初めての兄弟喧嘩
ポタポタと音がした。
それは血が滴る音だった。
ヌラリとした血液が褐色の肌を伝って地面に落ち、赤い水溜まりを作っている。
そこはとある林。フカフカの腐葉土が絨毯のように広がる、鬱蒼と木々が生い茂っている。そこに立っている褐色の肌を持つ男は、兄と向かい合っていた。
そんな彼の目の前にいる兄は、涙を流しながら弟を見つめていた。兄の澄んだ碧色の瞳の縁から、水晶のざわめきのような透明な滴がポロポロと溢れて落ちて、弟とは違い、地面に落ちると同時に土の中に染み込んでいた。
兄の瞳に見つめられた血塗れの男は……。
「にいさんげきかわ!!」
ぶしゃあ
「いきゃぁぁぁぁ!」
噴出した鼻血まみれのフォルテスに抱き締められ、カリダの絶叫が響き渡る。何故、このような事になったか、時間は数分前に遡る。
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私は、小さな小さな体が地面を空中に浮かぶのを呆然と見つめていた。
私の目を塞ぐ大きな手の隙間から、私の右脇から伸びる軍靴に包まれた足や、黒い翼、腹を蹴飛ばされて体を不自然なくの字に曲げた少年が見えた。それはまるで、スローモーションのようにユックリに感じた。
一瞬だけ、こぼれ落ちそうな位、大きく瞳を開いた少年と目が合ったが、その赤い瞳の瞳孔が開くのを見たと思ったら、少年は地面に叩き付けられるように着地し、不自然な姿勢で転がっていた。
まるで急斜面をころがるように、枯れ葉が積もった地面の上を転がる少年は、灌木にぶつかると停止する。その勢いは強く、細いが地面に根を生やした木が揺れ、葉が何枚か落ちてきた。
「げぇぇぇ」
地面に横向きに倒れた少年は、一瞬だけ気絶したらしいが、いきなり上半身を起こすと体を丸めて口の中の物を吐き出した。さっきまで私と一緒に食べた物を全て吐き出す少年を見て、私はようやくそこで我に返った。
「大丈夫でございますか!」
私は腕を振り払って、少年の元に駆け寄る。抱えあげた小さな体は細かく震え、手足を歪に曲げて突っ張り、吐瀉物を吐き出している。そして、彼の硝子のような羽根が青黒く濁ってひび割れている。
吐瀉物が詰まらないように、小さな胸を左腕でささえ、外を向くように抱いて吐きやすい体勢にさせる。当然、吐瀉物で私の服が汚れるが気にしない。宥めるように、その背中を撫でながら少年の体を触る。服をめくり、まだ男女の性差さえ現れていない柔らかい体を、特に肋骨辺りを撫でて骨が折れてないか確認する。
良かった……。大丈夫だ。もし、骨が折れて胃にでも刺さっていたら、危険どころの話じゃない。胃の内容物が漏れたりしたら、治癒術をかける間もなく死んでしまう。
ほっとしたのも束の間、悪寒を感じた私は、咄嗟に翼を広げ少年を繭のように包む。すると、少年の体を狙い、殺気と共に繰り出された拳は、私の翼を見ると怯んだように動きを止めた。
「何をなさいますか!フォルテス!」
体で庇うように少年を抱き抱えながら、翼の隙間から見上げると、そこにはフォルテスがいた。
そう、少年に攻撃をくわえたのはフォルテスだった。彼が何故こんな事をするか分からない。あの状態の少年の魔術を止めるには、気絶させるしかなかっただろう。あそこまでの大規模な魔術は、だからこそ繊細で扱いが難しい。術者が陣の操作を放棄すれば、霧散する。だけども、それは術者の体に負担が掛かりすぎる。術を行使する為に、使われた魔力が全て体に返ってくるからだ。
それに、こんな小さな子供の体を蹴るなんてやりすぎだ。フォルテス程の力があれば、苦痛を与えずに気絶させるくらい簡単なはず。
「ひっ」
批難の気持ちを込めてフォルテスを睨み付ける私だったが、彼の顔を見て、思わず声を漏らした。フォルテスは、表情が全く浮かんでいない、ある意味凄みのある顔で私を見つめていた。私は、その顔を見た瞬間、少年を抱き締める腕に力をこめて体を強張らせた。
怖い……。
怯える私を気にする様子もなく、フォルテスは感情が感じられない瞳のまま、手を伸ばして私の腕を掴み、顔を近付けてくる。その動きは何時もの覇気がある動きと違い、まるで蛞蝓のようなヌルゥとした動きだった。
「兄さん、兄さんは知らないだろうが、ソイツは危険なんだ。ソイツは俺達を殺す為に糞野郎達に作られた兵器だ。危ないよ」
顔が近い。睫毛や吐息が触れ合うような至近距離で、フォルテスの切れ長の瞳を見つめる。そこには真っ黒に濁った色があった。無表情に反して、まるで子供に言い聞かせるような口調。だけども、私の手首を掴むフォルテスの手に力がこもって痛い。
「し、知っております!だけど、坊やは悪い事はいたしません!」
「……坊や?坊やって何だよ兄さん?」
「っ!痛い!痛い!」
私の言葉に、一瞬虚を突かれたような顔をしたフォルテスは、一気に顔を歪めて声の凄みを増した。それは、殺気一歩手前の怒気で、ビリビリと体が震えるのが分かる。掴まれた手首がミシミシと軋む。
「何でソイツを庇うんだ。ソイツは……兄さんを誘拐したんだぞ……俺が……俺が……どんな気持ちで……」
それは劇的とも言える変化で。フォルテスの顔が、まさに獣のそれになり、彼はブツブツと憂鬱に呟き始める。
「そうか……兄さん……、ソイツにタブらかされたか?」
「な……なにを?」
「おかしいと思ってたんだ。お前みてぇな奴が、三発蹴りをいれたくらいで大人しくしているなんて……。お前ならば、蹴りの一発目で跳んで逃げたり、傷を治すくらいする筈だ。それを何だ?これ見よがしに、わざとらしく苦しんで。兄さんの同情を惹くために、下手な演技をしやがって、優しい……何も知らない兄さんをタブらかしてどうする気だ……。俺達の兄さんをタブらかして何をする気だ……」
フォルテスのいきなりの変化についていけない。確かに、私がいなくなった事で心配することはあるだろう。それは申し訳なく思うし、少年はそれで責められるのも分かる。だが、この反応は異常だ。
「やめ……て……止めてっ!」
何時もの恐ろしいフォルテスが、更に凄惨になったような反応。振り上げられた手は、拳を握っていた今までとは違い、手刀の形にされていた。フォルテスは、手刀が主体の戦士だ。彼が手を手刀にしたという事は、本気で少年を殺す気だ。
フォルテスに本気でやられたら、私は少年を守れないだろう。フォルテスの瞳がドンドン黒く濁って、何かが変わっていく。
神に救いを求めようとした瞬間、フォルテスの手のひらが私の口を覆い、声を塞ぐ。息苦しくて涙目になりながら、フォルテスの手を掴み、首を左右に振る。目の前のフォルテスの顔が、歪に歪んで笑いを形作る。
心の中で「止めて止めて」と叫んでも、笑うフォルテスは止まらなくて……。瞳の濁りは更に酷くなって……。
「……今、助けてあげよう我が妃よ……」
そして、そうフォルテスが呟いた時。
「ひっ……くぅ……ぅ」
「に……兄さん?」
ブチンと私の中で何かが切れた。
まるで堰を切ったように、涙が溢れた。
「に、ににに兄さん!?」
涙を流す私を見て、フォルテスが少しだけ元に戻った。口からフォルテスの手は離れたが、私はそのまま泣き続けた。
フォルテスに言われた事がショックで仕方なく、年甲斐もなく涙を流す。フォルテスに言われた言葉が頭の中で何度も繰り返され、体の奥底が、魂の何かが、ざわめいて軋む。
ああ、分かった。私が何でフォルテスが怖かったのか。お婆さんが言っていた事は、ある意味当たっていた。
「き、妃って……誰でございますか……」
私は……、フォルテスが私以外を求めている気がして、それが怖かったんだ。フォルテスは優しいのに、その優しさが、私を通して別の人に向かっていたのが辛かったんだ。「私」が必要ないと、言われる気がして嫌だった。
「ぞ、ぞれは……私じゃ……ない……ひぐっ……でございまず」
会ったばかりの弟に、こんな想いを抱くのは異常かもしれないけど、ようやく……ようやく出会えたのに……何故?心の中で恐れていた事を、私以外を求めている事を、とうとう告げられた私は辛くて仕方なかった。
「……」
無様に泣いていると、腕の中にいる少年に頭を撫でられた。
それで更に、ポロポロと涙が溢れる。怪我人のはずの、こんな小さな子供に心配されるなんて情けなくて、更に悲しくなって、号泣モードになる。
酷い事に、一番その身が危険な少年の事を忘れ、ただ自分の悲しみに流されて、鼻水や涎を垂れ流しながら泣きわめいた。
「ヴェェェン!」
私じゃ駄目?
泣きながらポロリと呟いた瞬間。
「兄さんを泣かせたのは誰だぁぁぁ!俺か!!死のう!」
突然、絶叫したフォルテスは、傍らの大木に轟音を響かせながら頭突きした。そして、プシャァァと、まるで橋のようなアーチを描き、フォルテスの額から真っ赤な血が吹き出したのだった。




