消えたアップルパイの謎
企画小説「消小説」です。「消小説」でキーワード検索すると、他の先生方の作品を読むことが出来ます!
ある晴れた日曜日の朝のこと。住宅街の一角のノートン家の窓から、甘く香ばしい香りが風にのり漂ってきた。それは、のんびりとした休日の朝に相応しい、幸せな香りだった。
ノートン家の主婦、ベティは、陽気に鼻歌を歌いながら、朝からせっせとアップルパイを作っていた。
「さあ、後は焼けるのを待つだけね」
皿に乗った丸いアップルパイが、オーブンの中でゆっくりと回っている。
「あなたにも食べさせてあげるわよ、ボビー」
ベティは、窓辺につるした鳥かごに入っている、青いセキセイインコに話し掛けた。インコは目をくりくりさせて、『パイ、パイ』と繰り返す。
「ジーンの大好物のアップルパイがなきゃね、今日は特別な日だもの」
ジーンはベティの夫。最近少し白髪が増え、お腹も出てきたが、ベティの最愛の人だ。そして、今日は彼の誕生日。
「ママ、アップルパイは出来た?」
ノートン家の長女、マギーが、三歳になったばかりの息子、ウィニーを抱いてキッチンに入って来た。彼女は結婚して家を出ているが、父親の誕生日に息子を連れて帰って来た。
「ええ、後はオーブンに任せて、焼けるのを待つだけよ」
ベティはオーブンに目をやってニコリと笑った。
「ボビー、ボビー」
ウィニーはインコのボビーが気に入っていて、マギーの腕から身を乗り出し、しきりに話し掛けている。
「ママはこれから買い物に行って来るわね。今夜は腕によりをかけて御馳走を作らなきゃ」
「私も手伝うわ」
「お願いね。もうすぐパイは焼けるから、ちょっと着替えてくるわね」
「じゃあ、私も」
ベティとマギーは、そろってキッチンを出ていこうとするが、ウィニーは足をバタバタさせて嫌がる。
「ボビーと遊ぶ」
ウィニーは鳥かごのボビーを指さす。
「ウィニーはボビーが大好きなのね。良い子でボビーと遊んでなさいね」
マギーはウィニーを下ろす。自由になったウィニーはちょこちょこと鳥かごまで走って行った。
三十分後、支度を済ませたマギーは、キッチンに向かう途中でベティと出くわした。
「ママ、パイは焼けた?」
「え? えぇ、焼き上がったわ。キッチンのテーブルの上で冷ましてる」
どことなくそわそわした様子でベティは答える。
「早く買い物に行かなきゃ。それと、買い物の後でママは美容院に寄るから、あなたは先に帰っていてね」
「うん。あ、ウィニーはキッチンにいた?」
「ウィニー? さあ、さっきはいなかったけど」
「どこに行ったのかしら? ちょっと裏庭を探して来るわね」
「じゃ、ママは先に車に乗ってるわ」
そう言って、二人はわかれた。
ウィニーは裏庭の芝生に座っていた。
「ウィニー! おばあちゃんと買い物に行くわよ、早くいらっしゃい!」
マギーがウィニーの背中に向かって声をかけると、ウィニーはくるりと体をマギーの方へ向けた。ウィニーは何か手に持って食べている。口のまわりにべっとりと何かがついていた。
「ウィニー、何を食べてるの……?」
ふと、不安がよぎったマギーは、慌ててウィニーの元に駈け寄る。息子のウィニーも父親と同じくらいアップルパイが好き。まさか、目を離したすきに父親のパイを食べたりしてないだろうか? とうのウィニーは涼しい顔して、最後のひとかけをペロリと口に運んでたいらげた。ウィニーからは、甘い香りがする。
「ウィニー! まさか……ちょっとここで待ってなさい」
マギーは大慌てでキッチンへと向かった。
キッチンのテーブルの上には、ベティが作ったばかりのアップルパイがあるはず。キッチンに駆け込んだマギーは真っ先にテーブルを見た。
「あった! 良かった」
マギーはホッと胸をなで下ろし、テーブルに置かれている蓋のついたパイ皿を見つめた。
「出来具合はどうかしら?」
ニコリと笑って、マギーはパイの蓋を持ち上げる。そこには焼きたてのアップルパイがあるはずだが……。
「ない! アップルパイがないじゃない!」
消えたアップルパイを凝視して、マギーは大声で叫んだ。鳥かごのボギーがバタバタと暴れる。彼は『パイ! パイ! ナイ! ナイ!』とわめいている。
「……どうしよう。ウィニーが食べたんだわ……」
テーブルはウィニーには届かない高さだが、アップルパイのためなら椅子を使って手に入れるくらいの知恵はある。マギーは皿の上に蓋をかぶせると、足早にキッチンを出て行った。
「ママ! 私、急用が出来たから、買い物は一人で行って来て!」
マギーは車に乗り込んでいるベティに大声で叫んだ。
「フー、良かった。お皿にピッタリね」
マギーは安堵して、額の汗を手で拭う。ベティが車で出かけた後、マギーは大急ぎで近所のケーキ屋に駆け込んだ。そして消えたベティのアップルパイの代わりに、アップルパイを買って来たのだった。ベティのアップルパイはもう既に、ウィニーのお腹の中なのだろう。
『パイ、パイ』
鳥かごのボビーが羽を広げて、また喋っている。マギーは人差し指を口にあて、ボビーを見てシーッと言う。
「ボビー、アップルパイが代わったことは内緒よ」
『アップル、アップル』というボビーの声を後に聞きながら、マギーは満足した表情でキッチンを出ていった。
それからしばらくして、キッチンにノートン家の長男、ニールが駆け込んできた。ニールは育ち盛りの十五才、午前中の野球の練習から帰って来たばかりだ。ドタドタと足音を響かせキッチンになだれ込んできた彼は、冷蔵庫を開けミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、一気にゴクゴクと飲む。
「ハァー、生き返った!」
ニールは飲みかけのボトルを片手に持ち、片手でバタンッと大きな音を立てて冷蔵庫のドアを閉めた。騒々しいニールに、ボビーは羽をバタバタさせてギャーギャーと鳴いた。
「よぉ、ボビー元気か?」
ニールはボビーが驚いていることを気にするでもなく、テーブルに目を向けた。そこには、何か良い香りがする丸いお皿が乗っている。空腹を更に刺激するような甘い香りだ。
「何だ、これ?」
自然の流れでパイの蓋を取ると、ニールの目の中にアップルパイが飛び込んできた。思わずヨダレが垂れそうな、こんがりと焼けたアップルパイだ。
「上手そう……」
この誘惑には勝てない。躊躇する間もなく、ニールはパイを口へと運ぶ。それが父親のためのアップルパイだなんて、考える余裕はありはしない。一口だけと思って口に運んだが、あまりの美味しさにもう一口、そして更にもう一口。丸いアップルパイはあっという間にニールのお腹の中へと消えていった。
「ふー、食った、食った」
満足したニールは、ペットボトル片手にキッチンを出ていく。ボビーは、ニールの背に向かって『パイ、パイ! ナイ! ナイ!』としきりに叫んでいるが、ニールにその声は届かない。
アップルパイを丸ごと食べたニールは、幸せな顔して裏庭に行った。そこには、幼い甥が芝生に座り込んで遊んでいた。
「よお、ウィニー! ケーキは上手かったか?」
小さなバケツの中にスコップで土を入れて遊んでいたウィニーは、顔を上げてニコリと笑う。
「うん、美味しかったよ、ニールおじちゃん!」
「ニールで良いっていってるだろ。十五でおじちゃんはなぁ……」
「でも、ぼくのおじちゃんだもん」
「ま、そうだけど」
「今日はすごくいい日だよ。ニールにケーキももらったし、後でアップルパイも食べられるんだ」
「アップルパイ……?」
ふと嫌な予感がする。まさか、さっきテーブルの上にあったアップルパイ?
「そうだよ。今日はおじいちゃんのおたんじょう日なんだって、それでおばあちゃんがアップルパイを焼いたんだ」
「……!」
満面の笑みを浮かべるウィニーに背を向けると、ニールはいちもくさん走って行った。後で「ニールおじちゃん!」と叫ぶウィニーの声が聞こえるが、もうおじちゃんだろうとおじいちゃんだろうと、どうでもいい。
「やばい! アップルパイ買わないと……」
ニールは僅かのお小遣いをはたいて、アップルパイを買いに行った。
それから数分後には、ニールは新しいアップルパイをパイ皿に戻すことが出来た。
「フー、助かったぁ〜。肝心のアップルパイがなけりゃ、誕生日が台無しだ」
ニールはホッと安心して、パイに蓋をする。
『パイ、パイ!』
鳥かごのボビーがしきりにわめいている。
「ボビーいいか、このことは内緒だぞ」
ニールはボビーに念を押すと、ニンマリと笑った。
それから、しばらく後のこと。
キッチンにノートン家の次女、十二才のノーラが入って来た。彼女は今まで友達と一緒にパパの誕生日プレゼントを買いに行っていた。
「あ、アップルパイね。ママが作ったんだ」
ノーラはテーブルの上のパイ皿に気付き、そっと蓋を取る。
「うわー、美味しそう! ママすごく上手く作ったわね」
ノーラはパイに顔を近づけて、食い入るように見つめた。
「まるで、お店のアップルパイみたい……私も、こんなに上手く作れるようになりたいなぁ。下はどうなってるのかな?」
ノーラはパイを両手で持ち上げて、下を覗こうとする。ノーラは優しい良い子だが、物事にのめり込みやすいところがある。研究熱心なのはいいのだけれど。
『パイ! パイ!』
ボビーが突然騒ぎ出す。羽をバタバタさせて、ノーラの危なっかしい手つきを心配しているかのようだ。
「ボビー、うるさい!」
ノーラがボビーに向かって怒鳴った時、同時にパイを持つ手が揺れた。ノーラは少しドジなところもある。
「キャー!」
ノーラの叫び声とともに、アップルパイは床にグチャッと落ちてしまった。ちょうど半回転して裏返しになった。
「……どうしよう」
無惨に床に落ちたパイを見て、ノーラは途方にくれる。アップルパイのない誕生日など考えられない。パパの悲しむ顔は見たくない。
「アップルパイ、買って来なきゃ」
ノーラは素早い動作で落ちたパイを拾い、ゴミ箱の底に押し込んだ。そして、ササッと床を拭く。その後、ノーラがアップルパイを買って来るまで、数分とはかからなかった。
「近くにケーキ屋があって良かった」
ノーラはホッと胸をなで下ろし、買って来たアップルパイをパイ皿に乗せる。
「いい、ボビー、このことは皆には内緒よ」
『パイ、パイ!』と叫ぶボビーは、その日何度目かの同じセリフを聞かされた。
夕方近くになり、ノートン一家の愛すべき父親。今日のバースデイの主人公、ジーンが帰って来た。今日は、遊び仲間とともに、充分ゴルフを楽しんで来たところだ。いい汗をかき、お腹も程良く減ってきた。
すがすがしい気分でキッチンに入って来たジーンは、真っ先にテーブルの上の丸い皿に気付く。アップルパイ好きのジーンには、見ただけでそれがアップルパイだと分かる。
「おぉ、ベティが焼いてくれたんだな」
迷うことなくジーンはテーブルに近づき、パイの蓋を取る。
『パイ、パイ!』ボビーは羽をばたつかせて叫びだすが、アップルパイ好きのジーンの耳には届かない。
「私のパイだから、少しくらいつまんでもいいだろう」
ジーンはそう言って、ほんの一かけパイをつまむ。だが、パイ好きのジーンがたった一かけで満足出来るはずもない。もう少し、もう少しだけ、と思っているうちに、アップルパイを丸ごと平らげてしまった。
皿から消えたアップルパイを見て、さすがにジーンも少し後悔する。
「だか、私のアップルパイだしな……皆には我慢してもらうとするか」
後ろめたさを感じつつも、ジーンは自分にそう言い聞かせ、殻の皿に蓋をした。
その頃、誕生日の買い物を済ませたベティは、急ぎ足で家に向かっていた。マギーが一緒に買い物に来なかったことに、ベティはホッとしている。
「美容院に寄るなんてふりをせずにすんで良かったわ。後は、近所のケーキ屋さんに寄ればいいだけね」
ベティはニコニコしながら、ケーキ屋へと歩いて行く。毎年、ジーンの誕生日にアップルパイを焼いているベティだが、何故か今年はパイを上手く焼けなかった。火加減が悪かったのかオーブンの調子が悪かったのか、パイにはだいぶ焦げ目がついてしまったのだ。
得意のパイを失敗して、愛する夫にまずいパイを食べさせるというのは、ベティのプライドが許さない。だから、今年は市販のアップルパイで我慢してもらおうと思った。
「こんにちは〜」
ベティは勢いよく、ケーキ屋のドアを開ける。「いらっしゃいませ」という愛想のいい声がかえる。
「アップルパイを丸ごと一つ下さいな」
「アップルパイですか……?」
若いアルバイト店員の声が曇る。
「ええ、出来たら焼きたてがいいのだけど」
「それが……今日は何故かアップルパイがよく売れて、もうないんです」
店員は申し訳なさそうな顔をして言った。
「売り切れなんですか!?」
ベティは驚く。近所の小さなケーキ屋で、今まで売り切れなどということは一度もなかった。
「ええ、申し訳ありません。アップルパイのブームでも来たんですかね?」
「はぁ……」
店員の愛想笑いに苦笑しつつ、ベティは肩を落としてケーキ屋を出ていった。もし、ケーキ屋の店員がベティと顔なじみの店主だったなら、その日ノートン家の子供たちが何度もパイを買いに来たことに気付いただろう。だが、その日はアルバイトを始めたばかりの若い店員で、ノートン家のことも全く知らなかった。
「しょうがないわねぇ……」
家に帰り、キッチンテーブルの前に立ったベティは、パイの蓋を取る。もちろん、そこにアップルパイの姿はない。しかし、ベティは別に驚く風もなく、そのまま戸棚の方へと向かう。
「焦げたアップルパイを出すしかないわ」
軽くため息をつくと、ベティは戸棚に隠しておいた手作りのアップルパイを取りだした。
「まぁ、捨てなくて良かった」
後で捨てようと思い、一応戸棚にしまっておいたのだ。ベティはそのパイをそっとパイ皿に乗せた。
『パイ、パイ!』
その様子を見て、ボビーが羽をバタバタさせる。
「ボビー、後であなたにもパイをあげるわね。今回はちょっと失敗しちゃったけど、あなたの好きなアップルのところは無事みたいだわ」
ベティはニコリと笑って、ボビーに言った。
そうして、その夜。ノートン家では、和やかな雰囲気でジーンの誕生日のお祝いがなされた。ベティ自慢の手料理をたいらげた後は、お決まりのアップルパイでのろうそく消しが執り行われる。ノートン家では、普通のデコレーションケーキの代わりに、アップルパイの上にろうそくを立てて、ろうそくを吹き消す。
ジーンを中心にテーブルを囲むノートン家の人々。それぞれの思惑が交差する。
──ベティはもう一度パイを焼いてくれたんだな。急いで焼いたものだから、焦げてしまったのか。だが、さすがに私の妻だ、パイがなくなっていたことなど何も追求しない。
パイの上のろうそくの炎を見つめて、ジーンはニコリと笑う。
──パイが焦げてるわ……ケーキ屋に文句言いに行きたいとこだけど、仕方ないわね。
マギーはアップルパイの焦げに気付く。アップルパイを皿に移す時は、慌てていたせいか焦げていたかどうか全く覚えていなかった。
──良かった、良かった。まさか、このパイ、僕が買ったパイだとは気付いてないよね。まぁ、パパにプレゼントしたと思えばいいか。
アップルパイが焦げてるかどうか気にもならないニールは、ちょっと誇らしげな顔でパイを見つめる。
──おかしい……私がパイをお皿に乗せた時には、焦げてなかったわ。何故、焦げてるの? 不思議……でも、パイをすり替えたことは言えないし……。
ノーラは焦げたアップルパイの謎が気になって仕方ない。だが、そのことを追求出来ずもどかしく思っている。ノーラの永遠の謎になりそうだった。
──わーい! もうすぐアップルパイが食べられる!
幼いウィニーは、アップルパイを見つめて、無邪気にはしゃいでいる。
──良かったわ。誰もアップルパイが焦げていることを非難しないわね。みんないい家族ね。
ベティもホッと胸をなでおろしつつ、パイを見つめる。
そして、ノートン家の人々は、皆で『ハッピーバースデイ』の歌を歌い、ジーンは勢いよくろうそくの火を吹き消した。クラッカーの弾ける音。室内は明るくなり、「おめでとう!」の声とともに、ジーンに誕生日のプレゼントを手渡す。
弾ける笑い声の中、アップルパイはカットされそれぞれに配られる。
「はい、ボビー、お前もお食べ」
ベティは約束どおり、インコのボビーにもアップルの切れ端を手渡した。ボビーは『パイ、パイ』と良いながら、満足気にアップルを食べた。
ニールとジーンのお腹の中におさまった二つのアップルパイ、ノーラが落としゴミ箱の底にあるアップルパイ、ベティの焼いた焦げたパイの他に、三つのアップルパイがあったことを知っているのは、ボビーだけだ。
だが、ボビーはちゃんと約束を守って、ノートン家の人々の秘密を守り通した。 了
投稿した後、何故か本文が他の方の小説になるというハプニングが起こり、最初からやり直しました……(T_T)
教育テレビでやってる時々陰の笑いが入るような、アメリカンホームドラマ的に書いてみた作品です。^^; 家で飼ってるインコもアップルパイのアップルが大好きですよ。(^^)