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温かな黒い猫を膝に乗せて、ハルが空を見上げる。
彼の眼には、相も変わらず灰色の空と雲が果てまで続いて映る。
湿った風が真っ黒の髪を撫でる。
「ハル様、どうかいたしましたか?」
受話器に当てた耳に、鈴のような少女の声が聞こえる。
小高い標高にあるアキの家の庭より、更に数メートル上の木の上。
空と眼下の街に意識を飛ばしていたハルが、その声で現実に引き戻される。
「いや、今日の天気はどうだったかなって」
「そうですね、悪くはないですよ。昨日よりは雲が少なく、青空も僅かながら見えますわ」
「そっか」
クリスと呼ばれた少女の声に、ハルがもう一度空を見上げて、少しだけ目を細める。
「で、何か視えたのか? クリス」
「はい。我が深淵の眼の一つが『キング』の姿を捉えましたので、ハル様のお耳に入れておこうかと」
その言葉を聞いて、ハルの眉が少し寄る。
もちろん深淵の眼が云々ではない。
クリスと呼ばれた少女は、アキと同様にハルの優秀な手下の一人だ。
しかし彼同様にいくつかの難点があり、その一つが凡人には理解し難い世界観だった。
長い付き合いで、ハルはそこら辺には慣れている。
ハルが反応したのは『キング』という単語だった。
この街の実質的支配者、ギャング『黒狼』のリーダーを思い浮かべ、ハルは短くため息をつく。
「どこら辺だ?」
「歓楽街中心部から北に二ブロックあたりを彷徨いています。お一人のようですね。
ハル様はガレージにいらっしゃるのですよね。
でしたら、遭遇する可能性は低そうですが」
優秀なオペレーターのようにクリスが答える。
「アレの動きは、俺でも予想できねぇからな。余計な外出は控えるか」
迷惑そうに顔をしかめて、再度ため息をつく。
「それがよろしいかと。また動きがありましたら、その都度お知らせ致しますわ」
「わざわざ悪い」
「貴方のためでしたら、いつ何時でも。それでは失礼いたします。また後ほど」
まるで電話の向こうで腰を折っているのではないかと思うほど丁寧にそう告げ、クリスは電話を切った。
画面の中では、クリスのトレードマークである、白いうさぎがこちらに手を振っていた。
それを見て、ついでに膝を温めている黒い毛玉を一撫ですると、下からハルを呼ぶ声が聞こえる。
「ハールーちゃんっ!」
幼さが残る少女の声に木の下を見ると、小学生低学年ほどのポニーテールの少女がメガホンのように口に手を当てて、ハルのいる場所を見上げている。
決して太く安定しているわけではない、軽く二階建ての家の屋根の高さはあろうかという木の枝の一番上に、ハルと彼の抱えている黒猫が、苦もせず座っていた。
座っている枝以外は、近くの枝に足を引っ掛けるだけという格好で、くつろぎながら電話をするという芸当を、その少女は心配そうに見ていた。
「お電話、終わった? サラーサ、大丈夫?」
単語ずつで区切って、少女が叫ぶ。
ハルは膝で今にも寝そうな黒猫、サラーサを片手で持ち上げて、無事だとアピールすると、少女はホッとしたような顔を見せる。
が、次の瞬間、少女はぎょっとしたように目を見開く。
「は、ハルちゃん、危ない!」
少女が見上げているその先で、ハルは支えていた枝から足を離し、上体をまるでリクライニングチェアの背もたれに寄りかかるかのようにぐらりと仰向けに倒す。
当然体重は頭側にかかり、支えを失った体は頭から落下する。
少女は見開いた目を思わず両手で塞ぐ。
ガサガサという枝と葉っぱが擦れる音が終わると、恐る恐る少女は目の前から手をどけた。
「わっ!」
目の前には、黒い毛で覆われた大きな金色の目が彼女の瞳を映している。
「サラーサも反省してるみたいだから。許してあげて、ルリちゃん」
眼前に差し出されたサラーサを少女、ルリの手の中に収め、膝をついて目線を合わせながら、何事もなかったかのようにハルが言う。
先ほどハルがいた樹の幹のてっぺんと、今目の前にいる彼を、ルリが目をぱちくりさせて見比べる。
彼の大きいのに涼やかに切れた目尻なんかは、サラーサとよく似ていた。
「まったく、降りれないなら登るなっつぅのに。
相変わらずマイペースでうろつくんだから、この悪猫」
猫も降りられない場所に登って、一瞬で落ちて、いや、降りてくるハルちゃんは何なの?
そもそも登る枝も少ないこの木に、どうやって登ったの?
何度も似たような現場を見てるけど、いったい重力をどこに置いてきちゃったの?
ルリはサラーサを撫でながら、疑問符を大量に頭の上に浮かばせて、兄たちの友人である不思議な年上の少年を見下ろす。
わざとなのか、目立たない格好をしているけれど、テレビで見るどんな芸能人よりも綺麗な人だ、とルリはずっと思っていた。
なのに、彼女の兄たちを訪ねてきたハルに、木から降りれなくなったサラーサを助けてほしいと頼んだとき、迷うこと無く危険も顧みず、さっさと木に登ってしまう様子は、ドラマで見るどんな男性よりも格好良かった。
その彼が膝をついて自分を見上げる様子は、お伽話に出てくる王子様のようだ。
なんて彼女が思って頬を染めているのも気づかずに、ハルは膝を払って立ち上がり
「さて、ワルガキも回収したことだし、お兄ちゃんたちのところに行こうかな」
そう言うと、ぽん、と優しくルリの頭を撫でた。
「あ、う、あ、あのね、アキ君はガレージで、カイ君はお部屋にいるの。
あのねあのね、ルリ、カイ君呼んでくるよ」
「ん? いや電話で呼ぶから大丈夫だよ。アイツの部屋二階だから、面倒だろう?」
「大丈夫なの! ルリ、呼んでくる!」
何か役に立ちたいのか、彼女は小さな身を翻して玄関口に向かう。
「ハルちゃんはガレージで待ってて」
ルリは玄関から半身を乗り出してブンブンと手を振ると、そのまま家の中に姿を消した。
「……元気になった、のかな?」
一瞬、彼の脳裏に数年前のルリの姿が浮かんだが、それを軽く頭を振って追い出す。
それを今の姿に重ねたくはなかった。
彼女の姿を見届けると玄関を素通りし、家に隣接されたガレージに歩を進める。
ほどなく無機質な白いガレージと、その中央にある二枚の鉄のシャッターがすぐに見えてくる。
シャッターの片方は半分だけ下が開いていた。
ハルがひょいっとしゃがんで中を覗き込んでみると、ガレージの奥のほうで白い髪が揺れており、中で何か話しながら動いているのが分かる。
「こら、アル! なんでアンのご飯取るんだ!
お前のはこっちだろ。わざわざ人のを……アンッ!
喧嘩を売るんじゃない! アルは食べるのを一旦やめなさい!
何でお前らは仲良く出来ねぇんだ!」
若干ドスの利いた声と甲高い二つの猫の声、陶器と金属の器が互いにぶつかる音が、無愛想なひび割れたガレージの壁の中に響いている。
中腰のまま、ハルがその様子を伺う。
親しみやすい表情はしているが、白く染め上げた髪や着崩した格好などの外見は、控えめに言っても不良そのものだ。
(不良と猫の組み合わせって昔からあるけど、元はどこが発祥なんだろうな)
そんなどうでもいいことを考えながら、ハルは黙って二匹の猫が喧嘩をしながら餌を食む姿を眺めてみる。
「あ、ハ、ハル!」
段々足がつかれてきた頃、ようやくアキがハルの姿を見とめる。
軽く手を挙げると、するりと猫のようなしなやかさでハルがガレージの中に入る。




