものにござりましたっ」
「中将……」
「若君っっ……。退きたればこその、美致姫様っ。退きたればこその、喜致様に、ござりまする…ぅぅ」
「中将……」
「あうっ……うっ……ぅぅ……」
〈於内裏〉
「お上っ、お上っ。御沙汰を御返しくださりませっ。お慈悲にっ、お慈悲にっ」
「黙れっ」
――ドスン、ドスン、ドスン、ドスン――
「おお、姉波っ。支度は出来し。此より姫宮が元へ。せめて、最期に御手など」
「……『断なり』と仰せに」
「何っ。碧公は何もしておらぬっ。何故にっ」
「お上っ。本寺は一族に非ずっ。お上は縹がお上にっ。姫宮が妖幻より御目覚まされませっ」
「紅季女殿っ。滅多な事を申すものではっ」
「お前とて偽りは許さぬぞっ。紅季女っ」
「和子よっ、和子よっ、そなたは我が和子っ。紅季女が子っ。縹一族にっ」
――バシッ――
――ドタッ――
「あうっ」
「気でも狂れしかっ。碧公は亡き東宮様と陽当姫様が和子じゃっ」
――ダン、ダン、ダン、ダン――
「姉波殿。御尋ねの儀が」
「詰間か」
「如何にも」
「無礼者ぉっ。姉波は碧公が後見ぞっ。連れ行くは碧公が許さぬっ」
「臣が頭、大臣命に」
「臣が頭じゃとっ。臣は碧公がものっ」
「碧公殿。我が一族が頭は、先帝様が二の君様に」
「ぬぅ……。なれど、なれど、姉波は臣に非ず。宮者じゃっ」
「宮方が頭は蓮景殿に。先帝様が御養女の姫宮様に。先々代東宮妃、晴姫様にござるっ」
「……」
「では、姉波殿」
「待てっ。姉波っ。紅季女が偽り正してから行けっ」
「……真がことに」
「ひっ」
「何っ。そなたまで紅季女に巻かれしかっ。なれば言うてやるっ。碧公が母、陽当姫様は、碧公を産みて直ぐ―」
「陽当姫殿も真の二の君様も、其が折紅季女が手にて」
「検追頭っ、其方には聞いておらぬっ」
「東宮様も紅季女が手にて」
「何っ。姉波っ、真かっ」
「……真に」
「先帝様も本寺が親王様も、御承知」
「なっ……なっ……なっ……」
「紅季女。中縹がジンエを知りおるな」
「……其は誰ぞ」
「レンヤが甥じゃ。親しかろう」
「弾丈……何をっ」
「ジンエが首には対黒子ありし」
「何をっ、何をほざくっ」
「対黒子……。碧公が首の此は、覇者が証であろう。のう、のう、紅季女っ」
「東宮様が、『下女が身辺調べよ』と。御遺言となりしが」
「弾丈殿っ。其っ其は真かっ」
「此も御頭は御承知」
「なっ。なれば、なればっ」
「姉波殿。所行回顧は、詰間にてなされよ」
――ズっズズズ――
――ダン、ダン、ダン、ダン――
――ズっズっズっズっ――
〈於奥院奥間〉
――スススス、スススス――
「親王様、裏門にて温君様、大臣代理の房穂殿他五司殿御揃いて参寺を願うておられるとのことにござりまする。如何がいたしまするか」
「……房穂殿のみ会うというもゆくまい」
「かしこまりましてござりまする」
――ザッザッザッザッ――
「御門跡様。此度の儀、繰り事なれど我ら如何にても一言御詫びいたしたく参上いたしましてござりまする」
「温君。生前美致を快く迎え入れ、一族と遇せし事、礼を言う」
「比類無き姫宮様が御降嫁は、端宮が我らにとりて一代の誉れにござりました」
「御門跡様。父が名代として参りましてござりまする。此度の儀、拙家は深朝姫様が御里なれば、口惜しく断腸の思いにござりまする」
「兄君房見殿が跡を取られし宇能殿は病床と聞きしが、如何がか」
「姫宮様が御法要には御伺いいたしたしと申せど、老い更に深くとなりましてござりまする」
「……皆が揃いてとは……内に何かありたか」
「……二の君が、己が手、朱となしましてござりまする」
「如何なる事じゃ」
「乳母が元に忍びし男と乳母を、夜衛が武器にて」
「……」
「検追頭殿が急ぎ着きしが、二人息無く、身朱まみれとのことにござりまする」
「……何故夜衛が携器が其方に。乳母が申しつけ、置きしか」
「否に。夜警頭は『盗まれし』と」
「其が棍棒無くば、殴たれまいに」
「血海となりし故、穢処といたしても、よろしゅうござりましょうか」
「本寺より誰ぞを使わす故、近日中に焚き上げよ」
「かしこまりましてござりまする」
「改めまして、言上させていただきまする」
「よかろう」
「御門跡様、我ら確かに姉波君より『姫宮様中宮の儀いかに』と問われ賛同いたせしなれど、否と申さぬは夢物語と思いし故にござりまする。決して、心より望みし事にはござりませぬっ。なれど、其が奥に伝わりて此が様に。取り返しのつかぬことをいたしましてござりまする。何卒御許し下さりませっ」
――バサ、バサ、バサ、バサ、バサ、バサ、バサ――
「二の君が姫宮様に文送りなど……。ましてや中宮位をと望みておることなど思いも寄らぬことにござりましたっ」
「二の君は滅多に表におらず奥の殿におりました故、奥事は御後見の姉波君に御任せいたしておりました。見張るを怠りし我らが落ち度にござりまするっ」
「兄姉波が、己が一存にて弟治君を謀殺いたせしこと、血を分けたる者として御恥ずかしき次第にござりまするっ」
「姉波君が然様申せしか」
「はいっ。己を失しておりたと悔やみておりました。姫宮様に二の君が守など何故そこへ至りしかと。兄弟なれど、慮れずにおりまするっ」
「……我は此度が姫宮が事、我が責と思うておる。我が不明でありた故……」
「御言葉なれど、二の君が執心なくば姫宮様は……」
「房穂殿。姫宮は治君が七日に、我に憂面を見せたなれど、ついぞ言の葉は。朝右衛に問きて元を知りた。其故、俗世より退かせんと……」
「御出家を御定めおられたのでござりまするか」
――ザワ、ザワ、ザワ、ザワ、ザワ、ザワ――
「来月の治君が命日に剃髪と。庵も整いおりた……」
「……さぞ、御無念にて……」
「朝右衛より聞きし折、直ぐ様尼にしておらば……」
「……申し訳、ござりませぬ……」
「美致は幼き頃より二の君が質を見知りし故、仔詳を知りた我が姫宮を庇わば必ずや争いとならんと周囲に口止めし……亡君が奥の方を守らんと覚悟を決めておりたそうじゃ」
「……尊き御方が、御独りにて、其までの御覚悟を。……恥ずかしゅうござりまする……」
「……お許し下さりませ……お許し下さりませ……我らが二の君を制せなんだばかりに……」
「うっ……うっ……」
「うっくっ……くっ……」
「……くっ……うっ……」
「……御門跡様。何事も今更になりまするなれど、兄姉波が一命を賭しても二の君が退位を成さしむると申しおりまするなれば、御許しいただきとう……」
「俗世と隔せし御門跡様に御頼みいたしまするは……なれど東宮空位故、何卒御継を御定めいただきとう……」
「御門跡様……」
「御門跡様……」
「本寺と俗世とは隔てねばならぬ理あれど、此度が事は其が元。本寺を統べるは俗世を見ることと思はざりしが、先帝が愛姫宮落命の元なり。思えば我が退きしより皆には様々なる気苦労を――」
「されど……されど……御辞退なくば、御命が」
「なれど、受けねばならぬことでありたやも知れぬ。さにあれど、退きし我なれば、我に政の才は無し。期を逸し、姫宮を落命に至らしめしなれば、謀り事の才も無し。故に、先中宮より帝血を受けし我なれど、帝位に質する才無き故、血流は此までにて。還俗はいたさぬっ」
「……」
「……」
「なれどじゃ。我が父君は、東宮を滅せられ、我を本寺に放たれ、愛姫宮にも降嫁を選ばれ、忍びに忍ばれながらも、治世を泰う護られた。御側に、茅大臣ら優れし臣のおりしことは言うまでもなしじゃが。故に我は、我が父君が御筋を帝位にと案ず。直系はおらねど非業の死を遂げし前東宮は、父君が義兄君先々帝が和子にて父君が甥筋なれば、前東宮が一の君を今一度帝位に。一の君は亡き美致姫が許婚なれば、姫宮が為にも帝位に即き世を治むるが良し。皆は如何に」
「……」
「一の君なれば、三妃は皆我が一門。正妃も定まりおりて、姫なれど和子もありと聞く」
「なれば、一の君が御後見を御受け願えましょうや」
「美致が後見務まらなんだ我に、新帝が後見など縁起でもないわっ」
「なれど……」
「温君がなすがよかろう」
「……」
「兄に代わりて姉波を継ぎ、一の君が後見、務めよ」
「温君、御受けなされよ」
「そうじゃ。兄君が失態、埋められよ」
「……御門跡様。御仰せ有難く御受けいたしまする」
「上上じゃ」
「されば、早々一の君に」
「『縁浅からぬ美致が供養に』と我が言うたと告げよ」
「かしこまりましてござりまする」
「治世の優れたるは優れし臣が支えありき。皆励めよ。……今一つ。亡き姫宮は、真は緒岐親王様が御筋にて、我と同じく帝血を受けし者でありた」
「誠にござりまするかっ」
「ではっ……ではっ……」
――ザワ、ザワ、ザワ、ザワ、ザワ、ザワ――
「誠じゃ。されど、もうおらぬ。我にも姫宮にも和子はない。よって、此が後、如何なる者が、我らが筋とて名乗りを上げようとも、全ては方便ぞっ。誤りてはならぬっ」
「心得ましてござりまするっ」
「此が先は、二度と俗世への口出しはなさぬ所存。なれど、美致が供養の治世なれば、用あらばなそう。訪ね参れ」
「御仰せ、何よりの励みにござりまするっ」
――バサ、バサ、バサ、バサ、バサ、バサ、バサ――
** ** **
「普関。二の君が、己が手を朱に」
「一体誰を。もしやっ、宇世をっ」
「否否。紅季女と其が元に忍びし男をじゃ。夜衛が携器にて殴ちかかり、二人共絶えしと」
「では……」
「棍棒は、深紐の返しであろう」
「……らしゅうござりまする……」
「宇世と初に会いしは、本寺にござりました。まだ三つにもならぬ幼児にて。なれど、辛抱よき和子にござりました」
「二歳下よのう」
「はい。呼ばれし五児の中で最年少に。なれど、普関が睦みしは、宇世のみにござりまする」
「宇世の父君は大臣補佐が長故、寛然が、宇世を深朝に、そなたを我に付けし。やがてはそなたと共に学師と大臣となるはずが……。御兄君が難にて、東宮に立ちし乳兄弟の我が従弟君に請われ、検追役へ」
「十四にて。深朝様が御従妹姫様を奥の方様に迎え、準長となりて直ぐにござりました。なれど、請われし東宮様が、祥致様が御後を。御警護におりしに……」
「……此が縁にて本懐遂ぐるとは……のう……」
「遂げど、遺恨は増しましょう。……無念にござりまする」
「承和……」
〈六日後〉
「二の寺の法祥にござりまするぅー。御開門をー」
――ギィー――
――ギィー――
――ギィー――
――スススス、スススス――
「親王様、只今法祥着きましてござりまする」
「三の寺の泉永にござりまするぅー。御開門をー」
――ギィー――
――ギィー――
――ギィー――
――スススス、スススス――
「親王様、只今泉永着きましてござりまする」
「揃いたか」
――ザッザッザッザッ――
「御門跡様っ」
「御門跡様っ」
「遠路よう参りた。久しいのう」
「御先代様が御法要来にござりまする」
「息災そうじゃのう」
「我ら次期四十に届きますなれど、まだまだ若きより胆力はござりまする」
「頼もしきことじゃ。普関などは後生の伴をなすことしか思うておらぬわっ」
「ハハハハ」
「ハハハハ」
「……御門跡様。姫様が儀、普関様より……」
「……無念にござりまする……」
「……御賢明……御端麗なるが……何故障りとなるのでござりましょうか……」
「母姫は二十一、美致は二十五。四歳も長うおりたわ」
「長うなどと、まだまだに……ぅぅぅ……」
「ようやっと、温かうはあらねど二人共我が元に戻りたのよ……」
「……くっ……くっ」
「美致が半身は本寺が姫故、幼き頃より亡寛養始め皆によう見てもろうた。手のかかる姫にて皆手古摺りたであろう。礼を言う」
「御門跡様……然様なことは……」
「我らこそ、雅なる御方が斯様な荒場に……。どれほど和ませていただきましたることか……」
「御護りいたせず……っ……っ……無念に……無念に……」
「本寺に居られしなれば、一指たりとも……一指たりとも触れさせるものでは……」
「中将殿等は一体何を……」
「中将は、朝右衛始め己が身内を九人も。皆姫に添き参りた。薬湯の毒見はなせど薫物までは。増して深の紐なれば、如何にうつけ君からとて無碍にもできぬは道理。我なれば池なりと放るが、そなた達にもできまい。……奇しくも形見分けの場に……。好むに与えよとて試しに薫きたのであろう。姫が命にていたせしこと。責むるは誤りぞっ」
「……然様な奸計をよくもっ」
「……鬼畜じゃっ」
「……縹を……縹を討ちませぬのかっ」
「美致が戻るなれば、討手を向け萬の鬼畜が屍を積まん。なれど……」
「……うう」
「くっ……」
「普関、清月を」
「かしこまりましてござりまする」
――スススス、スススス、ササ、ササ、ササ、ササ――
「清月にござりまする」
「連れて参りたか」
「はい」
「内へ」
「はい」
――ザー――
――ザー――
「此なるは、美致姫と治君が和子。名は我が名をとりて喜致。清月は中将が孫にて喜致の乳母じゃ」
「……なんとっ……なんと……っ」
「御本流のっ……待望の若君様っ。なれど……っ」
「姫様は、御代わりにっ……御代わりにっ。くうぅっく……っ……くっ……」
「二月前に中将が元にて生まれし。男故、直ぐ引き取りて三月後には里に送ることとなりおりたなれど、一月早う送ることに。出自を明かせしは、そなた達と慈懐のみ。戻す折は、寛養が姫の子といたす。先代は懐深き故、堪えてくれよう」
「寛養様なれば、一も二もなく……」
「……御喜びになられましょう。姫様を御娘君様が如く愛でられ……っ……うっ……」
「……なれば、御門跡様は御祖父君様なれど名乗られぬと」
「姫が和子と知れてはならぬ故」
「なれど本寺なれば……」
「美致も終生名乗らぬと。なれど、此方にて共に居れるなれば至福なりと言うておりた」
「然様に……うっ……くっ……然様に……くっ……くっ……」
「……御門跡様、慈懐はっ。慈懐は何処にっ」
「そうじゃっ。慈懐の姿が……」
「もしや……独り討手となりて……」
「慈懐は仔細を知らぬ。事が起こりて直ぐ……姫にも会わず里に参りた」
「……会えますまい……参りし折より『スギサク、スギサク』と。……慈懐が精進は姫様ありき……故」
「……此方の者は……皆、同じに……ござりました……」
「其故、発つ前に、喜致が後見を。皆に計らず決めてしもうたが」
「御門跡様。我らに異議など露ほども」
「適なる者と」
「何よりの励みとなりましょう。慈懐なれば姫様に御仕えいたすが如く喜致様にも」
「我らも支えとなりまする」
「よう申してくれた。慈懐には、喜致が為にも何とても、我が亡き後、本寺を束ねさせねばならぬっ。なれど、彼の者は未だ若輩。故に、此より我は更に心し仕込む。皆も、子とも弟とも思いて、彼の者に添え。此は遺言。しかと心得よ」
「かしこまりましてござりまする」
――バサ、バサ、バサ、バサ、バサ――
「清月、きちを」
「はい」
――ザザ、ザザ、ザザ――
「皆、抱きてやりてくれ」
――ザザ、ザザ、ザザ――
「……普関にござりまする」
――ザザ、ザザ、ザザ――
「……明恵にござりま……する……うっうっ……」
――ザザ、ザザ、ザザ――
「……泉永に……ござり……ま……くっうっくっ……する……」
――ザザ、ザザ、ザザ――
「……うっ……くっ……法祥に、ござりまする。くっ……くっ……うっ……」
――ザザ、ザザ、ザザ――
「喜致。父君母君はおらねど、そなたは果報者。忘るるな。清月」
「はい」
――ザザ、ザザ、ザザ――
「戻りて良い」
「かしこまりましてござりまする」
――ザー――
――ザー――
「御門跡様。慈懐が里は確か――」
「一木じゃ」
「彼方まで喜致様を」
「如何にも。其故二の寺三の寺のそなたらを牛車にて参らせた。一木は三の寺の末寺の先。山越えなれば近うなれど、首も座らぬ赤児と中将が孫姫なれば、本寺が車にて送る他無しと思うておるのよ」
「古き書き付けに“宮家の和子を御門跡が御車にて送りし”とありし故、先例に法りていたそうと。なれど先例の和子が御歳知らず。喜致様は、未だ御首も座らねば、長道中如何になさばと、親王様と思案しておる」
「なれば普関様。道中の内寺で休み休みで行きまする。昼着きし処で宿し、朝になりて進むを繰りて行きまする」
「雨風なれば進まず、障りなきよう行きまする故、何卒、我らに御任せ下さりませっ」
「されば、任せよう。諸事は明恵に」
「かしこまりましてござりまする」
「御門跡様、発つは何時がよろしゅうござりましょうか」
――トトトト、トトトト――
「明恵様ぁー、どちらにおられまするか、明恵様ぁー」
「失礼いたしまする」
――ザー――
――ザー――
――ツッツッツッツッ――
「此方じゃ、此方じゃ」
――ツッツッツッツッ――
「明恵にござりまする」
「入れ」
――ザー――
――ザー――
「只今、房穂殿が使いが此を」
――カサ、パラ、パラ、パラ、パラ――
「……二の君、退位じゃ……」
「……おお……」
「されば御跡は」
「一の君じゃ」
「くうっ……誠なれば……誠なれば、美致姫様が……喜致様が……」
「申すな泉永、申すなっ……くっ……うっ……」
「……姫様が七日に此が知らせとは……くぅぅ……」
「……皮肉なことに、二の君が浅縹を仕置きいたせし故、中縹も深縹も暫くは動けまい。表には一の君が筋をと言い置きし故、内裏も幾代かは落ち着こう。此にて肩の荷が一つ。後見も終いにて二つ。残るは慈懐と喜致のみじゃ……」
「親王様……」
「本日立太。即位は五日後じゃ。当日は多くの目が表処に向く。其が間に抜けよっ」
「心得ましてござりまするっ」
「承知いたしましてござりまするっ」
〈一月後〉
――ササササ、ササササ――
「御師匠様、只今戻りましてござりまする」
「よう戻りたっ。変わりなきかっ」
「はい」
「……身細うなりたのう」
「日頃坐位ばかりにござりました故」
「……里は……如何がでありた」
「月前なれど事なく長が館に。娘が嫁ぎ先筋といたすそうにござりまする。豊かなる処故、御不自由はなされぬかと」
「有難し。して、清月には」
「御渡しいたしましてござりまする」
「……二人は。息災か」
「喜致様は、御首も御定まりて御機嫌よう笑まれまする。清月殿も変わりはござりませぬ。『泉永様、法祥様始め皆皆様方に此が上のう良うしていただきし』と申されておりました」
「礼を送りておこう」
「御師匠様……」
「本日はゆるりとし、夕飯の後、奥離れに参れ」
「かしこまりましてござりまする……御師匠様……」
「如何がした」
「……御報告に上がりても……よろしゅうござりまするか」
「待ちておろう。母姫殿が側じゃ。なれど……其がなりでは驚こう」
「整えて参りまする」
〈於奥離れ〉
――ササササ、ササササ――
「遅うなりました」
「元に戻りたのう。先程は毛面でありた」
「お許し下さりませ」
「ハハハ……」
「藤尾は何時」
「翌朝じゃ。我らが代わりに。見事な犬よ」
「子らは……」
「照波は……舐めておりたわ。只今は、終りし処で眠りておる。蒔尾、松尾は吠え様日々猛となりて……」
「誰ぞを転ばせましたるかっ」
「否。人に寄らぬは常通りじゃ。なれど、喜致が発つ朝騒ぎてのう。故に普関が先を案じ」
「日延べとなりたのでござりまするか」
「我も其が善しかと。なれど其が折、突如照波が一声を」
「またも照波が」
「雄雄しき山犬声を。胸突く美声でありた。兄犬等は耳立て黙りた。其で終いよ。照波が頭じゃ」
「何と」
「我には得心できたわ」
「……既に耳にしておろう」
「戻り道中様様に。されど御話しくださりませ」
「……普関が戻りて此処に。母姫殿が御形見の御衣を掛けたわ。彼の事無くば今頃は、此方の庵主となりておりしものを……」
「……其は真で……」
「……本寺にて最後となりし彼の日、何も語らなんだか」
「……只只御泣きに……。治君様が七日なれば、御心細き故と。なれど、あまりに儚き御姿にて、御前去らば直ぐにも鬼神に奪らるる心地にござりました」
「……泣きたのか……そなたが前で……」
「我が母君も祖母君も三十路まで至られず。なれば姫もと仰せられ……。今宵が今生の別れとなりなばいかがいたすと……さめざめと……」
「……父君御崩御より二の君に懸想され……」
「……」
「治君身罷りしは二の君が命にて」
「……其がこと姫様は……」
「巡り良き故うすうすは。……中宮位をと望み参りたそうじゃ」
「……有り得ぬ事にござりましょう……」
「彼の日は、即に自害を定め参りたのじゃ。故に、そなたに、別れを告げるでもなく、告げぬでもなく」
「御師匠様には彼の日何と」
「主となりた故、暫くは参れぬと。憂き様が残り、朝右衛に問きて仔細を知りた」
「其故、御落髪を」
「なれど、治君が初法要にと定めし故……我が期を誤りたのよ」
「……御師匠様。何事が姫様が御身に」
「……治君が形見分けとて、皆で空薫物を選びおりたそうじゃ。其処へ内裏より常の使いが深紐をかけし品を。解きたれば薫物故、同じく分けなむと試し薫きを」
「……薫物に……」
「……姫と朝右衛以下九人皆」
「……二の君に……ござりまするか……」
「由野姫じゃ。紐を盗みて」
「……何故に……」
「……悋気」
「悋気……」
「……中宮位に目が眩み。我欲を使われたのじゃ」
「なれば。真の仇人は」
「縹じゃ」
「なれど。何故御命を」
「我が後見でありた故」
「……然様な……」
「輩は仇故……。政に入りて、公に縹を誅すと見えたのよ。……大御心に応わんと……其のみにて本寺を太う。……なれど其が仇に……」
「……御師匠様……」
「『不明』とは此が事。慈懐、忘るるな」
「……くっ。……くっ……」
「……『何故討たぬ』と、申しはせぬのか」
「動かれぬには、理由がおありにござりましょう」
「外様は。なれど内は空でありた。姉波君が参りて戻り際『二の君が美致に今一目と言うておる故開門せよ』と申し――」
「なさりたのでござりまするかっ」
「断りた。姉波君は血相変え、まま伝えんとて戻りたわっ。我にも逆る血がありたのよ。放ちたる言の葉は戻らぬ故、此も定めと腹くくりて待ちたれば、翌日参りたは房穂殿らでありたっ。『二の君退位』を持ちてのう」
「遅すぎましょう……」
「其が折わかりた。退位など真は何時なりと成せたのじゃ、公卿には。なれど、成さなんだっ」
「何故に……」
「誰も皆、的になりとうない故じゃっ。的は内裏生まれが務めと心得るのであろう」
「……公職におりし方々が……」
「父君が御治世までの本寺は、東宮が学師が門跡となりて、折々に帝位が有り様は説けども真が御役は一族が護持にて、政とは無縁でありた。お上や優れし大臣が的となりし故。其が則を乱せしは我じゃっ。公卿にとりて、二の君も三の君も的とはならぬを、我は知らなんだっ。公卿が『帝血は表に居らねばならず』と思いおるなど、とんと……。御父君も我を還俗させなされず。詔勅をごねてみせれど、いつまで立ちても我も本寺より出ず。故に、表に居りし美致を以ちて、二の君が守役や断事が頭にいたそうと画したのじゃっ。美致を介し、我を表にと思いて」
「御方々は、御正気にござりまするか。二の君は、亡き中宮様や大臣家の奥の方様が御内に流るる帝血を狙う縹筋。故に姫様は、内裏を御退きなされたのではござりませぬのかっ」
「公卿は深姫殿がことを知らぬ故、美致がことも知らぬのよ」
「なれど、縹筋を其がままは、ござりますまいっ」
「一族なれど、此方とは了見が違うたのよ」
「なれどっ」
「美致を中宮にと計りたは、先は公卿であろう。数にも入らぬ宮家の女主より帝母が良かろうと、暗に美致に申し参りたのじゃ。二の君より先に誰ぞを美致に近づけ、此方筋の和子上げをさせ、もし男子なれば直ぐ様立太。袴着には二の君を退位させ新帝に。無論、後見は我じゃ。本寺が後見なれば、治世も安泰。公卿も安泰。美致が位も不動。無理に二の君を廃さずとも『此なれば彼方にも此方にも良し』と申したかったのであろう。……なれど愚策は露見するもの。間謀により縹は魂胆を見抜き、故に美致を除く謀みを。由野姫に様々吹き込みしは縹であろう。輩の方が女人を知りおりたということじゃ。我も不明でありた。なれど、公卿は其が上。欲無き者が心根も、欲深き者が心中も、測すること無く利のみにて事を運び、此処に至りてようやっと鈍きも大事と気づき……。彼の死人面っ、そなたにも見せたしと思うたわっ」
「……くっ……臣が分際で……。然様に汚らわしき姦計を、よくもっ。姫様は、何と御辛き御思いをっ。其が上、尊き御身まで……」
「美致はのう、人柱となりたのじゃ」
「御師匠様……」
「美致が儚うなりし故、浅縹は二の君に誅され、二の君は退位。内裏が雲は晴れた。美致は、命を代に、姉波君も公卿もいたさなんだ優れし政を成した。さすが、中宮位生まれ。見事な人柱よ」
「……惨う……ござりませぬかっ」
「惨しっ。なれど、此は真がこと。かしづかれし者が定めを、我らが知らずにおりただけじゃ」
「なれどっ。降嫁なされし美致姫様が御守護は、亡き先帝様から公職方への勅命にはござりませぬかっ。二の君廃位も勅命にはござりませぬかっ。其をっ……。時期尚早とて廃位を延ばし……保身にて、的欲しとて、御後見様を無きが代といたし……。姫様に依りて御決意にまで……。くぅ……くっ……。憎うはっ……憎うはござりませぬのかっ」
「……先に美致自ら命絶つなれば……彼臣等を本寺へ呼び命奪りておりたっ。今とて……。仇人は縹と分かりても……。臣等が喉に食いつき、腸掻き出し、肢体千切りて魂まで握り潰したしっ。後生などっ……。後生などっ。許してなるものかっ。……なれど……なれど……喜致が。……内鬼を表には出せぬ……」
「なればっ。其が御役、何卒、慈懐に仰せ下さりませっ。御守護を忘れし者など一族にあらずっ。縹は無論、姫様に仇なしし者ども何も何も何もっ。何処までも追い追いて、皆、皆討ちまするっ」
「……屍を積みて美致姫が戻るなれば、とうに成しておる。此は教えにあらず。聞き流せ」
「なれどっ。反逆者を彼のままとは。此が上の御忍従は、姫様にっ、姫様にっ、申し訳が……。御師匠様っ」
「……若き日、御義父君が『帝力で熨さば――』と御諌められしを忘れ……。美致が和子抱き(必ずや我が残生にて輩を)と決ししなれど……。美致は今生を去りた……。帝血は『誅』を許されず。慈懐。我が轍を踏むはならずっ」
「御師匠様……。御仰せなれど。慈懐は参りしより姫様が陰護。只今は御兄君様が弟子にして、和子様が護役にござりまするっ。姫様が御仇討たで、何役御務まりましょうやっ」
「そなたが一義は喜致っ。其が美致が願い。己がことを守れ。我も普関も喜致には添えぬ」
「……なれど『姫が分まで御仕えいたせ』が御遺言っ。師匠様が御嘆き、此がままにては……『腑甲斐無し』とて……後生にて、御叱りを、いただきまするっ」
「我を思うなれば、我が意に続けっ。願いが為に生きよっ」
「くぅぅ……くっ……御師匠様っ」
「先にも言うたが……。表が者は、我が在る間は本寺を当となす。されど、我亡き後は、そなたは内裏が者でなし。″隔せ"よ。喜致が出自は寛養が孫。彼の者も親王が筋なれば、聞きて依ること無きにしもじゃが、"護れ"。二代に渡りて人柱とはさるるなっ。"避げよ"っ」
「くっ……くっ……御仰せ……忘れはいたしませぬっ」
「上上じゃ。されば心がままに泣け。此方は奥離れ。何処にも届かぬ。泣きて泣きて、願いを刻めっ」
「御師匠様……御師匠様……く……くっ……ふぅっ……くっ……」
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〈於普関が里〉
「承和様」
「敬称は止めよと言うておるに」
「なれど、右も左も判らず泣きおりし折、世話になりた身としては」
「実承で慣れおりたのじゃ。……彼の頃が懐かしいのう……」
「誠に……」
「聞こう」
「レンヤは『愛妾殺りて、寺宮に吠え面かかせ、ああ楽し』と言うたと」
「まなめ……」
「喜致様に手が出せぬ故、見当違にて姫様を」
「……」
「……東宮、開与様は……。レンヤが、喜致様を本寺より還俗させたしとて、亡き者に……」
「宇世……」
「喜致様への、常越えし横念見えし」
「如何な深念も、喜致様には着される故無しじゃ」
「如何にも。隙有らば捕らえたし」
「承知」
「勅命背きは如何に」
「御役目に従わん。承和は寺者」
「宇世は外護。五家は公録に」
「承知」
ここまでお読みいただきありがとうございました! 次回からは舞台が再び現代に戻ります。