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黒旋律の歌姫  作者: 梔子
三章【王都編:悪魔の心】
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初めての兄弟喧嘩

ポタポタと音がした。


それは血が滴る音だった。


ヌラリとした血液が褐色の肌を伝って地面に落ち、赤い水溜まりを作っている。


そこはとある林。フカフカの腐葉土が絨毯のように広がる、鬱蒼と木々が生い茂っている。そこに立っている褐色の肌を持つ男は、兄と向かい合っていた。


そんな彼の目の前にいる兄は、涙を流しながら弟を見つめていた。兄の澄んだ碧色の瞳の縁から、水晶のざわめきのような透明な滴がポロポロと溢れて落ちて、弟とは違い、地面に落ちると同時に土の中に染み込んでいた。


兄の瞳に見つめられた血塗れの男は……。


「にいさんげきかわ!!」


ぶしゃあ


「いきゃぁぁぁぁ!」


噴出した鼻血まみれのフォルテスに抱き締められ、カリダの絶叫が響き渡る。何故、このような事になったか、時間は数分前に遡る。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


私は、小さな小さな体が地面を空中に浮かぶのを呆然と見つめていた。


私の目を塞ぐ大きな手の隙間から、私の右脇から伸びる軍靴に包まれた足や、黒い翼、腹を蹴飛ばされて体を不自然なくの字に曲げた少年が見えた。それはまるで、スローモーションのようにユックリに感じた。


一瞬だけ、こぼれ落ちそうな位、大きく瞳を開いた少年と目が合ったが、その赤い瞳の瞳孔が開くのを見たと思ったら、少年は地面に叩き付けられるように着地し、不自然な姿勢で転がっていた。


まるで急斜面をころがるように、枯れ葉が積もった地面の上を転がる少年は、灌木にぶつかると停止する。その勢いは強く、細いが地面に根を生やした木が揺れ、葉が何枚か落ちてきた。


「げぇぇぇ」


地面に横向きに倒れた少年は、一瞬だけ気絶したらしいが、いきなり上半身を起こすと体を丸めて口の中の物を吐き出した。さっきまで私と一緒に食べた物を全て吐き出す少年を見て、私はようやくそこで我に返った。


「大丈夫でございますか!」


私は腕を振り払って、少年の元に駆け寄る。抱えあげた小さな体は細かく震え、手足を歪に曲げて突っ張り、吐瀉物を吐き出している。そして、彼の硝子のような羽根が青黒く濁ってひび割れている。


吐瀉物が詰まらないように、小さな胸を左腕でささえ、外を向くように抱いて吐きやすい体勢にさせる。当然、吐瀉物で私の服が汚れるが気にしない。宥めるように、その背中を撫でながら少年の体を触る。服をめくり、まだ男女の性差さえ現れていない柔らかい体を、特に肋骨辺りを撫でて骨が折れてないか確認する。


良かった……。大丈夫だ。もし、骨が折れて胃にでも刺さっていたら、危険どころの話じゃない。胃の内容物が漏れたりしたら、治癒術をかける間もなく死んでしまう。


ほっとしたのも束の間、悪寒を感じた私は、咄嗟に翼を広げ少年を繭のように包む。すると、少年の体を狙い、殺気と共に繰り出された拳は、私の翼を見ると怯んだように動きを止めた。


「何をなさいますか!フォルテス!」


体で庇うように少年を抱き抱えながら、翼の隙間から見上げると、そこにはフォルテスがいた。


そう、少年に攻撃をくわえたのはフォルテスだった。彼が何故こんな事をするか分からない。あの状態の少年の魔術を止めるには、気絶させるしかなかっただろう。あそこまでの大規模な魔術は、だからこそ繊細で扱いが難しい。術者が陣の操作を放棄すれば、霧散する。だけども、それは術者の体に負担が掛かりすぎる。術を行使する為に、使われた魔力が全て体に返ってくるからだ。


それに、こんな小さな子供の体を蹴るなんてやりすぎだ。フォルテス程の力があれば、苦痛を与えずに気絶させるくらい簡単なはず。


「ひっ」


批難の気持ちを込めてフォルテスを睨み付ける私だったが、彼の顔を見て、思わず声を漏らした。フォルテスは、表情が全く浮かんでいない、ある意味凄みのある顔で私を見つめていた。私は、その顔を見た瞬間、少年を抱き締める腕に力をこめて体を強張らせた。


怖い……。


怯える私を気にする様子もなく、フォルテスは感情が感じられない瞳のまま、手を伸ばして私の腕を掴み、顔を近付けてくる。その動きは何時もの覇気がある動きと違い、まるで蛞蝓なめくじのようなヌルゥとした動きだった。


「兄さん、兄さんは知らないだろうが、ソイツは危険なんだ。ソイツは俺達を殺す為に糞野郎達に作られた兵器だ。危ないよ」


顔が近い。睫毛や吐息が触れ合うような至近距離で、フォルテスの切れ長の瞳を見つめる。そこには真っ黒に濁った色があった。無表情に反して、まるで子供に言い聞かせるような口調。だけども、私の手首を掴むフォルテスの手に力がこもって痛い。


「し、知っております!だけど、坊やは悪い事はいたしません!」

「……坊や?坊やって何だよ兄さん?」

「っ!痛い!痛い!」


私の言葉に、一瞬虚を突かれたような顔をしたフォルテスは、一気に顔を歪めて声の凄みを増した。それは、殺気一歩手前の怒気で、ビリビリと体が震えるのが分かる。掴まれた手首がミシミシと軋む。


「何でソイツを庇うんだ。ソイツは……兄さんを誘拐したんだぞ……俺が……俺が……どんな気持ちで……」


それは劇的とも言える変化で。フォルテスの顔が、まさに獣のそれになり、彼はブツブツと憂鬱に呟き始める。


「そうか……兄さん……、ソイツにタブらかされたか?」

「な……なにを?」

「おかしいと思ってたんだ。お前みてぇな奴が、三発蹴りをいれたくらいで大人しくしているなんて……。お前ならば、蹴りの一発目で跳んで逃げたり、傷を治すくらいする筈だ。それを何だ?これ見よがしに、わざとらしく苦しんで。兄さんの同情を惹くために、下手な演技をしやがって、優しい……何も知らない兄さんをタブらかしてどうする気だ……。俺達の兄さんをタブらかして何をする気だ……」


フォルテスのいきなりの変化についていけない。確かに、私がいなくなった事で心配することはあるだろう。それは申し訳なく思うし、少年はそれで責められるのも分かる。だが、この反応は異常だ。


「やめ……て……止めてっ!」


何時もの恐ろしいフォルテスが、更に凄惨になったような反応。振り上げられた手は、拳を握っていた今までとは違い、手刀の形にされていた。フォルテスは、手刀が主体の戦士だ。彼が手を手刀にしたという事は、本気で少年を殺す気だ。


フォルテスに本気でやられたら、私は少年を守れないだろう。フォルテスの瞳がドンドン黒く濁って、何かが変わっていく。


神に救いを求めようとした瞬間、フォルテスの手のひらが私の口を覆い、声を塞ぐ。息苦しくて涙目になりながら、フォルテスの手を掴み、首を左右に振る。目の前のフォルテスの顔が、歪に歪んで笑いを形作る。


心の中で「止めて止めて」と叫んでも、笑うフォルテスは止まらなくて……。瞳の濁りは更に酷くなって……。


「……今、助けてあげよう我が妃よ……」


そして、そうフォルテスが呟いた時。


「ひっ……くぅ……ぅ」

「に……兄さん?」


ブチンと私の中で何かが切れた。

まるでせきを切ったように、涙が溢れた。


「に、ににに兄さん!?」


涙を流す私を見て、フォルテスが少しだけ元に戻った。口からフォルテスの手は離れたが、私はそのまま泣き続けた。


フォルテスに言われた事がショックで仕方なく、年甲斐もなく涙を流す。フォルテスに言われた言葉が頭の中で何度も繰り返され、体の奥底が、魂の何かが、ざわめいて軋む。


ああ、分かった。私が何でフォルテスが怖かったのか。お婆さんが言っていた事は、ある意味当たっていた。


「き、妃って……誰でございますか……」


私は……、フォルテスが私以外を求めている気がして、それが怖かったんだ。フォルテスは優しいのに、その優しさが、私を通して別の人に向かっていたのが辛かったんだ。「私」が必要ないと、言われる気がして嫌だった。


「ぞ、ぞれは……私じゃ……ない……ひぐっ……でございまず」


会ったばかりの弟に、こんな想いを抱くのは異常かもしれないけど、ようやく……ようやく出会えたのに……何故?心の中で恐れていた事を、私以外を求めている事を、とうとう告げられた私は辛くて仕方なかった。


「……」


無様に泣いていると、腕の中にいる少年に頭を撫でられた。


それで更に、ポロポロと涙が溢れる。怪我人のはずの、こんな小さな子供に心配されるなんて情けなくて、更に悲しくなって、号泣モードになる。


酷い事に、一番その身が危険な少年の事を忘れ、ただ自分の悲しみに流されて、鼻水や涎を垂れ流しながら泣きわめいた。


「ヴェェェン!」


私じゃ駄目?


泣きながらポロリと呟いた瞬間。


「兄さんを泣かせたのは誰だぁぁぁ!俺か!!死のう!」


突然、絶叫したフォルテスは、傍らの大木に轟音を響かせながら頭突きした。そして、プシャァァと、まるで橋のようなアーチを描き、フォルテスの額から真っ赤な血が吹き出したのだった。


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