廻る想い
「私より彼を好きになりなさいよ!」
あの時叫んだ言葉は、いまにして思えばとんでもないものだった。
でも、あの発言があったからこそ、くるくると遠回りした想いは、一日でも早くここへ辿り着くことができたのだろう。
***
夕日の差し込む放課後の学校。一年A組のプレートがかかる教室で一人、茜は日誌を書いていた。さっさと終わらせてしまおうと、黙々とペンを走らせる。部活に入っていない身なので、特に急ぐ必要もないのだが、こういうものはさっさと終わらせてしまったほうがいいに決まっている。
二限目の歴史はなにを習ったかと記憶を辿っていると、ふいに静寂が破られた。
「小柄で可愛い茜ちゃんっ」
メールの文面であったら、語尾に音符やハートの絵文字でも付いていそうな声だ。そう思いながら、茜は無駄に高いテンションで名前を呼んできた友人――昂祐へと顔を向けた。
「なあに、こうちゃん。チビで可愛気の欠片もない茜でよければ話を聞きますよ」
「ちょっ、相変わらず自分を卑下てるねぇ」
「別に」
別に私は自分を卑下などしていない。ただ、自分を正しく評価しているだけだ。そう言いかけて、茜は言葉を呑みこんだ。
「なにしてんの?」
「日誌書いてんの」
「うわ、面倒くさそう。手伝わないけど見ててあげようか?」
「そこは普通、手伝おうか? でしょ」
「いや、だって面倒くさいし」
「手伝わないなら帰ってよ。邪魔」
「えー、帰るのは無理ぃ。じゃあ、ちょびっと手伝うから。なら居てもいいっしょ?」
有難い申し出にも聞こえるが、実際に手伝ってもらうことなどない。話しかけられては気が散るだけだし、放課後に二人きりでいることころを誰かに見られて妙な噂が流れても困る。
「日誌くらい一人でできるよ」
「えぇー。茜、そんなに俺に帰ってほしいの? うわあ、ショック。これは立ち直れない。立ち直れないから立ち上がれない」
だから帰れないとでも言うように、ギャアギャアと喚きながら昂祐は一向に帰る素振りを見せなかった。
「煩いなあ。いるなら静かにしてよ」
「うん。静かにしてる」
「……なんかウザい」
その一言で、昂祐がまた「酷い」「泣いちゃう」と騒ぎ始めた。余計なことを呟かなければよかったと頭を抱え、茜は書きかけの日誌へと視線を戻した。
しばらくの間、沈黙が続く。
「……さっき、教室覗いたときさ」
「あんたは一分以上黙ってられないわけ?」
再び日誌を書く手が止まる。呆れを隠さぬまま昂祐へと視線を向けても、彼は言葉を止めることはなかった。
「窓の外に茜色の空が広がってて、教室の中に夕日が差し込んで、穏やかで優しい光に包まれるように、茜が座ってた」
「なにそれ」
「映画のワンシーンでも見てるみたいに、綺麗だった。綺麗で、でも、なんか悲しくなった。だって、夕日だよ。昼間の太陽じゃなくて、明るいけど薄暗い、夕日の差し込む教室に一人でいるんだよ」
「そんな切なげなシチュエーションを見て、よくあんなテンションで声かけたわね」
「引き留めようと思って」
昂祐は至極真面目な表情で答えた後、一変してへにゃりと緩い笑みを浮かべた。
「茜だけに、茜色の空に溶け込んで消えちゃうんじゃないかって心配だったわけよ」
「……だから陽気に声をかけて、あたしを引き留めようって?」
「そういうこと」
「あんたの脳内って、どんだけ乙女チックなわけ?」
思わずため息がこぼれる。それと一緒に笑いも込み上げてきたが、ここで笑ったら昂祐を調子に乗せるだけだと、茜はにやける口元を隠すように俯いて日誌の作成を再開させた。
「茜、最近暗いよね」
「もう少しで終わるから静かにして」
「なんかあった?」
「……別に」
シャープペンシルの芯が、カリカリと紙に擦れる音が響く。窓の外から、カラスの鳴き声と、グラウンドで部活に励む生徒達の声が聞こえる。
「失恋しただけ」
茜は文字を綴る手を止めないまま、なんとでもないことのように答えた。
「……うそ」
「嘘じゃない」
驚いているらしい昂祐の顔を見る気にはなれず、日誌にペンを走らせ続ける。
「嘘でしょ。誰に?」
「こうちゃんに話す義理はないよ」
「友達じゃん!」
「恋愛相談は女友達にする主義なの!」
茜がしれっとした態度で答えると、昂祐は確信を持った声で「それは嘘だ」と呟いた。
(そうよ。それは嘘よ)
心の中でだけ、茜は返事をした。
別に男女で区別するつもりはないが、異性に相談するには少しばかり恥ずかしい気がするのも確かだ。それに今回ばかりは、誰にも相談するつもりはない。男でも女でも、どんなに身近な友達でも。
特に、昂祐にだけは絶対に。
「……マジか」
「マジです。で、なに。用があって来たんじゃないの?」
「んー、うん。日誌終わるまで待つよ」
「日誌終わったら帰りたいんだけど」
散々話しかけてきて邪魔をしておいて、肝心の用は終わるまで話せないなんて。勝手な奴だな、と茜は思った。けれど、失恋しただなんて告白をした後なのだから、一秒でも早く立ち去ってほしいと思ってしまっている自分も、同じくらい勝手なことを考えているのだろう。
「えー……。でも、ちょっと話しづらくなったかもしんね」
そう言って、昂祐は眉尻を下げながら頭を掻き乱した。言うべきか否か迷っているのだろう。
催促はせずに、茜は彼が結論を出すのを待った。否、漸く静かになったので、日誌を書くことに集中した。
暫くして、昂祐が口を開いた。まだ少し躊躇いがあるようで、もそもそと口内にくぐもった声が耳につく。
「司が、さ」
呟かれた名前に、茜の心臓がどくんと大きく跳ね上がった。
「つうか、司にね」
「……うん」
「恋愛相談された」
昂祐のくぐもった声は、けれど静かな教室の中にはっきりと響いた。
思わずシャープペンシルを握る力が強くなり、細かなカスをばら撒いて芯が折れた。パキンと鳴った小さな音が、実際の何倍も大きく煩く聞こえた気がした。
意識が自分の内側へと沈んでいくのを、茜はハッキリと感じた。校庭から聞こえる生徒達の声が、すぐ目の前にいるはずの昂祐が、少しだけ遠退いていく。
自分が動揺していることは茜もすぐにわかった。けれど鼓動が早まることはなく、焦りや憤りを感じることもなかった。呼吸は至って正常で、心は不気味なほど落ち着いていた。
けれど冷静であればある程、自分がショックを受けていることを強く実感してしまう。
「司が、こうちゃんに?」
「うん」
「恋愛相談したの?」
「そう」
どこか気まずそうに頷く昂祐を見つめ、茜はほとんど無意識の内に呟いた。
「それこそ嘘よ」
笑い飛ばそうとしてみたが、声は震えて、掠れていた。
司は昂祐の親友だ。そして茜にとっても大切な存在である。茜にとって、異性の友達で気兼ねなく話すことができるのはこの二人だけだった。
ムードメイカー的存在である昂祐と、どちらかといえば物静かな司。対照的に見える二人だが、なかなか気が合うらしく高校入学後すぐに意気投合したらしい。二人は互いに唯一無二の大親友であると豪語している。
茜は昂祐と中学時代から腐れ縁を続けているので、昂祐の親友である司とも自然と仲良くなっていた。
自分は司に恋をしている。茜がその事実に気付いたのは、昂祐や司を含む数人の友達と夏祭りに行った日のこと。浴衣を着てきた友達が司に「可愛いね」と笑いかけられているのを見て、嫉妬を覚えたのが始まりだった。
あの日、茜は後悔ばかりしていた。どうして自分は浴衣を着てこなかったのだろう。こうちゃんと司に祭に行こうと誘われた時、どうして他の女の子も呼ぶと言ってしまったのだろう。醜い嫉妬心によって産まれる、些細なことに対する後悔ばかりだった。
芽生えた恋心に気付いてから、もうすぐ半年を迎えようとしていた先週。茜は、司に想い人がいることを知ってしまった。
「茜は自分を卑下してばっかり」
昂祐はよくそう口にする。茜にその自覚はなかったが、自分に自信がないという点ではそうなのかもしれない。
司に振り向いてもらえるわけがない。初めから、茜はこの恋を諦めていた。それでも片想いくらいは許されるだろうと思っていた。けれどもう、それさえ許されなくなってしまった。このまま恋心を秘めていては、もう司の前で、友達として笑うことさえできない気がする。
(だって、司はこうちゃんのことが好きなんだから。二人と友達でいたいなら、私はもっとちゃんと諦めないと)
昂祐に嫉妬しないように。司の前でいままで通り笑顔を浮かべられるように。
司が昂祐を好きだと気付いたとき、驚きはしたが軽蔑はしなかった。
好きな人が好きになった相手なら、自分より素敵な人に決まっている。黙って好きな人の恋を応援しよう――なんて思えるほど大人ではないけれど。それでも、昂祐が良い奴だということは知っている。自分よりも料理上手で、優しい昂祐。彼になら安心して司を任せられると、茜は自分に言い聞かせ、司を応援することにした。
それなのに、何故、司は昂祐に恋愛相談をしたのだろうか。日誌を書く手を完全に静止させ、茜は思考を巡らせた。
好きな相手に恋愛相談なんてするだろうか。それとも、好きだからこそしたのだろうか。相手の好みと自分への好感度を知るために、あえて本命に直接恋の相談を持ちかけることもあるのかもしれない。茜はそう考えた。
「それでさ、今日は一緒に帰らない?」
「え?」
「久々に三人で帰りたいって、司が」
突然の提案と司からの申し出という事実に驚いたが、茜はすぐに納得した。きっと司は、昂祐と二人きりでいるのが気恥ずかしいのだろう。
「わかった。じゃあ、日誌終わらせるから静かにしてて」
司の部活が終わるまでに仕上げちゃうからと伝えると、漸く昂祐が静かになった。
「司ってさ、野球部のレギュラーメンバーだし、勉強できるし、優しいし、凄いよね」
帰り道、茜はとにかく司を褒めた。昂祐に司のいいところをアピールする作戦だったのだが、褒めるたびに司は謙遜してしまう。
「甲子園への出場経験も無い、弱小部だけど」
「勉強は茜ができなさすぎるんだよ」
「こうちゃんだって、勉強のおバカ具合は私と変わんないじゃん!」
しかもその都度、おまけのように昂祐にからかわれてしまうのでどうも上手くいっている手応えが感じられない。
「でも、茜は数学さえ頑張ればもっと成績も上がると思うし、俺なんかよりずっと優しいと思うよ。昂祐は人の輪に入るのが上手くて、テスト以外の頭の回転は速いだろ。きっと社会人になってからのし上がっていくタイプだ」
どっちのほうがよりバカだと子供の喧嘩のような言い合いをする茜と昂祐に向かい、そんな光景を見慣れてしまっているのだろう司は、柔らかな笑顔を浮かべて言った。
「ほら、こういうところだよ! こうちゃんみたいなおバカのことまで、凄く上手に褒めちゃうなんて。ほんと、司って凄い!」
素直に関心をしつつ、逸れていた話を戻そうと茜は声を張り上げた。
「こんなに素敵な司をふる人がいたら、それが男でも女でも許せない!」
昂祐に向かい、茜は忠告の意味も込めて叫んだ。それを聞いた昂祐が、さも当然のように頷く。
「俺もそう思う」
どこか嬉しそうに笑いながら頷いた昂祐を見て、茜は驚き、口元をにやけさせた。
(ももももしかして、これは脈有りなんじゃない? いまよ、押せ、司!)
茜は振り返り、チャンスだと視線で訴えようとした。しかし司は照れ臭そうにしていて、茜からも視線を逸らしていた。
「じゃあ、茜は司に告白されたら百人中百人がOKするべきだと?」
恋愛中そのものの反応を見せる司に茜が目を奪われていると、何故かニヤニヤと表情を緩めながら昂祐が訊いてきた。
「勿論よ!」
即答した茜は、だからこうちゃんもOKしなきゃだめよ、と心の中で続ける。
「ふぅん。じゃあ、茜だったら?」
「私? 私なんかじゃ司に釣り合わないでしょ。ほら、もっと身近に、もっと釣り合う相手がいるじゃん!」
こうちゃんがいるでしょと言いたいのを堪えて、遠回しながらも念押しする。すると、昂祐は額を押さえて天を仰いだ。その反応の意味が、茜には読めない。
「どうやら俺の恋は脈無しみたいだ」
苦笑交じりに司が呟いた。
「そんなことない!」
茜は即座に頭をふり、叫んだ。その声に、昂祐の声が重なる。
綺麗に重なった声に、茜は驚きながら昂祐を見つめた。昂佑も同じように茜を見ている。
そんなことない。司の恋を応援したい茜は思わずそう叫んでいたが、昂祐までどうして断言できるのだろうか。
(もしかして、こうちゃんも司を?)
いや、その考えは都合がよすぎる。自信を失っている司に、親友として励ます意味で言ったと考えるほうが現実的だろう。でも、もしも昂祐が司の想いを知っていたら――。
「ありがとう、二人とも。じゃあ、俺はこっちだから」
いつの間にか、司と帰路の分かれる分岐点まで来ていたようだ。爽やかな笑顔で礼を口にした司は、驚いたままの昂祐と茜を置いてさっさとY路地を右に歩いて行ってしまった。その背中に慌てて「また明日」と声をかけ、茜と昂祐も左の道を進んでいく。
「……茜は、いつも自分を卑下するよね」
ふいに昂祐が、もう何度も聞いた言葉を口にした。
「してない」
「してるよ。茜は茜が思っている以上に、素敵な女の子だと思うよ」
「そんなこと――」
否定をしようとして茜はハッとした。
(ていうか、なんで私のフォローなんかするのよ。私なんかどうでもいいし。寧ろ誤解されるからフォローなんていらないし。それより司のことよ!)
「それより――」
「ねえ、茜」
話題を変えようとした茜の言葉を遮り、昂祐が真面目な表情で訊ねてくる。
「もしも自分に少しでも自信を持てたら、もっと自分の恋愛のことも考えられる?」
「なに? なんの話?」
「俺は、茜は充分に可愛い女の子だと思う。誰の隣に並んだって、釣り合わないことなんてないと思うよ」
茜は驚愕した。先ほどの司には釣り合わないという発言に対しての言葉なのだろうけれど、それにしたって急に可愛いなんて言われたら驚くし照れてしまう。
「な、なに言ってんの?」
「茜は本人が気付いてないだけで、魅力のある女の子だと言っているんです」
「そんなわけ……」
「そんなわけあるよ。現に、キミのごく身近な場所に、キミを想ってる男の子がいるかもしれないよ」
そう言って、昂祐は優しく微笑んだ。
突然の告白に胸が高鳴る。どうやらふざけているわけではないようだ。真摯に訴えられ、それ故に反応に困ってしまう。
(なに? 誉められてる? ていうか、これは……)
愛の告白をされているのではないだろうか。そう思った途端に、頭の中が真っ白になった。
「だめ!」
混乱し、気づくと茜は叫んでいた。
「私より彼を好きになりなさいよ!」
「……はい?」
言葉の意味が理解できていないのだろう。昂祐は首を傾げて説明を求めている。
なにをどう説明したものか。考えている茜の頭の中も混乱状態で、昂祐の言葉のせいで妙に気持ちが高ぶっているのも相まり――、
「私は、こうちゃんの気持ちには答えられない。わたしは司が好きなの。でも、司はこうちゃんが好きだから……だからわたしは諦めたの! だから、だからこうちゃんは私でなく司を好きになりなさい!」
自分でもなにを口走っているのか理解しないまま、茜はそう捲し立てていた。
少しの間を置いて、昂祐が腹を抱えて笑い出した。遅れて、茜は自分が発した言葉を理解して、青ざめながら口元を手で覆う。
「ひーっ、ひひっ。ウケる。俺が茜を好きで、茜は司が好きで、司が俺を好き?」
とんだ三角関係だと呟き、昂祐は笑いすぎて滲んだ涙を指先で拭った。
「それは勘違い。確かに茜は魅力的な女の子だけど、残念。実は俺には彼女がいます」
茜は目を見開き、一拍空けて叫んだ。
「なにそれ……聞いてない!」
「言うタイミングが掴めなくて。でも、まだ付き合って3日目だよ。だから秘密にしてたつもりはないんだけど」
「司は? 司はそれ知ってるの?」
「うん。司にはすぐ話した」
開いた口がふさがらない。その言葉通りぽかんと口を開いたまま、茜は昂祐を見上げた。
(司は失恋してたんだ)
それに気付けず、司の前で彼女持ちの昂祐に司をアピールしていたなんて。なんて空気の読めない、嫌な女だろうか。余計なお節介を焼いた。傷つけたかもしれない。
「ねぇ、茜。ちょっと立ち止まろっか」
昂祐の提案がなくとも、驚愕で既に足は止まっている。
昂祐は、司の気持ちを知っているのだろうか。司は、どんな気持ちで昂祐に恋愛相談なんてしたのだろう。考えてもわかるはずはなく、知ったところでどうすることもできない。
茜が茫然としている傍らで、昂祐は携帯電話を取り出した。誰かに電話をかけているようだったが、茜の耳には上手く昂祐の声が届いてこなかった。
暫く立ち尽くしていると、何故か司が現れた。ここまで走ってきたのだろう。肩で息をしながら、こちらを見ようともせずに足元を見つめていた。
茜は慌てた。いま、司と普段通りの顔をして話す自信がない。どういうつもりで彼を呼び出したのかと昂祐に訊ねようとしたが、昂祐は茜の呼びかけに答えず、司に何事かを耳打ちするとさっさと帰ってしまった。
なにが起っているのか理解が追い付かず、これ以上とない混乱が茜を襲う。
「あの、司……えっと……」
なにか話さなければ。そう考えるほど、なにを話せばいいのかわからなくなる。司は司で、どこか落ち着きがない。互いに視線を彷徨わせて、沈黙を守ること数分。耐えきれずに、茜は口を開いた。
「……こうちゃんに、なに言われたの?」
「うん、ちょっと」
答えを濁した司は、やはり落ち着きなくそわそわとしている。その様子を横目に見ながら、茜もあくせくしていた。
左を上に指を組んでいた司が、右の親指を上に組み替えた。その直後に静かな風が吹き、組み直したばかりの指を解いて目にかかった前髪を指で払う。
その動きを無意識に視線で追っていた茜は、前髪の向こうからこちらを一瞥した瞳と視線が交わった瞬間にカッと顔が熱くなっていくのを感じた。
慌てて視線を逸らす。きっといま、自分は耳まで真っ赤なのだろう。そう思うと余計に恥ずかしくなり、身体ごと司から顔を逸らそうとした。
「あのさ」
左足を僅かに後ろに引いた瞬間、上擦った司の声が耳に響く。
「俺、茜が好きだ」
「……え?」
一瞬、言われた言葉の意味が理解できなかった。次第にその意味を解していっても、喜びよりも先に疑問が浮上してしまう。
「なに言ってるの? 司は、こうちゃんが好きなんじゃないの……?」
もしかして失恋のショックで自棄になっているのではないだろうか。もしそうなら、決して喜んではいけない。嬉しい気持ちを押し留め、無理に他の人を好きになろうとする必要はないと諭してあげなければならない。
司を憐れむことはしたくなかった。だからと言って、自分が司を好きなことを伝えて、同情で付き合ってもらおうとも思わない。傷を舐めあうのではなく、共に失恋を乗り越えよう。そう提案するべきだ。
茜は司の告白を受けてしまいたい気持ちを堪え、彼を諭すための言葉を探した。けれど正しい言葉を見つけるよりも先に、困惑顔の司に気付く。
「司?」
驚きと戸惑いを混ぜた複雑な面持ちで、司がじっとこちらを見つめている。
どうしたのだろうと茜が首を傾げると、彼は目元を手で覆い、深く溜息を吐きながらしゃがみこんでしまった。
「茜は、ずっとそう思ってたの?」
脱力しきった司が、けれど瞳にはしっかりと強い意志を留めて見上げてくる。
「うん」
素直に頷くと、司の口元が苦笑ともとれる形に歪んだ。
「いや、まあ、好きだよ。昂祐のことは好きだけど。それは、腹を割って話せる親友だとかそういう意味での好きであってさ……」
そう呟いた司が呆れ返っていることに、流石の茜も気付いた。
「よっこいしょ」なんて若者に似つかわしくない声をあげて立ち上がった司が、首の後ろを掻きながら一度空を仰いだ。それから言葉にならない声を幾つかこぼすと、さきほどよりもずっと意志の強い瞳で見つめられた。
鋭い眼光に、僅かな恐怖心と抑えきれないときめきを覚える。
「俺、茜が好きだ」
真剣な面差しを少しだけ紅色に染めた司が、先ほどと同じ言葉を口にした。
真っ直ぐと見つめられたまま、聞き間違いようのないほどはっきりと告げられた言葉。
「もちろん、恋愛感情って意味で」
妙な勘違いをしていた茜に、それ以上の勘違いはさせまいと付け足される。そのときのおどけた表情も、緊張で強張った肩も、その愛が嘘偽りでないことを教えてくれる強い視線も――、
「俺と、付き合ってください」
彼の全てに恋をしていることを改めて実感しながら、茜は必要以上に大きく頷いた。
「……うん!」
それは輪のように、くるくる、くるくる廻って。三人の間を順に通り(それはほとんど茜の勝手な思い込みでしかなかったけれど)、寄り道をして、遠回りをして、漸くあるべき場所へと辿り着いた。
廻り廻った想いはここにある。茜と司、二人の間に。これからは、それを二人で育んでいこう。ずっと、ずっと。
「浮気したら許さないから」
家まで送ってくれるという司の言葉に甘えた茜は、家路の途中でそう呟いた。
「いきなりその心配? ないない。有り得ないって」
「本当?」
「本当。俺、お前しか見えないもん」
迷うことなく断言され、茜は再び顔に熱が集まっていくのを感じた。
「わかった信じる。でも、一つ約束してね」
「なんだ?」
すぐ隣の愛しい人を見上げ、茜はにっこりと微笑んだ。
「もしも浮気したくなったら、相手はこうちゃんにしてね」
「……は?」
司の顔にきょとんと、驚きと困惑の入り混じった表情が浮かぶ。
「絶対だよ!」
悪戯心を擽られて念押しすると、彼は勢いよく頭を振って否定した。
「いやいやいや。それこそないだろ。ていうか、それは俺、信用されてるわけ?」
「うん。してるよ!」
信用しているからこそ、こんな冗談が言える。それを伝えると、司は「任せろ」と言って笑ってくれた。
家までの僅かな距離。まだ手を繋ぎたいとさえ言い出せなかったけれど、隣に司がいるというだけで心が温かかった。
急がなくてもいい。今までも遠回りをしてきたのだから。ゆっくり歩んでいけば、いつか手を繋げる日がくる。明日か、一週間後か、わからないけれど。
二人が手を繋ぐのが先か、昂祐の彼女を紹介してもらえるのが先か。そんなことを考えながら、茜は隣で話す司の声に耳を傾けた。