3-6
まだ幽霊団地にいることを幸運だと思った。
これが街中だったら、とんでもない被害だっただろう。
改めて音がした方向を見てみると、確か後ろまでつながっていたはずの歩道横に設置されたブロック塀が、五メートルほど後ろで真ん中から半壊し、崩れていた。
衝撃音はここからだろう。
舞い上がる埃の中に、大きな影が映って見える。
「ハーァルーちゃーん」
喉元で笑いながら、まるでおもちゃを見つけたような調子で名前を呼ばれる。
もっとも子供のそれとは数オクターブ下の、地を這うような低い声だったが。
煙の中から現れたのは、二メートルにも届く長身の青年だった。
テレビの大自然番組で見るような、草原やら砂漠やらで走り回る肉食動物のように靭やかに鍛え上げられた身体を長くて黒いジャケットで包んだ彼は、まるで獲物を追い詰めるときのように、ゆっくりとハルの方に足を進める。
体だけではない。
ハルを睨めつける銀縁メガネの下から覗く鋭い目や、耳にまで届くほどに口角を上げて笑う様、たてがみのように後ろに伸ばした黒い髪の毛は、人間よりも獣を連想させた。
練達な雰囲気の割に、年の頃はまだ二十歳を幾らか過ぎた若々しさがある。
どれだけ感性の鈍い人間でも、一目でタダものではないと分かるだろう。
街を支配する若き王様は、一言で言えば獣だ。
この世で最も獣らしい獣。
彼と対峙する時、ハルはいつもそう感じていた。
ひと睨みで、逃げるか腰を抜かすか叫ぶか今後の人生を諦めるのが、一般的な反応としては妥当といったところか。
街中で猛獣にターゲットとして選ばれたようなものだ。
そんな目をハルから離さずに、ゆっくり歩を進める。
「……マガミ」
ほとんど口を動かさず、ハルがその名前を呼ぶ。
それを聞いて、彼はどこか嬉しそうに目を細める。
マガミの眼鏡の奥から突き刺すような狂気を含んだ視線と、ハルの対照的に氷のように冷えきった視線が絡む。
因縁じみたその視線は、磁石のように逸らされることはなく、互いに牽制するようにぶつかる。
ハルのナイフのような視線を浴びても、マガミの隠そうともしない殺気が弱まることはない。
「ハルちゃんの匂いだと思ったんだよなぁ。
やっぱりそうだったな。
会えて嬉しいよ。
……なぁ、ハールーちゃん」
自覚しているのか元々そういう喋り方なのか、マガミはゆっくりと恐怖心を煽るような言い回しで、釣り上げた口からそんな事を言う。
「……匂いってなんだよ。
え、もしかして匂うのか、俺」
ハルはといえば、その視線や口調に気圧されるよりも先に『匂い』という言葉に反応したらしく、袖をくんくんと嗅ぐという、どこか的はずれな行動をしている。
潔癖の性なのか、どこかで不快の種を持ち込んでしまったのかも、という方が彼にとっては問題であるようだ。
「お前の匂いはすぐ分かるさ。
どこにいたってなぁ。
凄ぇだろ?」
「キモイ。
こんな言い方しかできなくて本当に申し訳ないけど、凄ぇ気持ち悪い」
首を傾けて笑うマガミに、素顔でハルが返す。
狂気じみた殺気を放つマガミに対して、ハルは恐怖心の類は持っていないようだ。
その表情はいつも通りに澄んだものであり、強いて言うなら、わずかに寄せられた眉からは、面倒くさそうな感情が窺える。
「会いたかったんだぜ?
なぁ、元気だったか?
ハールちゃん?」
相変わらずの口調で大股に距離を詰めながら、恋人か子供に向けるような言い方でハルに問いかける。
「お前が来るまでは、心身ともに元気だったんだけどな。
だけど今はちょっとあれかな、精神的な疲れによる目眩が……」
「そうかそうかぁ、元気か!
そりゃあ良かった!
お前が元気だと俺も嬉しいぜ」
ハルの言葉をマガミが途中で遮り、子供のようにパチパチと手を鳴らして喜ぶ。
にかっと笑った顔も、無邪気な子供のそれそのものだった。
そしてその顔のまま、
「そいじゃ、ちょっと死んでろよぉお!!」
僅かに体を屈めたと思った次の瞬間、ガリッと地面をえぐるような音を立てて地を蹴る。
その様はまさに大型の獣の跳躍であり、巨体とは思えないスピードでハルの眼前に迫る。
ゴッという、石を思いきりコンクリートに打ち付けたような音とともに、ハルがいた場所の地面が砕け散る。
コンクリートに打ち付けたのは、石でもなんでもなく、マガミ自身の拳だった。
粉塵となったコンクリートが宙を舞う。
しかしそこに、狙いを定めたはずのハルはいなかった。
「器物破損って言葉、知ってるか?」
その呆れ果てた声は、先ほどまでハルがいた場所ではなく、マガミよりも上から降ってきた。
「っていうか、リッパーズ・ストリートの王様が刃物使わず素手って、どうなの?」
「うるっっせえっ!」
続いて降ってくる独り言のような呟きを頼りに、瞬時にマガミはハルとの距離感を判断する。
真横のブロック塀の上と判断したマガミの長い足が弾丸のように勢い良く、そのポイントに打ち付けられる。
狙いは正確だった。
ハルが地面から避難したブロック塀は、発泡スチロールのように簡単に砕かれる。
しかしやはり肝心のハルを捉えた感触はなかった。
再び二人の視界が砂埃に覆われる。
「ちっ」
苛立ったような舌打ちがマガミから漏れる。
姿が見えないハルを、片手で血走らせた目を覆いながら探す。
「あいっかわらず、デタラメな体しやがって。
どうなってんだよ、お前。
牛乳代わりにセメントでも飲んでるのか?
ダメだよ、ちゃんと栄養あるもの摂取しなきゃ。
いつも言ってるでしょ」
子供に言って聞かすようなハルの声が、ブロック塀よりも更に高い場所から降って聞こえた。
その場所にマガミが目を向ける。
砂煙が晴れたマガミの目に写ったのは、薄汚れたカーブミラーと、その上に猫のようにちょこんとしゃがんでいるハルの姿だった。
たった一瞬で、今度はブロック塀からカーブミラーの上まで飛んだらしい。
今度はマガミが呆れる番だった。
「てめぇこそ、重力をどこに置き忘れてきたんだぁ?
ニュートンにケツでも貸したのかぁ? あ?」
「この街の地面が獣臭くて敵わねぇから、地球君に重力免除してもらったんだ。
いやぁ良いやつだよ、地球君は。今度メアド教えてやろうか?」
無表情のままハルが皮肉に冗談を返す。
「いらねぇ、よっ!!」
「っと」
それを聞き流しながら、マガミが再び、今度はカーブミラーの軸に向かって拳を振り下ろす。
ベコッと鈍い音を立てながら、カーブミラーはストローのようにひしゃげる。
その上に乗っていたハルは、乗っていた場所を蹴って音もなく地面に降り立ち、すぐさまマガミから距離をとる。
「あーもう、酷いなこれ」
ハルが周りを見回して大げさにため息をつく。
わずか数分で、自動車数台が事故でも起こしたかのような有様が出来上がっていた。
未だ宙を舞う砂埃を、ハルがパタパタと長い袖を使って扇ぐ。
住宅街だったらどれほどの被害だったか。
いつもはこうならないように、常にクリスに監視をさせていたのだが、うっかり会うと常にこの様だった。
「あ? なんだよ、俺のせいだってのかぁ?」
数メートル先では、マガミが文句を言いながら拳で折り曲げたカーブミラーに一蹴り入れ、完全に上半分を地に落とす。
あまりにも簡単に崩れ落ちるので、まるでカーブミラーのほうがおもちゃか何かではないのかと疑いたくなる。
しかしそれは紛れもなく鉄で出来た、政府公認の代物だ。
その証拠に、重く鈍い音が地面を伝わって響いてくる。
「逆に聞きたいんだけど、お前以外に誰がいると思ってるの?」
埃を吸わないように、ハルが袖で顔の下半分を覆う。
その言葉に、マガミが片方の眉だけ上げ、面白くなさそうに言い返す。
「お前だろうが。
お前が逃げなけりゃ、何も壊れずに済むんだよ」
「なんつぅ言い草だ。
逃げなきゃ俺が粉々になるじゃねぇか。冗談じゃねぇ」
既に粉々になった、自分よりも硬いはずのコンクリート片を見ながら、同じように眉を顰めるハル。
しかしマガミの勝手な言い草はそれでは終わらなかった。
「じゃあ大人しく俺の言うこと聞いてろよ。
俺だって、お前が逃げなけりゃあよ、こんな真似しなくていいんだぜ?
なぁ?」
にぃっと笑う顔は、なまじ整ったマガミの顔を更に狂気じみた獣のように見せた。
平均的な日本人よりも彫りが深く浅黒い顔立ち、そしてその規定外の体格は、ハルら兄弟と同じくどこか異国の血統を思わせる。
この街に来る前は地中海湾岸の戦場や裏社会を渡り歩いていたと聞いていたから、おそらくそこら辺のどこかにマガミのルーツはあるのだろうとハルは予想している。
そんな生い立ちも知っているし、独特な獣の哲学に誰よりも触れてきたハルは、怒るよりも呆れたような目で、目の前の狂気に対峙する。
「嫌だっつってんだ。
優秀で非凡で逸材で見目麗しい俺が欲しいのは痛いほど分かるけどな、嫌なの。
いたくないの。
意味ないの。
なんにもならないの。
分かるか?」
感情をそのまま言葉に乗せて喋るマガミとは真逆のトーンで、ハルが淡々と言葉を吐く。
「分っかんねぇなぁ。
分かんねぇからよぉ、こうして」
地に落ちていたカーブミラーを片手で軽々と持ち上げ、頭上に掲げると、そのままコンクリート塀に打ち付ける。
ガラスとコンクリートが砕け散る音が重なる。
痛いほどの衝撃音があたりに響き渡り、ハルが迷惑そうに片目を瞑る。
マガミが片手で振り下ろしたカーブミラーは、塀を一メートルほど砕き、蟻地獄の断面図のような形と化した一番下に収まっている。
打ち下ろした衝撃で、ミラーの部分はほとんど飛び散り残っていなかった。
それを引き上げて肩に担ぐと、マガミが僅かに顔を上げて目を細め、見下ろすようにハルを睨めつける。
「こうして、脚の一本か二本でもブチ折って、引き摺って持って帰んなきゃなぁ?」
俄然やる気になってしまったマガミを前に、ハルがもう片方の目も閉じて、がっくりと顔を落とす。
「あのさ、何でお前って、そう極端なの?
それ脚の一本や二本じゃ絶対すまねぇからな。
俺が三人いても足りないくらいだからな」
それでも平然と、ぶつくさ文句を言いながら。
そんな様子に、マガミがカーブミラーで肩をこんこんと叩きながら、首を傾げる。
「俺ぁ、ハルちゃんのためにも言ってんだぜ?」
「あ?」
マガミの不可解な言葉に、ハルが顔を上げる。
彼の顔は相変わらず笑いながらも、どこか真面目な表情だった。
「ハルちゃんはさぁ?
よく俺のことをケダモノとかバケモノ呼ばわりしてくれるよなぁ?
だが俺から言わせりゃ、俺と同じモン飼ってながら、そいつをてめぇのツラの後ろに押し込んで平然と『普通』なフリしてる、お前のほうがよっぽどバケモンだぜ?」
「また随分と勝手なことを言ってくれるよな、お前は。
なんだよ、お前と一緒のモノって。
やめてくれよ、気持ち悪い」
マガミの言い分に、ハルが眉を寄せる。
そんな彼にかまわず、マガミは言葉を進める。
「こっちは、何でお前がそこまで頑ななのか理解できねぇよ。
俺ぁよ、お前がバケモンだろうが怪物だろうが、なんだっていい。
だが俺以外はそうはいかねぇだろ。
誰が本当のお前を認めるんだ?
誰が本当のお前を止められんだ? この俺以外に」
「勘弁してくれよ。
ケダモノに怪物扱いなんぞされたかねぇっての。
俺は他の奴らよりも自分の使い方を分かってるだけだ。
あぁ、まぁそういう意味じゃあ、お前とは同類だけどな。
でもお前と同列にされるのは、遠慮させてもらうぞ」
渋い顔のままハルが言う。
彼にとって、目の前の男は最も警戒すべき人間だった。
それは彼の暴力性や権力、カリスマ性に物を言わせた組織力などではない。
最も厄介なのはマガミが持つ、まさに獣並の鋭さだった。
でたらめなまでの勘や直感は、ハルが理論理屈で積み上げた末の結論と同じくらいに鋭い。
いや、直感ではないのかもしれない、認めたくないがハルはそう感じていた。
僅かな事情を感じ取り、ものすごい速度と分析力で結果を導き出す、そんなスーパーコンピュータ並の情報処理をしているのではないかと思う。
そのブラックボックスの部分が、おそらくマガミ自身にとってもブラックボックスなのが、まがりなりにも『頭が良い』と言えない理由だろう。
だがマガミを何度も助け、現在の地位に立たせた理由の一つとも言えるその能力のせいで、彼はハルにとってはまさに天敵といってもよかった。
「お前が俺を一番理解しているのと同じように、俺が一番お前を理解できる。
お前が俺のことをバケモンだってんなら、お前だってそうだ。
お前は俺と同じ。
同じ匂いを押し殺してやがる。
だからさぁ、お前がどこにいようと、俺には分かるんだよ」
「……ストーカー理論って、こういうことなのかな。
でもストーカー規制って、王様にも通じるのかな?
駄目だよな、きっと」
ハルが完全に呆れた声で横を向いて、ぼそりと嘆く。
「なぁハル?
お前のことを分かってやれんのは、俺だけだ。
俺が一番、お前にとって生きやすい世界を与えてやれるんだ」
「そう言いながら、死ねっつって殺しにかかってくるんだから、お前やっぱりすげぇよ」
片手で頭を抑え始めたハルが唸るようにそう言うと、マガミはにっと笑う。
その表情の変わり方は、まるで幼い子供のようだった。
権力者のくせに。
ハルは舌打ちをしたくなる。
ただ自分の嗅覚で人間と事象を嗅ぎ分けて、直感と暴力と己の兵隊で事を果たす。
それが表か裏か、本人が意識しているかすら怪しいのだ。
他人がそれを推し量ることなど到底出来ない。
その中でもハルは、おそらくマガミ本人以上に彼を量り続けてきた。
しかし、それでも最も苦手な部類であることは変わりない。
対するマガミは相変わらず上機嫌だった。
「な? 凄ぇだろ、最高に格好いいだろ、俺ってさぁ!
ほらほら。
もう認めちゃえよぉハルちゃん」
「はいはいスゴイスゴイ。
マガミさんかっこいー。もう最っ高、惚れちゃうわー。
……って褒めてやるからさ、今日はもう帰って?」
ハルが無理やり口だけ笑って手まで叩いてあげる。
しかしマガミは、笑い顔のままでコキリと首を鳴らして短く答える。
「駄ぁ目」
「ですよねー」
ふざけた言い方をしたマガミのその目には、最初に現れた時と同じ殺気が宿っていた。
(さて、どうしようか)
逃げる方法ならいくらでもある。
だが比較的街に近い場所まで出てしまった以上、いつ人が来るか分からない。
カラスではないが、あくまでカタギでありたいハルにとっては、マガミに追われている場面を誰かに見られるのは本気で勘弁願いたいのだ。
自分一人が彼と関わりがあると思われるのならば良い。
だが、この街には弟がいる。
彼を養っている叔母の家族がある。
彼らに被害がいくのは、絶対に避けたい事柄の一つだった。
しかしマガミは、そんなハルの思惑にお構いなしで歩を進める。
「ハールちゃん。
ほぉら、逃げないの。
良い子にしてれば、痛いことしねぇからさーぁ」
「やだーこの人気持ち悪いよー誰かーたすけてー」
マガミの言い草に、ハルが全く感情を込めずに返す。
だがそんなハルにはやはり構わず、口を吊り上げながら更に続ける。
その眼には好戦的な光が浮かんでいた。
「俺的には抵抗してくれたほうが楽しいんだがなぁ?
昔は俺を殺そうとする奴らしかいなかったのに、最近じゃめっきり突っかかってくる奴がいなくなっちまってよ。
なぁ、ハルちゃん。
いつも逃げるだけじゃなくて、たまにはかかって来いよ。
ハルちゃんの可愛いあんよは、何のために付いてんだぁ?」
「だからそういう言い方が気持悪……」
挑発するようなマガミの言葉にハルが言い返した時だった。
「うわぁあああ変態だぁああああ!!」
「!?」
突然二人の頭上から、場違いな悲鳴が上がる。
ハルとマガミがほぼ同時にそちらを見上げると、空き家となった古びた民家の屋根の上で、なぜかアキが頬に手を当てて叫んでいた。
時間通りに来ないハルを心配したのか、道無き道を乗り越え飛び越え来たのだろう。
そして運悪く因縁じみた二人の邂逅にぶち当たったのだ。
「『あんよ』って!
大の大人が『あんよ』って言った!
変態だ! 変態! 変態がい……」
アキはブンブンと人差し指をマガミに向けて振りながら叫び、そして落ち着きを取り戻し始めると同時に、言葉が途切れる。
どうやら先程の発言は、ハルと対峙しているのがマガミだとは思わずのものだったらしい。
改めて王様を視認して、さぁっと顔が青くなる。
「いやああぁ! キングだったぁ!
違うんです! これには深いワケが!
変態がいると思ったんです!
そしたらキングがいたんです!
わざとじゃないんっス!!」
アキがわたわたと屋根の上で手振り身振りで、マガミに対して弁解を始める。
「違わねぇよな?
キングがマガミで、マガミは変態だから、そこにいるのは変態だ。
なぁマガミ」
「ハルちゃんて、本当可愛くない言い方するよねぇ」
僅かな時間ですっかり毒気を抜かれた二人が、アキを仰ぎ見ながら言い合う。
「あ、ハル! ハルがキングに!
うわ、どうしようどうしよう!
どうしたら良い!?
ねぇハル! 俺どうしたらいいかなぁ!!」
「あぁ、ご近所迷惑がもう一人増えた……」
屋根の上を行ったり来たりしながら、大声で指示を仰ぐアキに、ここが住宅地とか繁華街じゃなくて心底良かったと思いながら唸るハル。
完全に頭を抱えたハルよりも先に、マガミが舌打ちをして怒鳴りだす。
「おい、ギャーギャーうるっせぇぞクソがっ!!
邪魔してんじゃねぇ!
唐揚げにして食われたくなかったら、さっさと消えやがれ!」
「にゃっ!!」
カーブミラーを向けられて、アキが屋根の上で跳ね上がる。
どうやらアキはハルとは違う意味で、マガミが心底苦手らしい。
かつてマガミ同様に、闘争本能のみで生きてきた彼だからこそ分かるのだろう。
絶望的なまでの戦力差が。
アキがマガミの剣幕に顔を引きつらせる。
「うわぁっ! ごめんなさいごめんなさい! 悪気はないんです!
俺なんて食べても全然美味しくないです! 本当です!
コンビニの唐揚げ程度です俺なんて! だから食べないで!」
「だから少し黙……」
「あーでもでも最近のコンビニの唐揚げ美味しいっスよね!
アレ結構好きで種類もたくさんで楽しみで!
だから俺なんてコンビニの唐揚げ以下です!
あの端っこに転がってる揚げカスみたいなもんなんです! だから殺さないで!」
「だぁあもううるっせぇええ!」
せっかくのハルとの邂逅を邪魔され、頭の上で騒ぎ立てられ、苛々のピークに達したマガミが、持っていたカーブミラーを思いっきりアキに向けて放つ。
やり投げの要領で放たれたカーブミラーは弧も描かず直線でアキに向かい、間一髪で避けた彼の真横の屋根に突き刺さる。
余韻で上下に大きく揺らきながら壁の破片をぽろぽろ落とすカーブミラーの軸を目の前に、アキが口を半開きにしてさらに顔を青くする。
その様子を頭を上下に揺らしながら目で追いつつ無言で見つめると、
「ひぃいいいいっ!!」
転げ落ちそうになる尻を持ち上げて、マガミとは逆方向に向けて思いっきり走り出す。
すぐさま屋根を降りたのか、そのままアキの姿は見えなくなった。
その様子に、マガミがもう一度大きく舌打ちをする。
「ったく、ハルちゃんよぉ。
てめぇのペットなら、もうちょっとお行儀よく飼い慣らしたほうがいいんじゃねぇ……の?」
マガミが振り返り、ハルに文句を言おうとしたが、
「……あら?」
探した人物は既に姿を消していた。
そこにあったのは、マガミ自身が破壊し尽くした廃墟群の入り口である。
こんな素晴らしい逃げる隙を、ハルが見逃すわけがなかったのだ。
多大な人災を被り残った瓦礫の中は、やけに静かに感じられた。
砂埃が烟る中、一人残されたマガミが俯く。
彼の喉が揺れる。
それは段々と口に上り、そして
「くくく……ははっ」
笑い声とともに顔を上げる。
「ひゃははははははぁっ!!」
目を見開いで口を開けて笑うその声は、リッパーズ・ストリートの一角でいつまでも響きわたっていた。
「あーあーあー。
なんでここまで離れたのに、まだアイツの声が聞こえんだよ」
アキにマガミの注意が向かった数秒間、音も立てずに全力疾走してガレージ近くまで避難していたハルが、げんなりしたように呟く。
「怖いようごめんなさいごめんなさい怖いよう。
助けてハル怖いよう」
そのハルの胸元には、彼より少し大きな体を丸めたアキがしがみつき、涙目で震えてながらぶら下がっていた。
「よしよし、もう大丈夫だから。
注意引いてくれるなんて、さすがアキだなぁ、すごいなぁ」
「引いてないよ! ハルが勝手に逃げたんじゃないか!
小さくなっていくハルを見ながら、俺がどれだけ心細かったか!」
機嫌を取るように頭をぽんぽんと叩かれながら、アキがハルに訴える。
マガミからの逃亡は作戦でもなんでもなく、アキに気が逸れた隙にハルがこれ幸いと彼を放って逃げ出しただけらしい。
逃亡中に上手く合流したアキが、恐怖に怯えて爪を立ててしがみつく猫の如く泣きながらハルに飛びついて今に至る。
「アイツお前には興味ねぇから、大丈夫だと思ったんだよ。
実際上手く二人とも逃げられただろ」
片手にアキを抱えながら、ハルが濁った空を仰ぐ。
淀んだ空気のなかでも、マガミの声だけは、鮮明な色を持つように彼には感じられた。
実際にそうなのだろう。
彼を襲った切り裂き事件から四年間、善かれ悪しかれマガミほどハルの中で鮮やかに色と形を残す人間はいなかった。
ハルはマガミが自分に向かって言った言葉を思い出し、しかし否定するように頭を振る。
「どうしたの、ハル」
「別に。放浪癖のある王様ほど、迷惑なモンはねぇなって思っただけだ」
苦々しい溜息とともに吐き出された言葉は、未だ続く獣の笑い声に混じって掻き消えた。




