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2-15


「うーん……。

 『Ripper』か『BlueButterfly』が見てるかもって思ったけど、見当たらねぇか。

 今回はとことん不発だなぁ」


 ライカの声が完全に消えたあと、ハルが長いパーカーの裾を払って立ち上がりながら、周囲を一瞥する。

 注意深く校舎内にまで目をやるが、目的が見当たらないのか、一つため息をつく。

 それを見て、リクがやっと我に返る。


「あ、あ、兄貴!」

「あ?」


 ハルはまるで何事もなかったかのようにキョロキョロとしたあと、やがて一本の木を見つけて、その幹の強度を確かめるかのようにポンポンと叩きながら生返事をする。


「な、何やってるんだよ、兄貴!」

「さっきカイが説明してただろ」

「あんなので分かるかよ!」

「じゃ、何が聞きたいんだよ」

「だから、その、だから……何でここにいて、何をやってるんだ?」


 意味の分からない行動をとり続けるハルに、リクが問う。

 ハルが見つけた木は、彼の身長の二倍はあり、学園の塀から二メートルほど離れた場所に立っていた。

 それを勢いも何も付けずに塀と同じ高さまで、僅かな凹凸と枝を使ってリスや猫のようにひょいひょいと登っていく。

 そして、わずかに身をかがめると、狙いも定めずに最小限の動きで木を蹴る。

 当然のように塀の上に降り立つと、両手を添えて猫のようにしゃがむ。

 一切の無駄がなく簡単に見えるせいで、まるでリク自身も簡単に出来そうな気がするくらいだった。


 先ほどのリクの問いかけに、ハルは事も無げに答える。


「何をしてるって、門を通って出たら遠回りになるだろ」

「……うん、そうだね。確かにそうだけど、そうじゃなくて」


 白昼堂々と他校に潜り込んで恐喝している件について問うているのだが、ハルはしれっとその問いをスルーする。

 そんな兄の様子に、リクが少し頭を抑えて答えるしかなかった。


「なぁ兄貴、学校は?」

「ここから数キロ先南方にあるぞ」


 ハルは星華高等学校の方向を親指で肩越しに差しながら、やはり見当違いな答えを返す。

 片手を離しても、彼の体は全くといっていいほどふらつくことはなかった。


「だからそうじゃなくて、学校、行かなくていいのかよ?」

「いいからここに来てるんだよ」

「え、そうなの?」

「そうなの。俺がそう決めたから、そうなの」

「……そう」


 先程ミズキとカイが、自分の兄のことを『女王様』と言っていた気持ちが、若干分かり始めてきたリクが、ため息混じりに頭を軽く振りながらもう一度答える。


「兄貴、もしかしてコードハントの事を調べてるのか?」


 ミズキには言っていなかったが、リクは掲示板で『Furiya』の文字を見てから、密かにそうではないかと思い始めていた。

 ハルと降谷兄弟の関係は知っていたし、このタイミングでカイがゲームに絡んでくるというのは、もし彼の気まぐれではなかったら、おそらくハルの指示によるものではないのか、と。

 そして今、カイとその弟アキという、ハルに従う二人が集まっており、さらにライカに対して『Ripper』という言葉を投げかけていた。


「俺が調べているのは、コードハントじゃない。切り裂き魔だ」


 塀の上からハルが答える。


「でも、それじゃ、俺の言うことを……」


 あの日、ハルに会いに行った日、まるで興味のない素振りだった。

 だから兄には頼らないでゲームを続けようとしたのだが、もしかしたら心配になって協力してくれるのではないか。

 そんな思いで塀の上を見上げたが、ハルの顔は先ほどと同じように何の感情も見えなかった。


「お前に言われる前から、『Ripper』の事は知っていた。

 元々調べる気なんて無かったが、こちらも状況が変わっただけだ」

「だったら、目的は一緒だろ?

 じゃあ兄貴、一緒に……一緒に、その」


 協力をしてくれないか、の一言がリクには言えなかった。

 自分を見下ろすハルの目が、尚一層冷たく感じたからだ。

 先ほどのライカを見る目と、今リクを見てる目と、どう違うだろうか。

 リクにはそれが全く同じように思え、心臓を掴まれるような気持ちになる。

 自分ももう、他人の扱いなのか、と。


「目的が一緒?

 は、全然違ぇよ。

 俺がお前に言ってやれるのは、前と同じ事だ。

 さっさとゲームをやめろ。

 それがお前にとって、一番良い選択だ」

「………」


 その言葉にリクが下を向いて唇を噛む。

 心配そうに覗きこんだミズキは、リクの握った拳が少しだけ震えているのを見て、気まずそうに目をそらす。


「もし」

「?」


 ハルから言葉を繋ぐのは初めてだった。

 思わずリクが塀の上を見上げる。

 兄はすでに、リクに背を向けていた。

 長いパーカーの裾が、ゲームで見るような英雄のマントのように風になびいている。


「もしも、それでもまだ続けるというなら、忠告だけしておいてやる」


 ハルは苦もなく塀の上に、すっと立ち上がる。


「まず、さっきの野郎は『Ripper』ではない。

 つまり、まだ『Ripper』はネイビスのプレイヤーを狙っている。

 次に『Ripper』は以前よりも狡猾になっている。

 タイミングから見て『BlueButterfly』が関係していると考えていいだろう。

 奴らはゲームが終わるまで、恐らく手を緩めない。

 今まで以上に迂闊な行動は慎め。

 ……お前は黙っていたって目立つんだ」

「兄貴!」


 ハルはそれだけ言うと、軽く塀を蹴る。

 すぐさまハルの姿は塀の向こう側に消えていた。

 塀は三メートル以上の高さがあったはずなのに、着地した音が聞こえない。

 勿論、ハルを呼んだリクへの返事もなかった。


「凄い人、とは聞いていたけど、本当に凄い人だな。お兄様」


 凄い、の方向性はまるであさっての方向だけど。

 と簡単に付け加えて、ミズキが誰もいなくなった塀の上を見る。


「……昼休み、終わるぞ」


 パチン、と手を打つ軽い音と、軽い調子の声がする。

 カイは先ほどの目の輝きをなくし、ぼうっとした眼で二人を見ながら続けた。


「巻き込んで申し訳ない。

 運が良ければ『Ripper』が、駄目でも馬鹿が釣れるように仕掛けたんだが、まさか助けに来てくれるとは思わなかった」


 合わせた手と一緒に頭を下げて謝るカイ。

 無表情なのはハルと似ているが、こちらはただただマイペースというのだろうか。

 感情のある言葉は、今のリクとミズキにとって、どこかほっとさせるものがあった。


「何かあってからじゃ遅いっスから。

 と言うか先輩、本当に大丈夫だったんですか?

 いくら兄貴たちがいたからって、ナイフ持ってる人にわざと近づくなんて危険すぎます。

 嫌だったらちゃんと兄貴に言ったほうがいいんじゃないっスか?」


 この危険な役をカイに与えたのは、間違いなくハルだろう。

 一歩間違えれば大怪我をする場面で、まるで将棋に駒を置くように友人を使うなどということは、リクには考えられなかった。

 少し批難するようにリクが言うと、カイがきょとんと目を丸くする。


「俺は好きでやってる。

 ハル君が大丈夫と言えば、大丈夫」


 当然のようにカイは言う。


「……兄貴だって、間違えることはあると思います。

 先輩の信頼に答えられない時だって、きっとある」


 どこかむっとした口調でリクが言う。

 それは、兄が自分には興味を持たないくせに、カイとは信頼で結ばれているような関係だからか。

 それともカイが、まるで自分よりもハルのことを知っているようだからか、リクには分からなかった。

 しかしそんなリクを、まるで親戚の子供でも見るかのように、カイが少し優しく笑う。


「そりゃそうだ。でも別にいい」

「別にいいって、どういうことっスか」


 リクには分からない絆のようなものがあるようで、彼は顔に不機嫌を表す。


「信じるのと寄りかかるのは、別物だ。

 俺は覚悟を持ってハル君の傍にいる。

 彼が間違えることも裏切ることも、全て覚悟の上。

 ハル君のせいじゃなくて、彼を信じた俺の責任。

 だから俺はさっきナイフで刺されても、別に構わなかった」


 一体どのようなことがあれば、たかだか十七の少年にここまで言わせることが出来るのだろうか。

 そういえば兄は、昔から何故か信奉者とも呼べるような人が周りに集まっていたな、とリクは思い出す。


「そんなこと言ったらハル君は怒るけどな。優しいから」 


 目をつぶってやれやれとカイが首を振る。

 先ほどの場面しか見ていないミズキはその言葉にぎょっとしたが、リクはただ下を向いて押し黙った。

 ハルが、兄が優しいことを誰よりも知っているのは、リク自身だとそう思っていた。

 誰よりもハルを理解しているのも、誰より一緒にいた自分だと、ずっと思っていた。


 四年前までは。

 ずっと一緒にいた大好きだった兄は、今はただ同じ顔の別人のようだと感じていた。

 なのに、昔の優しさを今でも感じさせ、感じられる人がちゃんと存在している。


 だけどそれは、自分ではなかった。

 それに絶望を感じてしまった自分は、カイの言うところの、「信頼」ではなく「寄りかかり」だったのだろうか。

 だとするとハルとの間にできた溝の原因は、彼ではなく、自分にあったのではないか。


 思い当たることが多すぎて、リクはぎゅっと唇を噛む。


「別にお前を責めてるわけじゃない。

 俺とお前じゃ立場が違う。

 お前にとってハル君は、いわば体の一部だったのだろう?

 それをいきなり抉り取られたら、誰だって戸惑う」


 がっくりと肩を落としたリクに慌てて、カイがフォローを入れる。

 その言葉にリクははっとした。


「先輩、四年前のこと知ってるんですか。

 ……兄貴の」


 リクには、あのハルが、自分の弱みとも言えることを他人に話すとは思えなかった。

 しかし目の前のカイはそれを知り、しかもその上でハルに付き従っているらしい。

 また自分には見えない、ハルと自分以外の誰かの繋がりが垣間見え、リクはどことなく胸に痛みを覚える。


「四年前?」


 二人の会話をずっと黙って聞いていたミズキが、首を傾げる。

 彼は何も知らない。


「あ、いや……」


 どう説明していいのか分からず、思わずリクが口ごもる。


「覚えておけ」


 そんな二人に構わず、カイがリクに言う。


「ハル君がいなくなったことでお前が感じた痛みを、誰よりも理解しているのはハル君だ。

 お前が傷つくことで一番傷つくのも、ハル君だ」

「そん……」

「『そんなこと無い、兄貴は俺のことなんて分かってくれない』か?

 ハル君はお前がそう思ってまた傷ついているのも、ちゃんと知っている」

「………」


 言葉を途中で取りながら、カイが続ける。

 変わらず静かな口調なのに、畳み掛けるような言葉の波に、どこか悲しみを感じた。


「ちゃんと分かってる。

 昔も今もちゃんと、他の誰でもないお前だけの兄だ。

 ……だから」


 そういって途中で言葉を切ったカイの笑みは、切なさを押しとどめるために付けられたもののようだった。

 一瞬だけ口ごもると、彼はため息を付きながら再度ぼうっとしたような顔で、リクに人差し指を突きつける。


「だから、ちゃんとお兄ちゃんのいうことを聞いて、無茶はしちゃ駄目だ」

「!」


 急に打って変わったその態度に、リクが思わず仰け反るようにして体を引かせる。

 そんなリクを面白がるように、彼は突き出した人差し指をグイグイと前に出す。


「おーけい?」


 言い聞かせるように、もう一度確かめながら。


「お、おーけーおーらい!」


 目の前の指を見ながら、リクがさらに体を引いて頷きながら答える。

 カイはそれを満足そうに見ると、


「お前もだ、ミズキ。それでなくても怪我人なんだから、走るな」

「い、いえっさー!」


 ミズキにもそう言いながら、彼は人差し指を横に振る。

 なんで怪我のことを降谷先輩が知ってるんだ、とミズキは聞こうとしたが、答えはもう明らかな気がして胸の中にしまいながら、引き気味に答える。

 そんな二人に、うんうんと満足そうに頷きながら、カイがくるりと踵を返す。


「よろしい。健闘を祈る、くれぐれも気をつけろ」


 そう言うと、身長と同じくヒョロりと長い腕を背を向けたまま軽く振り、やがて校舎の角を折れて影の中に消えていった。


「……なんだか、思ってたのとは別の意味でエライことになってたな」


 極めて傍観者だったミズキが疲れたように吐き出す。

 彼にしてみれば、助けに行った先輩が既に助かっていて、その先輩を襲った犯人は別の人物に襲われていて、既に満身創痍な犯人はさらに外道極まる方法で脅迫され、その脅迫している当の人物は、隣にいる顔は怖いけど中身はお人好しが具現化したかのような友人の兄でした、という忙しすぎる現場に居合わせたのだ。


 まったく忙しい昼休みだとばかりにため息をつく。


「しっかしお前、降谷先輩と知り合いだったんだな。

 前に協力してもらうのを渋ってたのは、そういう……。……リク?」

「あ、うん?」


 カイが去ったあとをぼうっと見ていたリクが、声をかけられて一瞬びくりと肩を揺らす。


「大丈夫か?」

「うん、俺は平気。

 というかなんつーか、悪い。

 なんかこれ、兄貴が仕組んだみたいだ」


 はぁ、と息をつきながらリクが言う。


「あぁ、みたいだな。

 別に気にしてないって。

 よく分かんないけど、何か考えがあってのことなんだろ。

 降谷先輩も無事だったみたいだしさ」

「そうだな」


 そう答えたリクは、やはりいつも以上にどこか呆けたような顔をしていた。

 未だハルが飛び降りて消えた塀の上をぼぅっと見ている。

 その様子に、ミズキは先程のカイが言った言葉を思い出す。


「なぁ、もしかして俺、変なこと聞いちゃった?

 ……『四年前』とか」


 その言葉に、リクがまたピクンと反応する。

 いつもとは様子が違うリクに、ミズキが地雷を踏んだと確信した。

 悲しみとも狼狽ともつくような眉を寄せた複雑な表情を、ミズキは今まで見たことはなかった。


「別に話したくなかったらいいよ。

 その……お前にだって色々あるだろうし」


 なるべく明るい声を出してミズキは言い、リクの背中を軽く叩く。

 しかしリクは僅かに下を向いて、ゆっくりと瞬きをしただけだった。


「……リク?」

「四年前のこと、教えたくても教えられないんだ」


 わずかに震える声が漏れる。


「え?」


 聞き返したミズキの顔を、リクが顔を上げて真正面から見る。

 泣きそうな顔で作り笑いをするリクの顔は、子供のようにひどく幼く感じられた。


「切り裂き魔の事件に巻き込まれたの、初めてじゃねぇんだよ」

「初めてじゃない……?」


 こくん、とリクが頷く。

 彼は再び兄が消えていった塀の上を見る。

 まだそこに、ハルがいるかのように。


「前にお前も言っただろ。

 この街がリッパーズ・ストリートなんて呼ばれるようになったきっかけ。

 この街で最初に起きた、連続切り裂き事件」

「あぁ」


 死者や怪我人を含めて十人以上の犠牲者を出した、凶悪犯。

 イギリスの有名な殺人鬼を真似て、ジャックと呼ばれた切り裂き魔。

 彼がいなくなった後も、まるで感染症のように、この街には切り裂き魔と呼ばれる人間が生み出された。


「五年前に現れた切り裂き魔、通称ジャック。

 一年にわたって凶行に及んだヤツが、四年前最後に襲ったのが……俺の家族だ」

「!」


 そんなまさか、とミズキが目を見開く。


 だがいつだったか、その話をした時に、リクが若干言葉を濁していたのを思い出した。

 それは、彼自身が当の事件の被害者だったからなのだろう。

 ミズキは、まるで自分の不注意を悔いるように唇を噛む。

 そんなミズキを、リクがゆっくり瞬きをしながら、泣きそうな顔で見る。


「俺も、そこにいたんだ。

 なぁ、俺もそこにいたんだよ。

 事件があった、あの場所に。

 ……なのに」


 ぽつん、と暗い空から落ちてきた雫が、地面に灰色の染みを広げる。


「なのにさ、俺はその時のことを、何も……何一つ覚えていないんだ」


 ふたつ、みっつとその染みを広げていく。

 遠くでは、硬い屋根に水滴を打ち付ける音が連続して響いていた。


 そういえば。

 リクはふと思い出す。

 四年前のあの日も、こんな風に暗くて湿った時期だった。


「両親は死んだ。

 兄貴はその両親の前で、生きているのが奇跡だって言われる程に切り刻まれた、らしい。

 俺は……。

 ……俺だけ助かった。

 なのに、俺は何も覚えてない。


 だから兄貴は……俺を許せねぇんだ」

 


 足元の灰色の染みは瞬く間に広がって、やがて一面を同じような色で塗りつぶしていった。


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