王女様の呟き
初めての投稿です。つたないですが楽しんでいただければ幸い。
腹心の第一騎士にて乳姉妹であったサウラが元婚約者の下へ嫁ぎ、早一年。
ついに王女サマの番がやってきた。
相手は自分の国よりも国力を凌ぐ大国で、正妃になれる事を感謝するようにと何度も父王に言われ、うんざりした。
王族の婚姻は政略的なもの。
大事なサウラが愛し愛される婚姻を結んだ事をイリーシャ王女は素直に喜んだが、その一方で、自分にそんな愛情に満ちた関係がもたらされる事はないだろうと悟った事を思っていた。
仲はあまり良くない、世継ぎの第一皇子である兄に向かって、「祖国に攻め込ませないように精進いたします」と皮肉気に宣言し。
そうして彼女は侍女を一人だけ連れて嫁いだ。
***
イリーシャ王女は御年十七歳。
ちょうど婚姻適齢期、花盛りである。
王妃の美貌を受け継いで、梳られた金の髪は光り輝き、瞳の色こそ柔らかな大地の色だったが、顔かたちは整い、華奢な外見は多くの騎士を傅かせるに足る。
だが、全体的にやや幼い風情があった。
それはちょっとした小首を傾げる仕草や、ぱっと光が灯るような開けっ広げな笑顔もそうだったろうし、護衛を兼ねていたサウラとよくお忍びを決行したお転婆な所からきているのかもしれなかった。
未来の夫と会うのは式当日と説明され、彼女が到着した初日に儀礼的に顔を出しにすら来なかった王の態度に、「前途多難ですわね」とイリーシャは呟いた。
その予感は当たっていた。
国を挙げての王と王妃の婚姻式の場で、イリーシャは夫の顔を初めて知った。
絵姿は国元で見ていたものの、想像以上に見た目がよろしく、一国の王としての威厳を兼ね備えていた。
絵姿以上に濃い金の髪と気難しげな緑の瞳をしている。
御年二十八歳。イリーシャとは十以上離れている。
そして、式の間、ずっと不機嫌そうだった。
式がつつがなく終了し、錚々たる顔触れの宴席で重鎮から祝辞を受けた後、最後に残った初夜。
彼は来なかった。
「完全になめられてますわね」と。
下町で学んだ上品とは呼べない言葉で、イリーシャは呟いた。
事前に聞かされていた話だが、この国には大国らしく王の為の女の園、後宮がある。
寵妃はまだいないものの、その候補となる姫君が既に数人後宮入りを果たしており、夫である王も夜な夜な訪れているのだとか。
正妃には見向きもせずに。
「まぁ、こんなものですわよね」と、イリーシャは納得している。
あからさまな王の態度であるから、彼の臣下たちも右へ倣えとばかりに、イリーシャを遠巻きにしている。
下手に近付いて王の勘気を被る事が恐いのだろう。
と、マイナスから始まった結婚生活に、それでもイリーシャは歩み寄ろうとした。
茶会に招いたり、手紙を書いたり、通りすがりに声をかけ、感じ良く振舞う努力は怠らなかった。
この婚姻は、国同士の結束を強めるものだと理解している。
王と王妃の不和は国同士の不和にも繋がりかねない。
だが、それも三ヶ月を過ぎても無反応、儀礼的な断り文句や挨拶以外返ってこない事を知ると、相手が自分に興味が無いのだから仕方が無いと悟りを開いた。
後宮には通っているようだし、いずれ、彼女たちの誰かが後継者問題も解決するだろう。
王妃である自分に関心が無いだけで、暴君である様子も無く、侍女から伝え聞く王自身の評判も良い。
イリーシャは一通り試した後、あっさりと思考を切り替えて、夫が無関心なのを良い事に、城下町へ忍ぶようになった。
どの王城でも抜け道のパターンは大して変わらず、何度か散策しながら観察した結果、さほど苦労せずに外へ出られたのだった。
国から着いてきた侍女の手を借りて、手頃な服装も整え、まずは露店をひやかして回り、それから町の視察へ取り掛かった。
民の生の声で得られるものは大きい。
王の治世の評判はなかなかに良く、期待され、後は世継ぎの誕生を待つばかりと民は晴れやかに笑う。
その声をイリーシャは笑顔で聞いた。何故か、誇らしく、嬉しかった。
そして世継ぎに関しては、「後宮があるのだから何時かはそうなるんじゃないかしら」と、やはりイリーシャは他人事として思う。
何度か町へと通ったある日、イリーシャは孤児院を見つけ、誘われて子供たちと遊んでから、毎回、その場所に寄るようになった。
故国でも同じ事をしていた。子供と遊ぶのは好きだ。よく泥をつけて帰るようになったので、気付かれないよう、着替えを用意したりした。
施設の資金が潤沢で無い事を知ってから、身の回りの装飾品をこっそり売り、得意の刺繍を施したハンカチを内職したりと密かな援助を行った。
王から定期的に届けられる儀礼的な贈り物は真っ先に売り捌いた。とはいえ、足がついてはまずいので、首飾りなど、ばらして売ったりと、侍女が冷や汗を流すような事もした。
相変わらず夫と会う事はなかったが、なかなかに充実した日々を過ごしていた。
時々、サウラから手紙が届く。
サウラに第一子が生まれた事や日常こまごまとした近況が綴られ、最後には必ず姫様に会いたいと結んだ文面に、泣いてしまうのはいつもの事。
わたくしもあなたが側にいなくてさみしくてたまらない。
そんな晩はテラスに出て、夜空を眺め、この繋がった空の下の何処かにサウラがいると自分を慰めるのだった。
賑やかで貧しくとも笑顔を忘れない子供たちに囲まれると儚い憂いは薄れるような気がする。
その日も鬼ごっこをして、大人気なく全力で子供を片っ端から捕まえ、くたくたに疲れて帰途についた。
王城への帰り道、その途中にお気に入りになった静かな広場がある。
森がこんもりと繁り、小さな噴水が置かれたその場所は、夕暮れ時は静かで小休止を取るのに最適だった。
噴水の縁に腰かけ、イリーシャは空を見上げた。
今日は楽しかったと笑おうとして、失敗してしまった。
この国に嫁ぎ、早半年が経っていた。
時折、何故かたまらなくなって、泣いてしまう時がある。
昨日また届いたサウラからの新しい手紙が原因だろう。
あまり他人の手を煩わせる事が好きではないイリーシャにはこの国からも世話をする侍女がついているが、王との不和が原因か、まだ相手側に壁が透けてみえる。
国からついてきてくれた侍女が一人ついているとはいえ、サウラに勝る友人はいない。
一人のさみしさ、サウラの恋しさ、それに、何処か期待してしまっていたまだ見ぬ伴侶との出会い、そんな色々な感情がごちゃ混ぜとなって胸に迫り、涙に変わってしまう。
王族として覚悟は決めていた筈だった。
国と国を結ぶかすがいとしての役目。そこに愛情など入る余地は無い。
それでも夫婦として寄り添う王族もいる。自分もそうなれたらと何処かで願っていた。
そんな自分の甘さか痛い。
ひとしきり泣いてしまえば気持ちは落ち着く事はわかっている。
王城へ戻るまでにまた王妃としての自分に戻ればいいのだ。何事にも動じない、国に恥じない立派な王妃に。
―――その時だった。
「どうして泣いているんですか」
予想外に声をかけられ、イリーシャは涙を拭う事も忘れて横に振り向いた。
いつの間に増えたのだろう、毛先があちこちに跳ねた茶色の髪の青年が少し離れた縁に座っていた。
大きすぎる眼鏡をつけて、こちらを見ずに、横顔だけを見せている。
町に暮らす住人だろうか、何処か聞き覚えがある声に首を傾げる。
「悲しい事でも? それとも苦しい事でもあったんですか?」
イリーシャはくすりと微笑む。
「ただの下準備ですわ」
「…下準備?」
「泣くと気持ちがすっきりしますの。それで明日からも頑張ろうっていう気になるのです」
あと数ヶ月は泣かずに頑張れるだろう。
破裂寸前まで溜め込むのでその直前がひどく苦しいが、一度、出してしまえば楽になる。
そうからりと言うと、男は意表を突かれたように黙り込んだ。
「心配してくださってありがとうございます。もう大丈夫ですわ。
何だか色々と自分の甘さに落ち込んでいましたの」
「…よければ話を聞きますが。人に話すだけで気持ちは軽くなると」
あくまでもこちらを見ずに、それでも慰めてくれようとしているのだろう気持ちだけは伝わる。
目許を指先で整えながら、イリーシャは嬉しくなって、思い切って話してみる事にした。
「わたくし、恋愛をした事がありませんの」
思いもかけぬ返答だったのか、男が思わず顔を傾けてこちらを見つめ返した。
「おそらく、一生経験しない感情じゃないかと思いますわ。不要だと思っておりましたし。
したくないと願えばその通りになるものだとも思っておりましたの」
苦笑混じりに、視線は宙に投げて、独り言のような声が紡がれる。
「最近、わたくしの一番の親友が結婚しまして、しかもそれが恋愛結婚だったものですから、羨ましくなってしまったのでしょうね。
無理だとわかっておりましたのに、心のどこかで少しだけ願ってもいたのですわ。それが悪かったのでしょう。
わたくし、夫に初めての気持ちを向けてしまったようなのです」
「…」
「これが恋と呼ぶ感情なのだと気づいたのはこの数日の事なのですけれど。
わたくしの夫はわたくしと義務で結ばれた方。お互いの心など必要はありませんでしたのに」
最初はサウラが側にいない所為だと思っていた。
こんなに寂しく感じるのも泣きたくなるのも。
気付きたくなかったのに、正直なイリーシャは自分の気持ちに目を背けていられなくなった。
いつかはこの生まれた気持ちが消えるといいのだけれどと願う。
スカートの裾を払って立ち上がる。
そろそろ帰らなければ晩餐の支度に間に合わなくなってしまう。
「お話を聞いてくださってありがとう。確かに気持ちが軽くなりましたわ」
頭を下げて礼を述べ、踵を返した。
「待って」
腕をつかまれ、引き止められる。
立ち上がると思ったより背が高い。
きょとんとして見上げると、相手は困惑気に眉を寄せ、言葉を探している様子をみせた。
「何か、ありまして?」
「先ほどの話は全て、本当ですか?」
今度はイリーシャが困惑する番だった。
「嘘を申し上げたつもりはありませんけれど」
「…だったら何故気付かない」
ぼそりと呟かれた声は低すぎて聞き取れなかった。
「今日、話した事はあなたの夫に告げないのですか?」
「? そうですわね、話すつもりはありませんわ」
「何故?」
予想以上に強い口調で問われ、目を瞬く。
「夫はわたくしに無関心ですの。ですから、わたくしの気持ちなど迷惑でしょう」
この状態で半年も経ってする告白に何の意味が生まれるというのだろう。
「いいや、あなたは話すべきです」
「どうしてですか?」
「…あなたは自分の夫の顔を忘れたか」
溜息と呆れが混ざった声に、イリーシャは目を丸くする。
まさかと口許に手をあて、視点を変えてまじまじと見つめれば、茶色の髪は金髪にして整え、不恰好な眼鏡を横に置けばこの国の王である青年と瓜二つ。
「…まぁ、気付きませんでしたわ」
「嘘だろう。あなたがそんなに鈍いわけは無い」
「買い被りですわ」
もしかしてと思わなくもなかったが、現実的にそんな都合の良い話があるものかと切り捨ててしまっていたのは事実だ。
「という事は、わたくし、人生初の告白をしてしまったのですわね」
大真面目に言うと、夫は何とも言えない顔で反応に困っている。
イリーシャ自身もようやく頭に染み込んできた事態に気まずい思いが込み上げた。
「先ほども申し上げた通り、わたくしの一方的な想いですから、お気になさらないで。
…ええと、わたくし、そろそろ戻りませんと」
「色々と突っ込むべき点はあるが…共に戻れば良いだろう」
「…いいえ、わたくしは一人で戻ります。御前を失礼いたしますわ、陛下」
頑なに何故かそう言って、離れようとした。
なのに。
「………手を放していただけませんこと?」
「駄目だ」
一瞬、何が起こったのかわからなくなる。
強い引力を感じた瞬間、抱き締められていた。
温かく、少し苦しい。安心できるようでいて落ち着かない。二つの相反する感情が入り混じり合う。
「イリーシャ」
名を呼ばれれば全身が震えた。
呼ばないでほしかった。
どうしようもなく抑えきれなくなってしまうから。
「あ、の…! 止めて、いただけませんか」
なんとか平静な声を出そうとするも、それは意外にも困難で精一杯の演技が必要だった。
しかもそれを見抜かれているような気がする。
深まった腕の力に、身体を巡る熱に、逃げ出したくてたまらなくなる。
「逃げないでくれ」
「…っ」
理由を問いたいが、そんな事をすれば致命的な間違いを犯してしまうような気がした。
いやいやと首を振るも、抱きすくめられる力は弱められるどころか、ふと、顎に触れた指先に顔を持ち上げられ、何かを言う前に塞がれてしまう。
反射的に身を退こうとすれば、頭の後ろに手をまわされ、労わる様に触れられて全身の力が抜けた。
やっと解放された時には、イリーシャは呼吸困難も相まってその場にくずおれそうになった所を王に助けられ、また噴水の縁に逆戻りとなった。
***
「言い訳をさせてくれるか」
そう告げた王は、俯いて無言になってしまったイリーシャに苦味を帯びた笑みを向ける。
最初からすれ違いは始まっていた。
イリーシャの国から持ち寄られた結婚を承諾したのは国王自身の判断だった。
即位して以来、夢中になって政務をこなした。がむしゃらにと言っても良い。
慣例として後宮を持つ事になっていたが、王妃をその中から選ぶつもりは無かった。
前国王である父の女癖の酷さに嘆く母の悲嘆をつぶさに目にしてきたので、後宮の女から王妃を選ぶ事はしないと決めていた。
貴族が差し出す姫を拒む事はしなかったものの、適度に距離を置いて付き合ってきた。
イリーシャを選んだのは不可が無かったからだ。
自国に及ばずとも中堅で国交を結ぶに差し障りの無い国。
南に接した一つの国がきな臭く、ここで同盟を結んでおくのも悪くないだろうと考えた。
無論、世継ぎを早くとの重鎮たちからのせっつきもある。
何より国境の整備やら町の開拓やら、政務が一段落した事で、自分自身の気持ちも一区切りがついた事が大きかった。
そして、式の日取りが決まり、花嫁も国元を出立したとの知らせが来た。
その翌日だった。
イリーシャ王女に恋人がいるとの情報がもたらされたのは。
最初、何だそれは、と思った。
今回の婚姻は、絵姿こそ取り交わし、人柄などを伝え聞いたり一通りの身辺調査はしたものの、国を背景に考えたもので多少の素行には目をつぶる気でいた。
別に王妃として最低限の役目をしてくれればそれでいい。
最悪、彼女がこの国に留まるだけでもいいと突き放して思っていた。
余計な注進を述べた貴族が言うには、彼女には長年、共に過ごした最愛の恋人がおり、何時何処へ出掛けるのにも一緒だったという。
この話を真に受ける気は無かったが、元々、そんなに乗り気ではない気持ちに水を差されたのも事実だった。
そうこうしている内に、花嫁である王女が城に到着し、その日は出迎えの準備をしていたものの、あいにく、外せぬ所用が入って忙しく一日が過ぎていた。
その翌日、会いに行こうかと思ったが、正直、気が進まず、式当日でもいいかと開き直った。
力関係はこちら側に傾いている。
別に冷遇しているわけでもなし、城の者たちには最大限のもてなしをと命じてある。
いつの間にか、国の尺ではかる付き合いに慣れていた彼は、そこで最低限の対応へと気持ちを切り替えてしまった。
そして、式当日。
初めて目にする花嫁は愛らしかった。
国民に披露する時も、無邪気な笑みを惜しみなく与え、どちらかと言えば子供っぽい印象を受ける。
こんな子供にも恋人がいるのか。そんなとりとめのない思いが込み上げ、意味もなく、気分が下がっていくのを止められなかった。
こんな子供を抱く気になれるか。またそう思って、初夜の義務も放り投げた。
一度、抵抗を覚えてしまうと後はなし崩しだった。
王妃からの茶会の誘いも、微笑ましい手紙も、通りすがりにかけられる言葉も、何もかもが心に響かない。
相手は王妃だ、伴侶だと自分に言い聞かせても、何故か、その気になれない。
自分自身をどうしようもないガキだと感じた。
割り切って相手をすればよいのに、どうしてそれが出来ないのか。
その内、相手はまだ若い。自分もまだ充分に時間はあるのだから急ぐまいと逃げの思考に走っていた。
今、歩み寄らずともいずれ。
おかしな事だ。国務に関する決断は驚くほどてきぱきと下せるのに、どうしたものか。
やがて王妃からの誘いも三月経つ頃には途絶え、代わりにもたらされた一報はとんでもないものだった。
王妃が城を抜け出して、町を出歩いているという。
また、何だそれは、と思った。
王妃は砂糖菓子のような外見に見合わぬ、とんだお転婆だったらしい。
なんと、供もつけずに一人で町に下りているという。
呆気に取られると同時に、何か、ことりと心が動いた。
興味に近いものだった。
しばらく信用のおける部下に監視するように命じ、邪魔する事をしなかった。
物慣れた様子で町を出歩き、孤児院に入り浸っていると聞き、何度か、自分の目で確かめもした。
本当に王妃は町娘になりきり、露店で食べ歩きを平然と行い、子供たちと泥をくっつけて遊んでいた。
とてもこの国の王妃に見えないだろう姿。
それでも、何処かお忍びの貴族という風情が抜け切れてはいないため、時々、手癖の悪い輩に目をつけられたりしているのを、気付かれる前に露払いしてやった。
そうまでして町へ下りる事を止めさせなかったのはどうしてか。
時々、届く手紙を大事そうに読み返し、決まって夜にテラスで一人泣いている姿も知っていた。
隣り合った寝室の窓からぼんやりとそれを眺める。
失った恋人の事でも思って泣いているのだろうか。
そう考えると、自然とその先の思考が止まってしまうのは何故なのか。
いつしか自分に問うようになり、深く考えていなかった答えを長い時間をかけて導き出した。
それは正直言って、困惑以外の何者でもなかったが。
そして、その日がやって来た。
政務の合間に王妃の様子を見に来た王は、噴水の端に腰かけて、泣き続ける王妃を見つけた。
思わず声をかけてしまった事に、自分自身驚く。
イリーシャは泣き顔のまま振り向いて、変装した王をきょとんと見つめ返す。
どうやら正体に気付く様子は無い。それを少し残念に思いながら、どうして泣くのかと追及すると、イリーシャは淡く微笑んだ。
「ただの下準備ですわ」
「…下準備?」
「泣くと気持ちがすっきりしますの。それで明日からも頑張ろうっていう気になるのです」
陰鬱とは程遠いあっけらかんとした答えが返ってきて、面食らう。
「心配してくださってありがとうございます。もう大丈夫ですわ。
何だか色々と自分の甘さに落ち込んでいましたの」
「…よければ話を聞きますが。人に話すだけで気持ちは軽くなると」
何故、自分は続きを促しているのだろう。
そう思いながらも、このまま終わってしまいたくない気持ちは本物で、王はイリーシャを見ないようにして言葉を次いだ。
そして、ちらりと窺った町娘風のイリーシャ。
彼女は顔一杯に嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
それを見て、衝撃に一瞬、意識が白くなる。
「わたくし、恋愛をした事がありませんの」
また、予想外の答え。
思わず顔を上げてしまった。
「おそらく、一生経験しない感情じゃないかと思いますわ。不要だと思っておりましたし。
したくないと願えばその通りになるものだとも思っておりましたの」
何処か遠い所を見通すように、視線を宙に放って、彼女はぽつぽつと続けた。
「最近、わたくしの一番の親友が結婚しまして、しかもそれが恋愛結婚だったものですから、羨ましくなってしまったのでしょうね。
無理だとわかっておりましたのに、心のどこかで少しだけ願ってもいたのですわ。それが悪かったのでしょう。
わたくし、夫に初めての気持ちを向けてしまったようなのです」
「…」
「これが恋と呼ぶ感情なのだと気づいたのはこの数日の事なのですけれど。
わたくしの夫はわたくしと義務で結ばれた方。お互いの心など必要はありませんでしたのに」
聞き終わった時にはまたもや頭の中が白く惚けていた。
夢でも見ているのではないかと思う。
これは本当にあの王妃なのかとも疑う。
どれも本気で考えたわけではなかったが、それくらい混乱が込み上げていた。
「お話を聞いてくださってありがとう。確かに気持ちが軽くなりましたわ」
気がついた時には彼女は去ろうとしていた。
「待って」
身体は嘘をつかなかった。
本能が咄嗟に彼女をつかまえる。
首を傾げて見上げてくる彼女はあどけなくも、やはり可愛らしい。
何か言わなければと焦っても、言うべき言葉はまだかたちになっていなかった。
「何か、ありまして?」
「先ほどの話は全て、本当ですか?」
「嘘を申し上げたつもりはありませんけれど」
「…だったら何故気付かない」
恋する相手が目の前にいるのに気付かないなんて有りだろうか。
やはり彼女は何か勘違いをしているのではないか。
どう考えてもイリーシャが自分に恋をする要因が見当たらないのだからそれも当然だ。
「今日、話した事はあなたの夫に告げないのですか?」
「? そうですわね、話すつもりはありませんわ」
あっさりと肯定され、じわりと苛立ちが滲んだ。
「夫はわたくしに無関心ですの。ですから、わたくしの気持ちなど迷惑でしょう」
そうだ。自分は彼女に何もしていない。
全てを拒否し、無関心を貫いた。
なのに、どうして彼女は彼を特別と認めたというのだろう。
考えられる可能性としては、あとは容姿だろうか。
容姿が彼女好みだったからかもしれない。
それでも彼女は恋する事ができた。
きっとそれほど寂しかったのだろう。
そして、彼女は一人でここにいる。
孤児院で見せたあの弾けるような笑顔はきっと城の中では失われているに違いない。
そうさせたのは自分だ。
ようやく後悔という気持ちが溢れてきた。
***
何故、何故、何故。
どうしてこんな事に。
イリーシャは慌てふためく胸を押さえて、初めて通された王の私室に置かれた長椅子に腰かけた。
あれから王は誤解に近い感情をイリーシャに向けていた事、イリーシャに対する態度や今までずっと一人にさせた事など、何度も謝罪の言葉を口にした。
あまりにも今までの態度と違いすぎる王の姿にイリーシャは呆気に取られ、嬉しさよりも困り果てるばかりだった。
まともな反応を返せないまま、連れ立って城に戻り、また晩餐の席を同じくし、最終的に侍女へどう言い含めたのか、王の私室に辿り着く事態に陥っている。
何かの罠ではないかと思う。
何かの罠であればいいと思う。
よくわからないが、王がイリーシャに向ける強い感情に、イリーシャは眉をひそめた。
あれはあまり良くないんじゃないかしら、と思う。
愛情ではないだろう。思えば思い返されると考えるほどイリーシャは夢見がちな王族ではない。
憐憫? 罪悪感? 責任感?
せめて友情に変われば良いのにと思う。
そうすれば国にとって良い方向へ進むだろうに。
「待たせたな」
そう言って、王が姿を見せた時も、イリーシャはまだどうしたら良いか答えが出ていなかった。
「お、お仕事お疲れ様でした」
「あぁ」
そう言って、王は嬉しそうな顔をする。
そんな子供みたいな笑顔を見たら、イリーシャは何も言えなくなった。
「どうした?」
これはもう率直に訊くべきだろうか。
長椅子に隣り合って座った王を思い切って見つめる。
「…陛下」
「ロゼルと呼んでくれ」
「ろぜ、る、さま?」
「ロゼルでいい」
ロゼル、と口にすれば、また王の顔がほころぶ。
何故か逃げ出したくなるような熱が顔に昇ってくるのを感じ、イリーシャは居心地悪くなった。
「あの、お聞きしたい事があるのです」
「何だ?」
イリーシャは意を決して口を開いた。
「ロゼルはわたくしに子を生んで欲しいのですか?」
そんな質問が来るとは予測できていなかったようで、王は目を丸くする。
突然の態度の変化はもしかしたら世継ぎを望まれての事なのかもしれない。
最終的にそう結論を出したイリーシャは俯きがちに続ける。
「わたくしはあなたの妃です。ですから、わたくしに気を遣う必要は無い事を申し上げたくて。
ロゼルが望まれるのでしたら、役目は果たしますから」
「イリーシャ」
低く呼ばれた声は険しくなっていた。
反射的に身を竦めた彼女に、一つ溜息をつく音が聞こえ、やがて温かなものが膝の上の手を包んだ。
引かれるように顔を上げると、真剣な顔をした王と目が合う。
「あなたにすぐ信じてもらえるとは思っていない。
確かに私たちの婚姻は政略的なものだ。だが、あなたを愛しく思う事を禁じられているわけではない」
包まれた片手が持ち上げられ、唇が寄せられる。
「愚かにも長い間、目を背けていた。
だが、今は自分の目を通してあなたを見ている。
あなたが愛しい」
そこで王は苦笑して、「あなたは違うかもしれないが」と零す。
「あなたは私に恋をしたと言ったが、それこそあなたの気の迷いだろう。
これほどの仕打ちをされて、あなたが私を好く筈が無い」
夢のような展開に茫然自失していたイリーシャは付け加えられた言葉に大きく目を見開く。
「いいえ! わたくしはロゼルが、ロゼルの事が」
「あなたは一人で国を離れられたのだ。寂しかったのだろう?」
「わたくしの気持ちを決め付けないでくださいませ!
わたくしは、民に向けたあなたの横顔がとても誇らしげで、深い情愛が見て取れて、とても―――素敵だと思ったのです。
確かにまだ多くを知らないかもしれませんが、この城を見ても町を見てもあなたが手を尽くしてきた足跡がわかるのですから」
「…」
黙ってしまった王の手を逆に握り締めて力説していたイリーシャはその場の空気がじわりと熱を帯びた事に気付かない。
「わたくしはロゼルの事がきちんと好きです」
口に出してみると、それはすとんと胸に落ち着く。
柔らかな微笑みが口許に上った。
王は眩しいものを見るような目でイリーシャを見つめ、そっと引き寄せる。
抱き寄せられ、自分とは違う引き締まった体躯の温もりが伝わる。
唇が触れ合い、距離が零となる。
こうして政略から始まった婚姻は、蝶が羽化するように、温かな変化を遂げたのだった。