プロローグ
まずは前世の話から。よろしくお願いいたします!
川裏の霊息吹に山神はいた。ある日、下界に輝きを見た山神は、初めて川鏡を抜け、そっと。岩間で日と出水の戯れを見た。あまりに楽しそうなので暫く。ところが、戻ろうと引いた時、出水に気づかれた。パッと水鏡と化した出水は知らぬが故に慄き、夢中でその影に浮き世の息を。山神は(!)もなく訳も分からず人世へ追われ、好奇が高貴に招かれた。
霊息吹忘れの山神は、女児として誕た。父はある国の最上執政官茅大臣。母は某親王の娘。二人には長らく子がなく、やっとの授かり姫だった。母深姫の一字を付け深朝姫と名付けられた山神姫は、直ぐに第二皇子の許嫁とされ、次期中宮と定められた。
♢♢♢♢♢
深朝姫は四歳で皇子と対面となった。その日、中宮殿は幼い姫への配慮から平成を保ち、母深姫は女官に混じり娘姫の手を引いた。童も女官もいつもの成し事に勤しむ御間に、深朝姫は一歩。すると、下座の輪にいた少年が首を伸ばし姫を見た。気配を感じた姫もまた。目が合った。と、深朝姫は母姫の手を抜けタタタと少年の前に。そしていきなり乳母の柚子里と覚えたものに呼び掛けを付け言上を開始した。少年は見る見る瞼を上げた。言い終えた姫は目を細め、一瞬のはにかみ口の後パッと小さな歯を。すかさず少年は会心の両腕を広げ、その笑みを迎えた。談笑は止んだ。大臣家の幼姫が許婚君を見当てた事も驚きではあった。が、注視の先は――非礼を忘れて笑む姫ではなく、受け手君の表情――だった。
この少年″喜致親王″は、本寺の内弟子をやりこめるのが何より楽しい明朗闊達な十一歳。その皇子が七つも下の幼姫をまともに相手にするはずがないとは、承和を除き"喜致様"を知る皆の見解だった。けれども当の喜致様は、実は大臣家の姫に関心この上なく、初対面での己の印象を濃く深くと前々からあれこれ画策。そしてついに本日、母の隣りに護役承和を配座、自分は下座童の振りで″深姫殿の姫君″を待っていた。
親王は立ち上がると、深朝姫の手を引き上座へ。
「母君。此が、我が深朝姫に」
その言葉に笑み交わした二人の母姫は――中宮莉姫は大きく頷き、深姫は小さく礼を。 陰から見ていたお上の祥親、大臣の房見、本寺門跡寛然の三人は――友の二人は互いの愛児の大胆さに笑いを堪え、老学師は静かに双方の肩を叩いた。間近で見ていた乳母の中将は――手塩にかけた若君を瞬時で虜にした幼い姫に、妖ではないが底なしの何かを感じた。
翌日。今度は親王が大臣家を訪ね、第二皇子と大臣家の姫の仲は正式なものとなった。
♢♢♢♢♢
六歳後。大病もせず愛でたく十歳となった深朝姫に、来春妃を許す宣旨が下った。大臣家は常にも増して活気づき、併せて流行り病も引き込んだ。入った病は奥の方へも。が、幸い大事には至らなかった。ところが、本格準備に入ったある日、「眠い」と昼から床についた深姫は、人知れず帰らぬ人に。知らせを受けた箇所は皆暫し言葉失く、その後驚天動地の騒ぎとなった。
この時、深朝姫は本寺で、親王の乳母から内裏の作法を教授されていた。何も知らず戻った姫は直ぐに館の異変を感知。庇護を求め母の元へ――柚子里の制止は間に合わなかった。 穏やかな眼差しといつもの香りに包まれたくて駆けつけた部屋で、しかし、迎えてくれたのは顔を歪ませた父だった。母君がもう何処にも居られない――。命綱ともいえる元緒の切れた心はいきなり荒野へ。異界の魂を持つ姫山神にとり、肉体の繋がる生みの親こそが唯一の浮き世との接点であり、安定を与えてくれるものだった。深朝姫は立ちすくみ、やがて怯えが溢れ出した。
訃報を知った親王は、直ぐさま姫の元へ向かおうと。が、「暫し、配慮せよ」との父帝の言で、頃合いを見計らい訪れた。柚子里に促され御間を覗くと、心配だった姫は隅で縮こまり涙も拭わずに。たまらず駆け寄り抱きしめた。深朝姫は抗しもせず頭をその胸に。しばらくするとしゃくりを寝息に変えた。横にしてやろうと体をずらすと、指が衣を。親王は抱き直した。
――離さないで――と語る姿に、己の魂まで与えたくなったのだった。
――そなたとは、何処までも共にぞっ――この思いを山神は息するように吸い入れた。安らぎを失い消えかけていた心は、またもや唐突に真綿心地をしらされた。
この時から、両心は互いに替えのないものとなった。
♢♢♢♢♢
婚儀の日取りが再公示されたのは、喪明けの翌年だった。父の大臣は、此度こそはと早々御用達の逸人を呼び、愛娘の晴着を頼んだ。当代きっての名匠の初大作が深姫の婚儀衣装だった。彼の日、白銀の衣を掛けた深姫は、誰から見ても天女そのものだった。未だ忘れ得ぬ姿を想い、⦅娘もまた⦆の願いを込めての依頼だった。逸人は、二代に渡り晴れの衣を託されたことを常なき名誉と、その円熟した技を持って、これ以上ないほど華やかで気品ある衣装を作り上げ、依頼の品は、慶事の三日前に無事納められた。
同じ頃、中宮莉姫の元へも常磐木色の紐の付いた大小の鈴が届けられた。深姫形見の香袋の前に二鈴を置いた莉姫は、暫くの間愛児たちの前途を祈ると、それを中将に渡した。
♢♢ ♢♢ ♢♢
「姫様。昨日仕上がりましたる婚儀の御衣装、本日御合わせいたしましょう」
「明日でのうて」
「はい。本日の方が御日柄がよろしゅうござりますれば。さあ」
――ザザザ、ザザザ――
「いつものものより……重いのう……」
「其はもう。刺し糸の嵩が違いますれば。御裾をお延ばしいたしまする故、暫し其がままに」
「見事なものじゃが……。のう柚子里、中宮様ならまだしも、此が深朝には見事過ぎは……」
「何を姫様っ、此は名匠逸人が深朝様が御為にと――。あれ、彼方から殿方が御足音っ。もしや彼の音、誰ぞ見て――」
「柚子里様、大臣が此方に」
――ドン、ドン、ドン、ドン――
「おお姫、衣合わせか」
「はい。柚子里が、日柄良しと申し」
「然様か。日柄が……」
「只今、御掛けいたし、広げましたる処にござりまする」
「……さすが逸人、深朝をよう知りおる。母は銀糸、深朝は金糸。目映きものよのう……」
「父君様、本日は」
「ああ、本寺の寛養殿より『此よりお訪ねくだされ』と」
「寛養様が」
「寛養殿はそなたが母の従兄君故、深朝が奥の方となる前に深姫縁の話でもおありなのであろう。多忙の身故、何卒只今と」
「なれば暫し。柚子里たちも仕度を」
「否。此がまま。そなただけで」
「なれど」
「牛車も供も整いておる。裾をからげ一衣羽織りて行けば良い。晴着をお見せいたす良い折じゃ」
〈於本寺〉
「深朝姫様、先ずは離れにてお待ちいただきたくとの御門跡が御言葉にございます」
「わかりた。衣を整える故、人払いを。寛養様にも御越しが折は御声掛けをと」
――ザザザザ――
「どなたじゃっ。寛養様にござりまするか」
「深朝、其が姿はなんと……」
「……申し訳ござりませぬっ。吉日と柚子里が申し。父が急く故、衣合わせのまま参りましてござりまする。晴れの日は、母君が衣を内に。御許しくださりませっ」
「責めてはおらぬ。只……あまりにも金糸が似合うて。……日輪のようじゃっ」
「似合うてと。うれしやっ。其のみが気にかかりて。なれば寛養様にも臆せずお会いできるまする」
「寛養とな」
「寛養様が御用ありと父が」
「大臣が……」
「寛養様は御門跡様にならるる前は親王様が御学師様であられますれば、揃うて御婚儀前に尊き御教えをお授けくだされるのでござりましょうか。親王様がお待ちとあらば、紅など引きて参りましたものを」
「紅などなくとも 只今のそなたは輝くばかりじゃ」
「なれば、深朝が照るは、日輪の親王様故にござりまする。婚儀まではお会いできぬものと。なれど斯様に。誠、本日は良き日にござりまする」
「姫、初めて会うた日のことを覚えておるか。そなたは彼の日、四度目の節句を迎えたばかりでありたが」
「はい。よう覚えておりまする。母君に手を引かれ、初めて中宮様が御殿に。御間に入り『此方見よ』との御声に向きますると、笑まれし御目が御待ちに」
「我が声聞こえしか」
「はい。なれど其が後、とんだ御粗相を」
「ハハハ 『そなた様が中宮様が和子さまにござりまするか みささにござりまする』 前に立つなりじゃ。其が折は皆が静まりたのう。なれど、そなたは言うて満足そうに笑うた」
「柚子里から、親王様への御あいさつは必ずなされよと重ね重ね言われておりました故、子供心に良き出来と。なれど下位より御声掛けなど……。お恥ずかしき振る舞いにござりました」
「天真爛漫とは斯くなるものかと、我は一目で気に入りた。覇気ある姿に 御血筋を見た気がしたものじゃ」
「御血筋……とは」
「帝血二流を存じおるか」
「否に」
「なれば、緒岐親王と妃のことは」
「御名だけ母君から。妃姫様は祖母君の姉姫様と」
「緒岐親王は葡萄桂親王が一の姫を妃に迎えやがて立太なされしが、婚儀後、日を経ずして俄かにお隠れに。妃姫も後を追うように。二流の一つは此で絶たれたのじゃ」
「絶たれた……でござりまするか」
「そうじゃ。毒草にて……殺められし」
「……仇なしし者は……何処に」
「縹館に」
「縹……」
「色守の一家じゃ。藍前と共に下位の衣を扱う故、深朝は知らぬであろう。藍前では足らず増やせし折、何処からか入り込んだ。得体の知れぬ者達じゃ」
「……親王様。何故……斯様なお話を。只今は……愛でたき祝儀の前にござりまする」
「深朝……」
「……はい」
「……」
「……何事か……」
「……我とのことは」
「……」
「……我は本日より仏門に」
「仏門……御戯れを仰せられて……」
「……」
「……何卒、御由を」
「……兄君が……」
「東宮様が」
「暁方に常の御薬湯を。されど俄かにお苦しみに。何の手当ても間に合われず……。御側の御義姉君は……今だ取り乱されしまま……」
「……」
「深朝っ。兄君は……我が器より薬湯を」
「それはっ」
「係が割りし故。新調いたせし我が物を代わりに……。真なれば、兄君が御様は……二日後の我でありた」
「またも……縹っ」
「そうじゃっ」
「此度は何故っ、何故にっ」
「中将の申すには『帝血故』と」
「ではっ。中宮様はっ」
「御弟君筋の。残りし一流でありたそうじゃ。緒岐様が御末がことは寛然より伝えられしなれど……。兄君も我も……知らずでありた」
「……」
「我を的といたせしは『帝位』に即き筋分かれ成す故と。輩は、兄君が御病弱な事も、故に帝位には我がの御定めも、知りおりたっ」
「然様な事、何処より……」
「わからぬっ。判りしは、輩が血筋絶ちを始めし事のみじゃっ」
「昨日までは何事も無きに……」
「奸賊は、只今まで待ちて、慶事前の警衛の隙を突きたのよっ。母君は、お里の祖父君が姫とて父君が妃となられし故、皆、よもや内裏まではと。なれど……追うて参りた」
「……」
「輩は毒を持ち参る。……皆には済まぬが……。我は『帝血が統一』此までとしたいっ」
「統一」
「深朝。そなたこそ、御兄君筋の帝血を継ぎし者。我らは知らねど『和子が中で御本血に』が、父君や大臣達、帝血を護りし皆が願いでありたそうじゃ」
「深朝が」
「そなたが母君、亡き深姫殿は、真は緒岐親王と蓮姫殿が忘れ形見の姫君でありた」
「何故……何故誅されぬのでござりまするか」
「父君は『内裏を固めよ』と」
「なればっ」
「されど茅大臣が否と」
「なんとっ。我が父が何故にっ。葬らるるに甘んぜよとっ」
「『帝力で熨さば、必ずや受難を招く』と」
「親王様が御本意は」
「……外様は定まりておるなれど、内裏の者皆、内は東宮妃。我とて己が心がわからぬ。なれど……大臣が言は正論。熨さば熨さるるは道理」
「なれど……」
「母君が『東宮が分まで生きよ』と。本寺なればと」
「……なれば深朝も。深朝も本寺に」
「深朝。許嫁も共にと知らば、輩は必ずや此処まで……。己さえ守れぬ我じゃ……そなたを側には置けぬ」
「なれど……なれど……」
「深朝。兄君は……御戻りなされぬ……」
「深朝をお捨てなされると仰せられまするか」
「深朝……」
「三歳前、母君身罷られし折『そなたは永久に我とともに』と仰せられしは偽りと」
「……」
「本寺に入るは、彼の言御偽りとて 深朝をお捨てなされることにっ。此が衣も焼き捨てよと仰せなされることにっ」
「……今の我は……己が側でそなたを生かすを望めぬ。……長きの約事を解くを『捨て』と思いたくば、好きといたせ……」
「……」
「髪に花弁が……。梳いたのか」
「……少し前の吉日に」
「……」
「……御覚悟の程はしかと」
「深朝がことは、父君始め皆が守ろう。縹がそなたが出自に至らねば事無く……。日輪が如く……そなたらしゅう……過ごせ」
「……御仰せもしかと。なれど……。たとえ無事でありても。『帝血』と言えど、深朝も筋分けは……。生まれし時より、深朝が君は親王様っ。此より後とて、いかなる時も、深朝が君は親王様にっ」
――ジャリ ジャリ――
「御鈴」
「乳母伝てに手に入れし物。婚儀が折に持ち合うそうじゃ。小振りが深朝、此方が我。此方を深朝にと思うておりた。中将が急ぎ結えて。必ずそなたに渡せよと。只の対鈴じゃ。魔除けにも何もならぬ。……なれど」
――ジャリ ジャリン――
** ** **
「寛養。姫は戻りた」
「……」
「本日は日柄良しとて柚子里たちと衣合わせをしておりたそうな。大臣が計らいであろう。逸人が晴着姿を見せてもろうた。門出には過ぎたる花よ」
「……」
「さあ落とすといたそう。如何がいたした、寛養」
「……申し訳ござりませぬ。深朝様は深姫様が和子様にて、幼き頃より存じおりますれば、彼の小姫様が、なんと御立派になられしことかと……」
「誠、申し分なき姫じゃ。七つも下なれど我が意を汲みて戻りてくれた。さあ髪を」
「……手が……手が……意に添わず……」
「寛養」
「……申し訳ござりませぬ。尊き御方々が御心中慮りますれば……。寛養今だ俗心抜けず」
「……わかりた。なれば……。承和、其を此方へ」
「はっ、はい」
「何を、若君っ」
――ズジッ――
――パサ――
――トン――
「わっ若君っ。くううっくっ。…暫しっ、暫し御待ちをっ……。俗心を……眼より。眼より……。暫し……暫し……く……くぅう……」
「……承和。我が前に立ち、我が肩押さえよ」
「親王様……」
「此が姿なれば最早追えぬと思うたに……。言い聞かせても身が聞かぬわ」
「親王様っ。なればっ。承和が代わりて深朝様を此処へっ」
「わっ若君っ。最早とさるるはっ。只今なればっ」
「寛養。切れし魂緒に術ありや。承和。しかと成せっ」
「……かしこまりまして……かしこまりまして、ござりまするぅ……ぅぅっ」
「うっ……くぅぅぅ……くっ」
** ** **
「若君。御仕度整いましてござりまする。此よりは慈養殿と御呼びいたしますること御許し下さりませ。此が上は、日々御精進なされ、一日も早う御門跡に」
お読みいただきありがとうございます。次話は舞台が現代に移るので、文体がソフトになります!