後編
服屋は自分の家に戻ってからも、落ち着きがなかった。寝室へ入ると暫く部屋の中を見回していたが、やがて床にかがみ込んで寝台の縁を探り始めた。がっちりと固定されたかに見える寝台は、その一部を音もなく剥がすことに同意した。ぽっかりと開いた穴の中に、服屋の腕が伸びた。
腕が引き出してきたのは、幅の広い長剣であった。時々手入れしているらしく、鈍い光を夜の中に放っている。服屋は重さを確かめつつ、剣をきちんと握ってみた。そして何気なしに窓の外を見た。
「うっ」
カーテンの隙間から、2つの目が服屋を射抜いている。その眼光の鋭さに、服屋は瞬時たじろいだ。次に見た時には、窓には何も感じなかった。
「あの女……」
服屋はカーテンを片方ひきざまに、窓を開けた。細い裏通りを逃げて行く人影が見えた。服屋はためらわず、窓から通りへ踊り出た。寝静まった暗い路地に人影を追って行く。
さりあは先に立って走っているかのすに声をかけた。
「追ってくるわ」
「そのつもりだ。人気のないところまで、うまく誘き出そう」
2人は相手に気取られないように、速さを調節した。今にも追いつかれそうでいて、決して追いつかない。さりあ達の目指すところは、町外れの林の奥である。
服屋は林の奥まで踏み込んで、ふと立ち止まった。何時の間にか、人影が消えている。服屋は立ち止まったまま、周囲の様子を窺った。相当の距離を走りとおした割りには、呼吸が乱れていなかった。身につけているものこそ裕福な商人であるが、視線の動かし方、剣の構え方はこの男の本性を端的に表していた。
夜風に木々の葉がさわさわと揺れる。服屋は五感を研ぎ澄まし、風の音と人の音、人のにおい、息遣い、服の切れ端を捉えようとしている。服屋は動かない。
と、その後ろの木の枝が大きく揺れた。葉ずれの音に振り向きかけた服屋の前に、人影が飛び降りてきた。
さりあは服屋の姿が近付くと、木の枝の上で息を潜めて機会を待っていた。かのすは少し離れた繁みの中に潜んでいる。そして、服屋の背中を見て飛び降りたのであった。
服屋は振り向いた。さりあの最初の一撃を、そのままの姿勢で後ろへ飛びかわした。かのすが出てきた。3人は服屋を頂点にして対峙した。さりあはかのすの様子を窺った。相変わらず優美に細身の剣を構えている。加えて、夜間の逃走劇に疲れている様子であった。そのせいか、服屋の身体はこころもちさりあの側へ中心が向けられていた。さりあは中段に剣を構えて僅かずつ歩を擦り進めつつあった。
服屋は何の迷いも見せていない。商人の、どちらかといえば平和に適した衣類をまといながら、斜めに大振りの剣を構えている様に違和感はなかった。昔日の面影がその顔に蘇り、さりあは記憶を掘り起こされて、吐気を催した。
心の動揺を見逃す服屋ではなかった。大振りの剣を斜めにしたまま、外見からは想像できない速さで、一直線にさりあの懐へ飛び込んだ。かのすが、動きかけたことは全く無視していた。事実かのすは、それ以上動くことならずして、さりあ達の周囲を回るだけであった。
男は斜めの構えから、剣を大きく振り上げた。いきおい、さりあは後ろへ下がりながら、中段の構えを崩してその攻撃を受け流さざるを得ない。流された剣は方向を変えて、横殴りにさりあの首を狙う。さりあは後退する。剣は斜め前方に構えている。
じりっ。男も剣を前方に突き出しながら、摺り足で前へ出る。さりあは一歩後退する。
じりっ。じりっ。
さりあの背中に木が迫り始めた。正面に向き合った男の構えには、全く隙がない。男の後方にいるかのすが、何とかして背後から攻撃の糸口を掴もうと、ぐるぐる回っている。回りつつ、男に近付いている。
かのすの剣が、やや上方へ構えられた。男は己の後ろを振り返った。一瞬、隙が生じた。
さりあがすかさず大きく足を踏み出して斬り込んだ。長剣が唸りを上げて男に襲いかかった。
が、剣は闇を空しく掠めただけであった。剣を振り下ろすと同時にさりあは右肩に鈍く、激しい痛みを感じた。
「ぐっ」
肩を砕かれたことは、見なくてもわかっていた。男は後ろを見る振りをしただけであった。休む間もなく上から下から、重い剣が風を切ってさりあに襲いかかる。さりあは左手にかろうじて剣を握っていたが、本来両手で持つものだけに、殆ど役に立っていなかった。
男の剣が、さりあのそれに当った。剣は簡単に落ちた。
また、斬られた。左肩から斜めに足の付け根のところまで、ざくざくと太い切れ込みが刻まれた。もう、さりあに立つ気力はなかった。暗い地面に膝をつく。
男が近付いてきた。油断なく、剣を構えたままである。さりあの濁りかけた目は、かのすの姿を探し求めた。先刻の攻撃が失敗に終わって以後、さりあの視界には入っていない。
男はさりあの首に剣を突き付けた。ほんの少しだけ、感嘆の表情があったように思われた。
「よくもまあ、女1人でここまでやれたものだ」
さりあは混濁した頭で考えた。そして思い出した。
かのすは存在していなかったのだ。少なくとも、現実の身体を持ってはいなかった。かのすは、さりあのような人生を送ってきた人間が未だ捨てきれないでいる、はかない希望の一片だったのである。だが現実にかのすの存在できる余地はなかった。さりあのような人間に残された希望は、ただその人間の内側にだけ存在する完璧な人間像であった。
「……褒めてやるぜ」
男の剣が、さりあの首を横に払った。さりあの頬は、地面に触れた。
土は、ひんやりとしていた。




