モモ
私は、暗闇の中に立っていた。
周りを見回しても、黒ばかり。色がない……否、光がなかった。
私は怖くなった。
すると、突然目の前に扉が現れた。
木でつくられた、昔ながらの扉。
「……行かなくちゃ」
私は呟き、中へ入る。
「――眩しい!」
思わず目を閉じた。
何か声が聞こえてくる。私は耳をすませる。
「ハッピーバースデー、トゥー、ユー♪」
――嫌だ、聞きたくない。
「ハッピーバースデー、ディア、朱音♪」
朱音が、6本のろうそくを吹き消した。父と母が手をたたく。
おめでとう、と。
笑っている。
――怖い、嫌だ。
私はこらえきれずに耳をふさいだ。
思わず走り出す。
走って、走って、足が動かなくなって、しゃがみこんだ。
「怖い、怖い、怖い……」
すると、再び扉が現れた。今度は鉄の扉だ。
手を伸ばしかける。が、その手が止まってしまう。
――怖い。扉を開ける勇気なんてない。
「何が、怖いの?」
突然聞こえてきた自分以外の声に、私は驚いて顔をあげる。
「何が怖いの? あたしのことが、怖いの?」
そこには、長い髪を赤いリボンで結った女の子が立っていた。
「あ、あなたは……誰……?」
「あたしのことは知ってるでしょ」
私の言葉を、彼女はさらりといなす。女の子は軽やかにくるりと回った。
ワンピースがふわりと広がる。
あなたは誰、知らないわ。そう言おうとした。
「早く扉を開けて」
「えっ?」
「早く。前へ進んで。実月」
私は驚いて女の子を見つめた。
――どうして、どうしてその名前を知っているの。
「さ、前へ」
そう言って女の子は、扉を開けてしまった。
おそるおそる足を踏み出した途端――声が聞こえた。
「なんであなただけ」「あなただけ助かった」「どうして君だけが」
「――どうして」
――頭が痛い。痛い。怖い。嫌だ。
――逃げたい。
――どこへ?
がむしゃらに走った。走って、走って、走った。それでも声は追いかけてくる。
「実月、逃げるの?」
女の子が言った。
「逃げても、光はないよ」
「うるさい! あなたに何が分かるの!」
「でも」
彼女は、私の言葉をさえぎる。
「逃げなくても、光はあるよ。前を向けばね」
ほら、と指された方に目を向ける。美しい花におおわれた、白い扉があった。
「向こうに、実月がいるんだよ。理花じゃなくって実月が」
――私は、私が嫌だった。実月が嫌いだった。だから実月じゃない、違う私になりたくて、施設の人や学校のお友達には違う名前で名乗った。
――実月という名を知っているのは、施設に入る前に会った人たちだけ。
白い扉を開けて、中へ入っていく。
「うわあ……きれい」
声をあげた。たくさんのシャボン玉がふわふわと浮かんでいる。その一つ一つの中に、私の姿が映っていた。
公園で遊んでいる私。
学校のお友達とおしゃべりをする私。
妹につきっきりの両親を、陰から見ている私。
道端の捨て犬に給食のパンをあげて、どこかで拾ってきた赤いリボンを首に――
「赤いリボン?」
私は目の前の女の子を見た。
「そうだよ」
彼女は楽しそうに笑う。
「あのとき実月が食べるものをくれたから、あたしは死ななかったんだ」
――そうだったんだ。
私は再び、宙を見る。
父に抱かれて燃え上がる家から逃げ出した私。
母と妹を探しに火の中へ飛び込んでいく父を見つめる私。
誰も出てこない、燃え盛る家の前で、立ち尽くす私。
「私……私、どうして、私だけ」
涙があふれた。
「お父さんもお母さんも、朱音も、みんな火事で……私だけ……」
――火事のことを忘れたかった。自分一人だけ生き残ってしまったことを忘れたかった。
――だから、親をなくした子どもが集められている施設で名前を聞かれて、違う名前を答えた。
「実月は、助かったんだよ。助けてもらったんだよ。なんにも悪いことなんてない」
「でも、でも、私だけ……私だけが……! どうして……!」
「実月は、生きてるんだよ。だから顔を上げて、生きていていいんだよ」
女の子が私の顔を覗き込んでくる。
「モモ」
名前を呼んだ。あのとき桃色の毛布にくるまっていた子犬に、私がつけた名前。
「あたし、その名前、気に入ってるんだ。ありがとう」
モモはくるりと回り、そして手を振った。
「あたしのこと、忘れないでね。実月」
と、目の前が暗くなった――。
私は目を覚ました。
周りを見回す。いつも通りの朝の景色、施設の部屋だ。
「不思議な夢……」
今日、私はここを出る。私を養子にしてくれる人が見つかったのだ。
――私は、私は実月。
――新しい家族には、本当の名前を言おう。
「モモ」
窓を開けて、小さくつぶやく。
「モモは、私を助けてくれたね」
どこからか、女の子の笑い声が聞こえた気がした。