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「んー……っ」


 リクが顔を崩して肉汁滴るハンバーグを頬張り、味わう。

 粗挽きされた肉を使ったハンバーグに、三種類のキノコが刻んで煮こまれた醤油ベースのソースを絡めて噛み締める。

 先程までの諍いによる尖った感情も、極上の料理には勝てなかった。


 四年ぶりの兄の料理だった。

 幼い頃からの弟の世話焼きに加え、天性ともいえる探究心や向上心も相まって、ハルの家事能力は専門職のそれと変わらなかった。

 その腕はどうやら今でも、十分健在のようだ。


 ただ四年前は、そんなリクを面白そうに微笑ましく見ていたが、現在目の前にいる兄は、やはり無表情である。

 もう食事は済ませたのか、何もないテーブルに肘をついて、リクが自分の料理にがっつく姿を見ていた。


「叔母さんだって、料理上手かっただろ」

「上手いよ。

 でも兄貴のはさ、昔から食べ慣れた味だし。

 俺の好みっつぅか、そういうの全部分かってるっつぅか」


 備え付けてあったブロッコリーも、ソースを絡めて一口に頬張りながらリクが答える。

 さっきまでの泣きべそと決意は何だったのかと自分で思いながらも、リクは自分の頬が緩むのを抑えられない。

 

「そりゃ、十年以上もお前の飯作ってりゃ、そうなるさ」


 僅かに横を向いてハルが言う。

 何気ない言葉だったが、どこかリクの心に引っかかった。


(十年以上も、か)

 

 たった歳一つしか変わらぬ兄が、はるかに出来の悪い弟の世話を十年以上も焼いてきたのだ。


 決して人好きするような性格ではない今のハルでさえ、慕ってやまない人たちがいる。

 昔はそれが格別だった。

 決して明るいわけではなく、誰かの前に出るようなタイプでもない。

 むしろ目立つことは誰よりも忌避しているようなハルだったが、時に国や人種、性別や歳を選ばず強烈までに人を惹きつける。


 それを彼自身がどのように思っていたか、リクには分からない。

 ただ、クリスマスや誕生日のようなイベントに誘われないはずがないハルは、毎年リクと二人で過ごしていた。

 自分がいなかったら、どうだっただろうか。

 そう考えると、リクは腹の底が冷える思いがした。


 自分が当たり前に享受していた幸せは、兄の立場ではどうだっただろうか。

 自分がいなければ、もっと自由で楽しくて、幸せだったのではないだろうか。


 リクでさえ、その『もしも』を簡単に想像できる。

 それをハルが考えなかったわけがない。


 いつかカイが言った言葉を思い出す。

 「ハルは誰よりも優しい」と言い、それは自分が一番知っている、とそう思った。


 そう、優しいのだ。

 だから、たとえ出来が悪くても、世話をかけるだけの邪魔者であっても、嫌いでも、憎んでいても、ハルは自分を見限らない。

 兄がいなくなった理由を考え、初めて自分たち兄弟を客観視したときに出した答えが、それだった。

 だがそれを兄から突き付けられるのが怖くて、リクは自分の心の底にしまって、目を背けた。



「どうした?」


 急に箸を皿に置いたまま動かなくなったリクに、ハルが首を傾げる。


(俺、何をやってるんだろうな)


 偉そうな事を言っておいて、リクはまたこうやって迷惑をかけている。

 関わらないようにしようとしても、全部見透かされて、世話を焼かれる。

 リクの気分が良くなるのを分かっていて、ハルは昔のように扱ってくれている。

 迷惑かけられた上に八つ当たりされたのに、リクのささくれた気分を料理で癒してくれる。


 楽しいも、嬉しいも、美味しいも、いつも兄が作ってくれた。


(これで、今日で終わりにしなきゃ)


 リクは目の前のハンバーグの欠片を、口の中に押しこむ。

 頬が緩むような幸せを、自分は甘んじて享受する資格などないのだ。


 綺麗になった皿を見て、どこか悲しい気分になった。

 泣きたい気分を口の中のハンバーグと一緒に腹の中に押し込む。


「ご飯、ありがとう。ごちそうさま。

 皿は俺が洗うね」


 兄に気取られないように、無理に笑顔を作って皿を持って洗い場に立つ。

 急に様子が変わったリクを、ハルが黙って目で追う。


 蛇口をひねると、勢いよく冷たい水があふれ出る。

 強めの水に皿を傾けて当てながら、リクは思う。


 結局、関わらないように、頼らないようにと思っても、頭のどこかにハルがいた。

 どこかで認められようとしていた。

 どこかでまだ、昔のように戻れるのではないかと期待していた。

 そうやって中途半端に伸ばした手ですら、ハルは掴んでくれた。

 その結果として、いつも以上に迷惑をかけ、そして怪我を負わせてしまった。


 ならばもう、その頭のどこかにいる兄を、消さなければいけない。

 いないものとして、生きなければいけない。

 だけど。


 リクが下唇を噛む。

 そんなことが出来るのだろうか。

 カイはこうも言っていた。「リクにとってハルは一部である」と。

 その通りなのだ。

 太陽や酸素や水、リク自身の手足と同じくらい、兄は絶対だった。


 ずっと引き延ばしていた、『嫌われたくない』と『離れたくない』のどちらかに決着をつける時期が来たのだ。


「!」


 急に、リクは背中の真ん中に、軽い感触を覚える。

 ハルの手のひらが持つ、低い体温だった。

 驚き振り向こうとし、リクは自分が泣いていることに気が付いた。


「あ、兄貴。

 なんでもないよ。

 洗剤跳ねただけだから」


 足音一つさせずに背後に佇むハルに、リクが袖で涙を拭いながら下手な言い訳をする。

 だが、背中の温かさはそこから動かなかった。


 そりゃそうだ。


 リクは思う。

 嫌っても憎んでも世話を焼いてしまう兄が、泣いている弟を放っては置けるわけがない、と。


「……大丈夫だから、兄貴。

 ごめ……」


「悪かった」


 リクの言葉を遮ったのは、思いがけぬハルの謝罪の言葉だった。


 思わず俯いていたリクが顔を上げる。

 謝られる筋合いなど無い。

 むしろこちらから土下座でもしたい程なのに。

 訳も分からず、リクが立ち尽くす。


「さっさと俺に見切りをつけて嫌ってくれれば……。

 俺から離れてくれるなら、なんだって良かった」


 一体兄は何を言っているのか。

 リクはただ呆然と、ハルの口から出てくる言葉を待つしか無かった。

 きゅっ、とシャツの背中が爪を立てるように握られる。


「なぜそんなにヤケになるのかと思ってたが。

 ……そうか、俺のせいか。

 馬鹿だな、俺は」


 違う。兄貴のせいじゃない。

 しかしその言葉が詰まって出て来なかった。


「あんな危ない目に合わせて、お前を責めて。

 ……怖かっただろ、悪かった」

「ち、が……」


 振り向こうとしたが、背中にもう一つの熱が当たる。

 リクの首よりも随分下の辺りに、ハルが額を押し当てていた。


 リクは奥歯を噛んだ。

 いつも見上げていた人だったのに、今では覗きこまなければならないほどに、彼は小さい。

 全てを置き忘れてきた兄は、だけど自分のことを捨てたわけではなかった。


「お前が倒れた時……心臓が、止まるかと思った」


 はぁ、とハルが溜まっていた息を、ゆっくりと吐いた。

 鈍く、奥歯を噛むような音が、リクの背中越しに伝わる。

 僅かにかすれた声が、泣いているように震えていた。


「俺、兄貴に、嫌われてるって……」 


 リクの手に、自分の涙が落ちる。

 思い返せば、工場で自分を救ってくれた時も、鉄柱から庇ってくれた時も、さっき起きた時も、真っ先にリクの心配をしていた。

 あの淡々とした無表情を崩して、弟に何か起こっていないかと恐れていた。


「ふざけんな、嫌うかよ。

 俺にはもう、お前しかいないのに」

「っ!」


 それだけで、リクには充分だった。


 ハルがこの事件で、何を見ようとしているのかは分からない。

 これまでの四年間、どのようなことをしてたのか、何を考えて生きてきたのかも分からない。

 ただ、この言葉だけで、リクには充分過ぎた。

 

 リクには、新しい家族がいる。

 母と父と兄と、そう呼べる人達がいる。

 新しい幸せの中で、段々と傷を癒して生きてきた。


 だが、ハルは違う。

 今もたった一人で、傷ついた心を引き摺って生きている。

 笑うことや泣くこと、人として持ち得る温かさを削りきりながら、その中でもまだ、リクを家族だと思ってくれていた。


 顔中を涙で濡らして、リクが振り向く。

 リクを見上げるハルの顔は、少しの衝撃で全ての感情が崩れ落ちるのではないかと思うほどに、繊細で不安定に見えた。

 相変わらず現実味がないほどに真っ白で滑らかな肌だったが、そっと触れると、確かな温かさがある。



(ちゃんと、ずっといたんだ)


 同じ時間を、ちゃんと兄も生きていた。

 どれだけ変わってしまっていても、ちゃんと兄貴はここにいる。


「ごめん、兄ちゃん。

 ……心配かけて、ごめんなさい」


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