8-6
切り裂き魔『ジャック』最後の事件で奇跡的に永らえたハルの命は、悲鳴を上げ続けた。
あの日から現在に至るまで、ハルはずっと同じ悪夢を見る。
まずは、あの日のリプレイ。
雨に半身を浸されたハルに、黒いレインコードの男が馬乗りになる。
男は軽く握った細身のナイフで手術をするようにして動かなくなったハルの体を、ゆっくりと正確に切り開く。
皮膚を切り裂かれる、冷たさと熱さ。
終わらない痛みと苦しみに耐えきれず、ハルは目を閉じようとする。
すると男は、ハルからナイフを抜く。
そして腕を伸ばし、傍らで自失しているリクの目の上にナイフを滑らせた。
リクはそれすら見えていないのか、瞬きもせず赤い涙を流す。
男は諭すようにハルに言う。
「目を閉じたら、次は弟の目を抉る」と。
だから、ハルは決して目を閉じなかった。
同じ傷を何度も抉り取られた時も。
その一番奥の骨を、わざとゆっくり削る音を聞かされた時も。
何度も何度も腹の上を耐え難い苦痛が襲っても。
腹の中から血に濡れた自分の内臓を見せられた時も。
喉からあふれる自らの血で溺れそうになった時も。
寒いのか熱いのか痛いのか苦しいのか、死にゆく体はハルを庇うようにして少しずつ彼の体を麻痺させていった。
だがハルはそれに抗った。
たとえ指先まで分解されようと、彼はどうしても意識を手放すわけにはいかなかった。
彼は目を開け続けた。
眼を閉じてしまったら、次は弟の番だから。
だから、あの日に起きた全てを鮮明なほどに覚えている。
痛み、苦痛。言葉、表情。
色、音、匂い、感触。
血液と胃液と雨の味。
自分の中に染みこんでいく雨の感触。
紛れもない死の感触。
………あの日。
現実のあの日は、この後に救急車が来たことでハルとリクは救われた。
だが、夢の中ではいくら待っても来ない。
あのサイレンはいつまで経っても聞こえず、男はハルを切り開き続ける。
雨と一緒に流れていく命を留めることも出来ず、ハルはただ必死にまぶたを開けて痛みに耐える。
しかしそれも時間と凶刃に奪われ続ける。
やがて霞んでいく視界の中で、男は体を起こして動く。
ハルが死んだと思ったのだろうか。
もはや姿は明確ではなく、影としか映らない男はハルから離れる。
そして、彼の傍らで自失しているリクにゆらりと近づく。
「やめろ」
「まだ見えている」
「まだ目を開けている」
「俺はまだ生きている」
ハルは必死で叫ぼうとするが、喉も舌も痺れたように重く動かない。
血で咽た泡がゴボっと音を立てる。
男は弟の前に屈みこむ。
その左手には先程までハルの体を抉っていたナイフ。
灰色の世界の中で、銀色の刃と、そのほとんどを濡らしている赤い血だけが鮮明に映る。
それが弟の頭の上までゆっくりと持ち上げられる。
雨の中晒されたナイフからは、赤い雫がいくつも流れていく。
赤い雨が血の気を失った弟の顔にかかる。
「やめてくれ」
「まだ生きている」
「俺は、生きているんだ!」
叫ぶのと同時に体が跳ね上がる。
痛みも何もかも、全て投げ捨てるようにして地面から体を引き離すようにして。
ハルは男の左腕に飛びつき、ナイフを奪い取る。
そして男の肩口を蹴り、その体を倒して腹に跨る。
男とハルは、先ほどと真逆の格好となった。
ハルは躊躇うことなく、男の胸の真ん中に握ったナイフを振り下ろす。
肉を貫き、骨を削ぐ手応え。
頬や首に暖かな血が染みるように振りかかる。
男が体をもがくように動かすたび、ハルの手に男の生命が伝わってくる。
心臓の鼓動、筋肉の伸縮、血液の流れ。
それが少しずつ小さくなり、そしてそのまま、止まる。
それを見届けると、ハルはナイフを抜いてそっと身を起こし、立ち上がる。
もはや苦痛はない。
やり遂げた。
あの男を、『ジャック』を殺した。
あの切り裂き魔に打ち勝った。
もうこれで、苦痛も恐怖も終わる。
身体の芯が熱を取り戻すのを感じた。
世界に色が戻るのを感じた。
ハルはその充足感と幸福感に安堵の笑みを浮かべる。
……本当に終わったのか?
雨粒が地面を叩く音が、まだ響いている。
雨は、まだ降り続いている。
ハルはハッとして、地に濡れたコンクリートを見下ろす。
先程殺した足元の『ジャック』。
肉を裂かれて血に塗れた父、母。
ぺたりと座り込み、光を失った目を地面に彷徨わせる弟。
それから、両手足を抉られ、腹を割かれて血に溺れたハル。
ならば。
ならば、今ここにいる自分は誰だ?
全身から血を滴らせ、ナイフを握って笑みを浮かべる自分は何だ?
ぐいっとハルの足首を、血と雨に濡れた手が掴む。
目を向けると、殺したはずの男の濁った沼のような瞳が、真っ直ぐにこちらを見上げている。
「俺は、まだ生きている」
先ほど心の中でハルが叫んでいた言葉を、その男は声に出した。
こいつは誰だ。
『ジャック』? いや、俺自身か?
お前は誰だ。
俺は誰を殺した?
レインコートの男は、全身から雨と血を滴らせながら、体を揺らして立ち上がる。
その顔には、あの笑い顔。
あぁそうだ。
これは夢だ。
まだ何も、終わっていない。




