1-8
「……!」
階段の下で話し声が聞こえる。
リクはバッと頭をそちらの方に向ける。
上に登ってくる足音が二人分。
話し声の一つは、間違えなくハルのものだった。
その声に、リクはドクンッと心臓の音が大きくなるのが分かった。
(お、落ち着け、落ち着け!)
ただ兄に会うだけだ。
そう思っても、どんな顔をしていいのかわからない。
どんな風に話しかけたらいいんだろうか、なんて考えているうちに足音が大きくなり、ついにリクのいる二階にまで届く。
「ん?」
二つの影が姿を現し、同時にリクの方に訝しげな視線を向ける。
一人は薄暗い風景の中では殊に目立つ、真っ白な髪を赤いヘアバンドで後ろに流し、まるで白毛のライオンのようにしている少年だ。
長袖の黒いTシャツの上に袖を捲った白いシャツを着込んでおり、学生用ズボンには赤いベルトを二本交差させて巻いている。
そのベルトに差しているのは、黒い伸縮型の使い込まれた警棒だ。
お? というように開けた口や吊り目がちな大きな目を見開いた表情は、一見チンピラ風なのに、どこか親しみやすさを覚える。
彼よりも拳一つ分低いもう一人は、その親しみやすさとは正反対にかけ離れた冷たい表情をしていた。
白髪の少年と同じようなシャツとズボンだが、赤くて細めのネクタイを締め、平均男子高校生の身長より小さい彼には明らかにオーバーサイズな灰色のパーカーを羽織っている。
そのポケットからはイヤホンコードが伸びており、真っ白な首を這って肩にかかりそうな長さの黒い髪の中まで続いていた。
一瞬西洋人形のように見える綺麗に整った顔を見ると、リクはいつも気位の高い猫を想像する。
その美しさは華やかで精気に満ちたものではなく、青に近い陶器のような白い肌と読み取れない表情が相まって、まるで気味が悪いくらい精巧に出来過ぎた人形のようだ。
彼ら二人に対してリクはといえば、言葉を探すように口を開けたり閉めたりと、ものすごく間の抜けた顔をしていた。
声をかけるタイミングを失って口篭ったリクの代わりに口を開いたのは、黒い髪の小さい方だった。
「何の用だ、リク」
「あ、兄貴……、あの」
ほとんど抑揚のない声で兄、ハルに呼ばれる。
なぜか冷たい手に心臓を掴まれたような気持ちになり、さらにリクの声が奥へと引っ込む。
そんな微妙な空気が流れる兄弟の邂逅に、白髪の方が何一つ空気を読まない声を出す。
「弟くんだ! ハル、弟くん! 弟!」
何が面白いのか、ハルの肩を手の平で叩きながら、リクを指さして白髪の少年がキャッキャと笑う。
「見えてるし聞こえてる。アキ、痛いから叩くな」
そんな様子に慣れているのか、ハルが肩を叩くアキと呼ばれた少年の手を払いのける。
「ひっさしぶりだね、弟くん! 元気だった? ご飯ちゃんと食べてる? 宿題やった?」
「え、えと、はい」
苦手なテンションなのか、若干引いたリクが曖昧に答える。
リクもアキとは面識があった。
確か、ハルの相棒だかと自称していたことを思い出す。
もっともそれにハルは肯定も否定もしなかったが。
彼はハルの情報提供者であり、ボディガードであり、信奉者とも言える連中の一人だった。
はじめてアキと会った時に、あの兄が傍に置き、相棒と勝手に呼ばせ、名前の音が『ハル』と『アキ』なんて自分よりも兄弟みたいだ、なんて少し羨ましく思った覚えがある。
「で、なんで弟くんがこんなところにいるの?」
「俺に用があるからだろ」
首を傾げてアキが問いかけると、リクが言葉を出す前にハルが答える。
「そっかー。ハルに用があるから来たのかぁ」
ぽん、とアキが手を打って納得する。
「………」
「………」
そしてその姿のまま数秒間かたまり、
「あれ、もしかして俺、邪魔?」
ハルに向かって小首を傾げる。
「そうだ、よく自分で気づいたな、偉いぞ。
あと三秒遅かったら、ここから投げ落としてお前の脳ミソをリセットするところだった」
「うへへ、褒められた」
どうやら淡々と述べられた後半の処刑部分は都合よく聞こえていないらしいアキが、頬を抑えてニヤニヤする。
リクの知る限り、かつてこの白い髪は恐怖の対象であったはずだ。
件のギャングですら手の付けられないような問題児であり、暴徒『白獅子』とまで名前が付けられて恐れられた、御しがたい不良であった。
リクはその時代のアキに会ったことはないが、今のデレデレしている姿からはまるで想像がつかない。
今のアキは獅子というよりも、ハルに馴れきった野良猫そのものだ。
「じゃ、俺帰るね。ハル、明日家来るだろ? その時に続き話すよ」
「あ、あの、すいません。気ぃ使ってもらって」
身を翻したアキに、リクがペコリと頭を下げる。
「気にしなくていいよ。バイバイ、弟くん。ハルもまた明日な」
アキは軽く手を振って、そのまま階段を降りていく。
リクはもう一度頭を下げるが、ハルは振り返りもせずに軽く片手を上げて歩を進める。
と言っても目的の場所はリクではない。
「どけ」
「あ」
自分の部屋の扉の前に立つリクを軽く押しのけると、ハルがポケットから鍵を出して鍵穴に差し込み回す。
そしてそのままドアノブを捻って開けて入ろうとし、少しだけ止まる。
少し長めの黒い髪から僅かに滴る水滴が、ハルの着ているパーカーの肩に落ちて色をにじませる。
人間性と同じように成長することもどこかに忘れてきたのか、リクが覚えているものとほぼ変わらない身長を持つ兄の頭の位置は、成長期に入って平均をはるかに超えたリクの胸元程だった。
「用があるならさっさと入れ」
「あ、あぁ、うん」
リクが間髪入れずに答えると、慌てて扉を押さえてハルの後に続く。
玄関から1DKの部屋へと続く一枚の扉を開けたハルの隙間から、部屋内部の様子が伺える。
相変わらず生活感が無い、とリクは感じた。
おずおずと靴を脱いで自分も部屋に入るが、まるでビジネスホテルに入ったかのようだ。
『生活感』という観点で言えば、それ以下といえるほどに無機質だった。
装飾の類がないのはもちろん、部屋に置かれているものといえば、一番奥のベッドとデスク、そして中央に置かれているガラス製のテーブル。
あとは今は天井近くに収まっている壁際のスクリーンと、その対角線上にあるプロジェクターくらいだ。
物のない部屋は広く見え、稼働していることを証明するような冷蔵庫の音が、寒々しくしく部屋の中に響いている。
特異と言える点を述べるのならば、事務机よりも簡素なデスクの上に置かれた三つのディスプレイと、デスク下に収納された二つの膝丈まであるコンピュータくらいだろうか。
綺麗に整いすぎたその部屋は、まるでホコリ一つ侵入を許さない砦のように感じる。
部屋の中に入ったはずなのに、なぜかリクの体にひやりとした感触を与えた。
ハルはといえば、一度もリクを振り返らずに部屋に入り、デスク下PCの一つに電源を入れて椅子を引き音も立てずに座ってしまう。
所在なげにリクもガラステーブルの近くに座ってみる。
さっきからどう考えても挙動不審であるのは自覚しているが、居心地が悪くてついきょろきょろしてしまう。
「で?」
「ぅえ?」
こちらを見ずに発せられたハルの言葉が、あまりにも無機質であり、思わず聞き逃すところだった。
「何の用だ」
「えっと、あの」
なぜか怒られている気分になる。
膝の上でもじもじと指を動かしながら、言葉を探す。
その間、ハルは三つのディスプレイを目だけを動かして追いながら、デスクに置かれたキーボードを叩いている。
どこから話せばいいのか、何を話すべきか。
リクが頭を捻って出てきた言葉をそのまま口にだしてみる。
「……俺、切り裂き魔に狙われてるかもしれない」