婚約破棄された聖女は、笑顔よりも価値のある涙を手に入れる。
「聖女の力を失ったお前など、私の婚約者としては相応しくない。婚約は白紙に戻させてくれ」
「……わかりましたわ」
アンジェリカは、何も言い返さず、ただ頭を下げてそれを受け入れた。
この国の第一聖女、アンジェリカ。かつて国が魔に支配されたとき、魔を祓った教会は国内でも随一の権威を誇っている。その第一聖女とあって、アンジェリカの身は、アンジェリカのものではなかった。
今しがた婚約破棄を言い渡してきたのは、公爵家令息で、アンジェリカの「元」婚約者である。まだ生白い肌に、充分な精気を取り戻したとは言えぬ瞳。ひ弱な姿は、彼が病み上がりだから。
聖女が心を込めて祈ると、病や怪我を治すことができる。第一聖女であったアンジェリカは、重い怪我や病を治すことができた。
この公爵家令息は、幼い頃から重い病を患っていた。家を出ることもできず、床に伏すだけの毎日。そこで、アンジェリカに白羽の矢が立ったのであった。
聖女の力は、世の全ての人のためのもの。公爵家は、その力を自分達だけのものにするために大金を教会に支払い、アンジェリカを引き取って婚約関係を築いた。
アンジェリカは、婚約者となった令息のため、毎日祈った。日に日に彼の顔色が良くなるのと引き換えに、アンジェリカの調子は悪くなって行った。
聖女の力は、無尽蔵ではない。本来ならば休息し、回復を待ちながら使っていくものだ。いくらアンジェリカが第一聖女でも、朝な夕な祈り続けていたら、力が枯渇するのも時間の問題だった。
そして、公爵家令息が快癒するのと引き換えに。
アンジェリカは、力を失ったのだった。
アンジェリカは、公爵家の門をひとりでくぐった。令息は、親である公爵が勝手に婚約を決め、勝手に治療を頼んだことを気に入らなかったらしい。常々恨み言を言われていたから、婚約破棄されても仕方がないとアンジェリカは思った。聖女の力がなくなった今、婚約破棄には正当な理由がある。教会の元第一聖女は公爵家に相応しいが、力のないただの一般庶民は公爵家にはそぐわない。
***
「──あれは」
と、サルディークは一対の男女に目を留めた。
片方は、教会の第一聖女。国の行事や祭りで見かけるから、商家の息子であるサルディークも目にしたことがあった。
対する青年は、初めて見る姿だ。しかしここは公爵家であり、彼の衣服は地味だけれど質が良い。商人としての彼の嗅覚は、あれが病に伏せていた公爵家令息であると告げていた。
あまり見つめては不躾になるから、サルディークは運んできた荷物の運搬に集中する。ただ、耳だけは二人に向けていた。
高貴な二人がこんな公爵家の玄関で立ち話をするなんて珍しい。何か理由があるに違いない。もしかしたら商機があるかも……という商人らしい嗅覚だった。
続くやりとりに、サルディークは驚いた。まずは、公爵家令息と第一聖女の婚約関係が結ばれていたこと。そんなこと、どこの家でも噂にすらなっていなかった。秘密裏に交わされた取引なのだろう。
そして、令息から婚約破棄が申し渡されたこと。いくら力関係が明白とは言え、一度結ばれた婚約関係を一方的に破棄することなどない。
さらに、破棄するだけの正当な理由があったこと。聖女の力を失うなど──そんなこと、あるのか。
何よりサルディークを驚かせたのは、彼女の笑顔だった。婚約破棄を言い渡されたのに、彼女は朗らかに笑ったのだ。
優雅に一礼をし、ひとりで外に向かっていく。彼女の背で、美しい銀の髪が揺れている。その凛とした後ろ姿に、サルディークは目を奪われた。
***
「お待ちください」
と言われ、アンジェリカは声のした方を見た。
春の心地良い陽光を遮る、馬車の影。声はその馬車から聞こえた。
「あ……申し訳ありません、お邪魔だったでしょうか」
アンジェリカは謝り、道の端に寄る。最初からアンジェリカは端を歩いていたし、邪魔になったはずがないのだけれど、素直に従った方が良い。
アンジェリカの視線は、馬車の側面についた紋を捉えていた。あれは、貴族御用達の商家の紋だ。今はもう一般庶民のアンジェリカが、貴族向けの商家に失礼をなしてはいけない。
「そうではありません。宜しければ、お乗りいただけませんか」
「私が、ですか?」
「ええ。あなたのような人を、おひとりで歩かせたくないのです」
アンジェリカは首を傾げたが、素直に従って馬車に乗り込んだ。「あなたのような人」とは、第一聖女のことだろう。公爵家は批判を恐れて、アンジェリカとの婚約を内密に行っていた。商家の彼のところまでは、その噂が届いていなかったのかもしれない。
「お邪魔致します……あら」
「こんな狭いところで申し訳ありません、第一聖女様。もしよろしければ、教会まで送らせていただいても?」
馬車の中で跪いた青年が、そう申し出る。金の髪と緑の目を持つ、美しい青年だった。その柔らかな表情は、名家のご婦人達の心もほぐすに違いない。
「私の帰る場所は、教会ではありませんの。もう第一聖女ではないのよ。どうぞ、顔をお上げください」
丁寧に事実を説明すると、青年は顔を上げた。その顔が愕然としていたので、思わず笑ってしまう。商人のくせに、そんなに素直な反応を示すところもご婦人の心を掴むのだろう。
アンジェリカも彼の様子に心を掴まれない訳ではないが、今は庶民の身の上。それに婚約破棄されたばかりとあって、それ以上の気持ちは抱かなかった。
「では、どちらにお帰りになるのですか?」
「そうね、私は孤児だったから、孤児院に……あら」
困ったわ、とアンジェリカは眉尻を下げた。
「私はもう子供ではないから、孤児院には入れないわね」
***
「アンジェリカさん、この装飾品を見せて」
「アンジェリカさん、こちらが先よ」
「アンジェリカさん!」
サルディークは、店舗を飛び回るアンジェリカの様子を窺った。
浮世離れした元第一聖女をあのまま巷に放逐したら、間違いなく悪心を抱いた者に食い物にされる。最初は客人として迎え入れさせてくれと頼んで断られ、ならば居候でいいからと言って断られ、商家の雇われ店員となって家賃を支払ってくれと言ってやっと承諾された。
今はアンジェリカはサルディークの屋敷の片隅に住み込み、連日店舗へ出勤している。
元第一聖女のアンジェリカのことは、誰もが知っている。彼女の存在が評判になったのは、まずは噂好きのご婦人の間だ。なぜ第一聖女から降りたのか、なぜ婚約が解消されたのか(この事実を知る者はあまりいないが)、事情を知るべく今まで以上の客が押し寄せた。
やってきた客は聖女の微笑みに心奪われ、一家の売り上げは格段に上がった。サルディークの父は思わぬ拾い物を大いに喜び、できるだけ彼女に長居して欲しいと願っている。
彼女はサルディークに心を許しているから、婚約を結んだらどうかと提案されたのも必然だった。
笑顔を振り撒いて接客するアンジェリカを暫く眺め、サルディークは自分の仕事に戻った。
アンジェリカの聖女の微笑みは、大変美しい。サルディーク自身も、公爵家の令息に婚約破棄を言い渡された時のアンジェリカの微笑みを見てから、彼女の笑顔をずっと目で追っている。
そうして、ひとつの事実に気づいたのだ。
あれは、本心からの笑みではない。
口元は笑っているが、目の奥は笑っていない。
サルディークが婚約を申し込んだとして、アンジェリカがどう反応するかはわからない。受け容れるか、拒絶するか。例えどちらの反応をするとしても、アンジェリカはあの聖女の微笑みを浮かべるだろう。
朗らかで、花開くような、美しい作り笑顔を。
彼女の本当の笑顔を引き出せない自分には、アンジェリカに求婚する権利すらない。
ある日客人が、アンジェリカを怒鳴りつける事態が起こった。貴族の方々が集う我が商家に、怒鳴り声はそぐわない。どうやら昼食で酒を飲みすぎたらしい男性客には丁重にお引き取りいただき、サルディークはアンジェリカのケアに向かった。
さすがの彼女も、あのような剣幕で怒鳴りつけられたら、きっと傷ついているだろう。
駆け寄ったサルディークに、アンジェリカはいつもの笑顔を向けた。
「私は大丈夫です」
その声も穏やかで、しかし、目の奥は笑っていなかった。
「どうしてそんなに、無理をして笑うのですか?」
サルディークがつい聞いてしまうと、アンジェリカはきょとんとした。
「私が、無理をして笑っている、と……?」
***
サルディークに指摘されるまで、アンジェリカは自分の表情など気にもかけなかった。
言われてから初めて、自分の表情筋を意識するようになった。
そして、誰かと話すとき、勝手に口角が上がっていることに気がついた。
これがサルディークの言う「無理に笑っている」状態だとわかった。
心の伴わない笑顔を相手に向けることは、失礼だ。
気づいてしまってから、アンジェリカはうまく笑えなくなった。
皆に心配され、アンジェリカを呼びつける客人が減り、店舗の隅にひとりで佇むことが増えた。それでもアンジェリカは、どうしても笑えなかった。
困った時に頼るのは、彼しかいなかった。婚約破棄された後、身寄りのないアンジェリカを救ってくれた人。人生の恩人。サルディークである。
ある日、店舗の奥で帳簿の整理をしているサルディークに、アンジェリカはそっと近寄った。そうして、恐る恐る、頼んだのだ。
「私を、笑わせてくださる……?」
と。
***
サルディークは努力した。
自分の言葉を気に病んで彼女が笑わなくなったことを、サルディークはわかっていた。不躾なことを言った自分など、もう話したくもないだろうと思っていた。
アンジェリカがそう望むのなら、手間は惜しまなかった。
幸いにして、高貴な女性の望むものは、職業柄わかっている。
豪奢なドレスを仕立てた。
高価な宝石で装飾品を作った。
身綺麗にした彼女を連れ、美味しい食事を食べに行った。
乗馬をした。
演劇を見に行った。
お茶会に参加した。
舞踏会に参加した。
曲芸師を呼んだ。
いくら手を尽くしても、アンジェリカは笑わなかった。笑わずに、「笑えなくてごめんなさい」と謝るようになった。
サルディークは、謝罪してほしい訳ではない。思いつく限りの贅を尽くしたが、アンジェリカは一向に笑わなかった。
ある時、ついにアンジェリカは熱を出して伏せった。彼女を診た医師は、「疲労ですな」と簡単に診断した。
自分があちこち連れ回したせいで、アンジェリカは心身ともに疲労したのだ。申し訳なく思い、サルディークはひたすらに彼女を看護した。朝も夜もなく、額に載せた氷を替え、美味しい果物を用意した。
アンジェリカは、直ぐに快癒した。代わりに今度は、サルディークが熱を出したのである。
熱に浮かされたサルディークの元に、アンジェリカが近寄った。寝台の傍に神妙な面持ちで跪き、祈りを始めた。
その真剣な様子に、第一聖女だった頃の片鱗を感じて、サルディークは何も言わなかった。力を失った彼女にとっては、意味のない祈りである。しかし、そう言って退けるのは忍びなかった。
その時。
真っ白な聖なる光がアンジェリカを包み、その光がサルディークに移った。温かで、心落ち着く、神聖なる光。サルディークがその心地良さに身を委ねると、間もなく、頭の重みがなくなった。すっきりと快癒したサルディークが信じられない思いで見つめると、彼女は「少し回復したこの力は、いつかあなたのために使うと決めていたのです」と言った。
「サルディークさんが元気なことが、何より嬉しいです」
そう言って、アンジェリカは笑った。口元だけではない。目元を細め、にこにこと、屈託のない笑顔を浮かべたのだ。
サルディークが思わず頬に触れると、アンジェリカはそれを拒まなかった。
「どうしてそんなに、無理をして笑うのですか?」
いつかサルディークがかけた言葉を、今度はアンジェリカが発した。サルディークは笑顔の代わりに、涙をこぼした。釣られるようにアンジェリカのまなじりから涙が溢れ、自然と互いに背に手を回し、ぐすぐすと歓喜の涙にくれた。
そこからはとんとん拍子に物事が進んだ。サルディークの両親が、彼がアンジェリカのためにあれこれと手間をかけているのを「婚約を調えるための支度」と認識していたから、婚約の手筈は瞬時に整った。
婚約の品を選ぶときも、婚約の儀のときも、アンジェリカはいつもにこにこしていた。店舗にはアンジェリカの笑顔が戻り、彼女の人気はますます高まった。
***
その日、明るく晴れ渡った空の下に、一組の夫婦が誕生した。純白のドレスに身を包んだアンジェリカは、同じ色の装いをしたサルディークの手を取る。太陽にも遜色ない眩い笑顔を浮かべる夫婦に、客人は誰もが笑顔になった。
永遠の誓いを交わし、教会の神父の前で互いに見つめ合う。アンジェリカはサルディークの顔を見て、思わず頬が緩んだ。
泣き笑いのような、複雑な表情。いつか見た顔と同じだった。
「どうしてそんなに、無理をして笑うのですか」
途端にサルディークは涙腺を決壊させ、人目もはばからずにアンジェリカを抱きしめて歓喜に泣いた。アンジェリカはサルディークの肩に顔を埋め、化粧が落ちるのも構わずに泣いた。
この一件から、サルディークの商家は「泣き虫夫婦が営む店」として皆に親しまれるようになった。それが「泣き虫一家が営む店」に変わったのは、もう少し先のお話だ。