1-9
「…………は?」
リクが切り出した言葉に、キーボードを叩いていた音が止まる。
ハルから発せられた声は、若干一オクターブ分は低かったように思えた。
キィっと椅子が回り、ハルがリクの方に向き直る。
今日はじめて視線が合う。
こんな目をしていただろうか、ふいにリクが思う。
まだ自分が見上げていた頃の兄は、太陽の光を涼しげに流す、水晶玉みたいだと思ったことがあった。
だけど今目の前にあるそれは、まるで日が差さない森の中の泉のように深く濁って見える。
「あ、いやあの、俺だけじゃなくて、俺らっていうか、あの、ゲームの……その」
リクが慌てて訂正しようとするが、予想外の反応に挙動不審に挙動不審を重ねる始末だった。
「ゲーム?」
「そ、そう、ゲーム。コードハントっていって、俺の高校で流行ってるんだ。
流行ってるというか流行ってたというのか、また流行ってっていうのかわからないんだけど、それでそのゲームのネイビスのプレイヤーが切り裂き魔に脅迫されて襲われて」
「おい」
「だけど俺は脅迫って言ってもみんなとは逆で。
あ、でも狙われたのは俺じゃなくて友達なんだけど、その友達の写真もあって。
で、でね、放っておこうって思ったんだけど、その友だちがライトの下敷きになって、それでそれで」
「……おい」
いつの間にかハルはデスクに頬杖をついていた。
表情に変化はなくても、その様子で呆れているのが分かる。
「落ち着け。まったく分からん」
「へ?」
緊張からか、喋り出した途端にヒートアップし過ぎたようだ。
呆れたハルとは真逆に、リクは身を乗り出して拳まで握りしめ、頭に浮かんだ出来事を手づかみで取り出して力説していた。
若干息切れして、手に汗を握りながら。
「いいから落ち着いて、はじめから話してみろ」
「えっと……」
ハルの冷静な言葉に、リクはこの数日間のことを話す。
相変わらず要領の得ない話し方だったが、それでも友人の身に起きたことと、これから起こるであろう危険のことを、リクは兄に何とか伝えたかった。
しかしハルは、既にリクからデスクのモニターに目を移していた。
リクに背を向けて相槌一つ打たず、耳に差しっぱなしのイヤホンのコードを細い指にからませている姿を見て、まるで大きい独り言でも喋っているようにさえ思えた。
それでも話すのをやめなかったのは、そんな兄の心のほんの一欠片でも、自分の方に向いていると信じていた、いや、信じたかったからかもしれない。
「……それで、打つ手がなくなっちゃったから、兄貴に、その」
結局大体のあらすじを話し終わっても、兄は一つも反応しなかった。
自分なりに上手く伝えられたと思うが、段々と自信がなくなり、まるで聞こえている素振りを見せない兄の背中にかける言葉が、尻すぼみになる。
「あ、兄貴?」
モニターを見つめる兄の顔に画面の光が反射して、青白い顔が更に白く人間味を奪っていた。
聞こえているのか心配になって、リクが恐る恐る声を欠けてみる。
「何?」
が、ほとんど口を動かさずに、短く返されただけだった。
「何って、だから、兄貴に助けてほしいんだけど」
「助けるって?」
同じように言い返される。
「だから、その……」
なぜか泣きそうになるのを、リクはぐっと堪える。
自分の気持ちが伝わっていないのだろうか。
ここまで、この場所に来るまで、どれだけ勇気がいたか、兄は知っているのだろうか。
昔だったら顔を見ただけで、自分の気持ちなんて簡単に汲み取ってくれたのに。
そんな気持ちが溢れそうになる。
「俺にどうしてほしいんだ」
「えっと……その」
姿勢を変えないまま、ハルが問う。
「その切り裂き魔が誰か特定するか?
それとも仕返しでもするか?
捕まえたいのか?
お前たちの身の安全を守るの?
それとも、ゲーム自体をなくして欲しい?」
まるで録音でもしていたかのように、抑揚なく淀みなく、矢継ぎ早にハルの口から言葉が出てくる。
その問いに気圧されながらも、一応自分の話は通じていたのだとリクは安心する。
それに、この問いに関する答えなら既にリクの中で出ていた。
「俺は、友達を守りたい」
自分のせいでミズキが傷ついた。
そしてこれからも、危険な目に遭うかもしれない。
リクにとって一番怖いのはこのことだった。
「だから兄貴……」
「なら答えは簡単だ」
「え?」
切りだされた言葉に、思わず立ち上がりそうになる。
膝の上で握りしめていたこぶしは、既にじっとり汗をかいていた。
「どうすればいい?」
リクが兄の背中に問いかける。
その背中は呼吸もしていないんじゃないかと思うくらい、微動だにしていない。
「ゲームをやめろ」
事も無げにそう言われる。
「……え?」
聞き間違えかと思ったリクの言葉が一瞬詰まる。
「ゲームをやめろ。で、警察にでも行けよ」
聞き間違えではなかった。
ハルの言う言葉は予想外のことが多かったが、それは自分が知らないことについてだった。
まさかリクに考え出せた答えを、そして諦めた答えを出してくるとは思わなかった。
「だ、だけど警察に行ったの分かったら、また俺らが狙われるかもしれないだろ?」
「ゲームのことを話せよ。そうしたらお前たちを脅してる奴を特定してくれる。
実害が出たんだろ?
だったらさすがにそのまま放っておくってことはしない。
その後のことだって、色々と任せておけば上手くやってくれるさ。
そもそもそれが警察の仕事だろ。俺の仕事じゃねぇよ」
まるで興味が無いようにハルが言う。
協力をしてくれないということもショックだったが、それよりも、リクが抱える不安や焦りに対して、関心を示さないことに対して、リクは心臓が締め付けられるようだった。
「でも犯人見つけるまでに時間がかかったら?
その間、俺ら狙われ続けるんだよ。
それに、ゲームのことは、その、警察とか学校には……内緒だし」
「今更学校が云々とか言ってる場合か? 狙われてるなら尚更だ。
それに切り裂き魔をどうにかしなきゃいけねぇっつぅんなら、俺だって時間がかかる。
その間お前たちが危険なのは変わらないだろ。
プロに任せておけよ、そういうのは」
「………」
なんとか食い下がってみるが、一層興味が無さそうな声で簡単に返されてしまう。
それに、ハルは間違ったことは言っていない。
リクは言葉を失って、うつむいてしまう。
「協力は、してくれないのか?」
「たった今助言してやっただろうが」
なんとか出したリクの言葉にも、にべもない言葉が返ってくるだけだった。
同情してもらうために兄に会いに来たわけではない。
だがもっと、別の答えをリクは期待していた。
具体的な案などなくとも、一緒に考えてくれたり、リクのために何かしてくれると思っていた。
彼自身、急に押しかけておいた身分でありながら、随分勝手な期待だと思ってはいた。
だがハルに対して、失望と、そして怒りに近いものを感じざるを得なかった。
「分かった。……もういい」
これ以上ここにいても、期待しているものは帰ってこないとリクは感じ、荷物を持って立ち上がる。
なにより、リク自身に対して関心を示さない言葉を続けるハルと、これ以上一緒にはいれなかった。
「警察に行くのか?」
ハルが視線だけこちらに向ける。
だが、今度はリクはそれに背中を向ける。
「行かない」
ハルを頼ることが出来ないと分かった以上、もう自分でやるしか無い。
リクの目の前でミズキが怪我をした。
あの時間違いなく、彼は自分の心臓と呼吸が止まったのを感じたのだ。
もう一度繰り返すわけにはいかない。
「ミズキは俺が守る。ゲームはやめない、絶対に」
具体的なことなど考えていなかった。
だが自分を否定されたことによって、たとえ兄でもこれだけは譲れないと、
リクの中で固い決心が出来た。
ハルがさらに続ける。
「お前のその決断が、大事な友だちを傷つけることになってもか」
「少なくともゲームを続けている限り、俺らを脅迫した奴には襲われないんだ。
他のことは……なんとかする」
「なんとかってなんだよ。軽率極まりない」
だからここに来たんだよ。でも、それに応えてくれないじゃないか。
そう言いたいのを、リクは唇を噛んでぐっと我慢した。
彼の後ろでキーボードを叩く音がする。
兄はもう自分の方を見てもいないのだろう。リクは背中で感じた。
「兄貴。怪我したのがミズキじゃなく俺でも、同じ事を言った?」
口に出してから、リクはほんの少し後悔する。
今自分で兄に頼らないと宣言したのに、心のどこかで期待をしている自分が嫌だった。
「誰だって同じだ」
だが間髪入れずに答えたハルの言葉は、その期待をもう一度打ち砕いた。
(誰だって、か)
再び強く唇を噛む。
(俺はもう『弟』じゃなくて、『その他大勢の一人』なのか)
それがリクには、すごく悲しかった。
「変わったんだな、兄貴」
ついハルを責めるような言葉が出てくる。
そんなことを言ってどうするんだ、とリクは自分を責めながらも、僅かに震えながら出てくる言葉は止まらなかった。
「昔は、そんなこと言わなかった。話だってちゃんと聞いてくれた。
俺の方を向いて、一緒に考えてくれた。傍で俺のこと、ずっと守ってくれてたのに」
「………」
何も言わないハルの顔を見るのが怖かった。
コンピュータの動く音だけが、冷えた部屋の中に響いている。
自分はやっぱり、自分に向けた言葉を期待しているのだと、その静寂の中でリクは思った。
しかし結局、その冷たい静寂をハルは破ることはしなかった。
「もういい」
再びリクが言う。
今度は自分にも向けた言葉だった。
もうやめよう、と。
「邪魔してごめん、兄貴。おやすみなさい」
リクはそのまま振り返らずに、玄関に向かう。
正確に言えば、怖くて振り返ることが出来なかったのだが。
結局ハルの元に来ても収穫はなかった。
ただ一つだけ、自分たちを、ミズキを守るためにゲームを続ける。
その決意をはっきりと確かめることが出来た。
ハルは一人残された部屋の中で、リクが出て行った玄関に目をやる。
そしてやがて、ぎっと音を立てて椅子によりかかり、天井に顔を向けて目を軽く瞑った。
コードを引っ張ってイヤホンを外した彼の耳には、いつもと変わらず鬱陶しく雨の音が響き続けている。
(『昔はそんなこと言わなかった』、か)
リクが言った言葉を思い出す。
「自分だって随分と、昔とは違うことを言うようになったじゃないか」
ハルの独特な無機質な声質に、少しだけ感傷が混じる。
もっともそれがリクに届くことは無いのだが。
「さて」
軽く身を起こして携帯端末を手に取り、一つのアドレスを画面に映す。
通話ボタンを選択すると画面に白いライオンが表示され、ガオガオと楽しそうにハルに向かって口を開閉する。
たった二度目のコール音の途中で、早速相手につながった。
早すぎる相手の対応にも慣れたもので、挨拶もなしに用件を告げる。
「アキか、帰る途中で悪いんだが………」
その日、ハルの部屋のモニターが消えることはなかった。