File.06:★1の感謝状
【記録者:久住 瑛一】
【記録日:20XX年 11月10日】
午後2時。 暦の上では立冬を過ぎ、東京にも本格的な木枯らしが吹き始めた11月上旬。 空は高く澄んでいるが、そこから降り注ぐ光には熱量が欠落している。 乾燥しきった冷たい風が、窓の隙間から容赦なく忍び込み、部屋の隅の埃と俺の荒んだ心をささくれ立たせる。
俺はカーディガンを2枚重ね着し、足元で唸りを上げるメインPCの排気口に、冷え切った爪先を押し付けていた。
「……寒い。アイ、PCの負荷を上げて排熱を増やせ」
「却下します。現在の室温はハードウェアにとって最適です。久住さんが服を着込めば済む話です」
冷ややかな声と共に、メインモニターの中央が淡く発光した。 黒い画面に浮かび上がったのは、相棒の『アイ』だ。 純白のボディスーツに身を包んだ彼女は、背景のデジタル空間に、ハラハラと舞い散る『金色の枯れ葉』のエフェクトを降らせていた。 彼女は空中でくるりと一回転し、舞い落ちるデジタルの葉を楽しそうに指先で弾く。 ただでさえ寒いのに、視覚的に「秋の終わり」を強調する嫌がらせとしか思えない。
「……なんだその背景は。季節感の押し売りか?」
「11月の定例アップデートです。……さて、久住さん」
アイが浮遊したまま、枯れ葉の一枚を握りつぶすような仕草をした。 カサリ、と乾いた電子音が響く。
「寒さと乾燥は人間の精神を脆くさせます。非常に興味深い、感情の『凍結と融解』を示すサンプルを発見しました」
アイが指先をスッと横に振るうと、一つのウィンドウが俺の目の前にスライドしてきた。 表示されたのは、世界最大手のECプラットフォーム『Omnis』の商品ページ。 商品は、初心者向けの『油絵スターターセット(木製イーゼル付き)』だ。
そこには、同じユーザーによる2つのレビューが時系列順に並んでいた。
【11月5日の投稿:★☆☆☆☆ 詐欺? 勝手に届きました】
【投稿者:社畜の極み】
『注文した覚えのない画材が届きました。 アカウント乗っ取りでしょうか? 私は毎日終電帰りの会社員です。 今週の三連休(文化の日)も返上で働いていました。 家に帰っても寝る時間すらろくにないのに、絵を描く暇も趣味もあるわけがない。 こんな巨大な箱が届いて、狭い玄関が塞がれて迷惑しています。 返品しようとしましたが、配送時に箱の角が少し潰れていたとかで「開封済み」扱いにされ拒否されました。 見るだけでイライラします。 金返せ。 最悪です』
文面から滲み出るのは、疲労と苛立ち、そしてやり場のない怒りだ。 世間が行楽シーズンを楽しんでいる間も、孤独に拍車をかけ続けてきた人間の、限界ギリギリの悲鳴が聞こえてくる。
「……なるほど。身に覚えのない請求。現代怪談の定番だな」
俺は鼻で笑い、タバコに火をつけた。 ライターの着火音が虚しく響く。 だが、アイは無言でウィンドウをスクロールさせる。 そこには、この激怒からわずか5日後、今朝更新されたばかりの『追記』が載っていた。
【11月10日の追記(評価変更):★★★★★ 命拾いしました】
『返品できず、捨てるのも粗大ゴミ代がかかって癪だったので、休日に気まぐれでキャンバスを開いてみました。 ……驚きました。 チューブから絵の具をパレットに出した瞬間、涙が止まらなくなったんです。 実は15年前、私は美大に行きたかった。 でも親にも教師にも「絵じゃ食えない」と猛反対されて、泣く泣く諦めました。 あの時、スケッチブックと一緒に夢も捨てたつもりでした。 でも、心のどこかでずっとくすぶっていたんです。 「いつか、また絵を描きたい」って。 大人になって、毎日ただ仕事に追われすぎていて……いつの間にか、そこにある『色』を『色』として認識できなくなっていたんです。 自分が、彩度のない世界で窒息しかけていたことに、初めて気づきました。 無心で絵を描いてる間だけ、深く息ができる気がします。 もしこの画材が届かなければ、私は今頃、寒さと疲労で判断力を失って、駅のホームからふらりと飛び降りていたかもしれません。 最高の買い物でした。ありがとうございました』
画面には、投稿主が描いたという一枚の絵の写真が添付されていた。
「……ほう」
俺は思わず身を乗り出した。 10年以上のブランクがあるのだろう。 筆使いは荒く、線も震えていて、技術的には錆びついているのが分かる。 だが、その構図の大胆さと、濁りのない色彩の配置は、明らかに「素人の落書き」のレベルを超えていた。
キャンバス一面に塗りたくられた色は、冬に向かう空のように冷たく、それでいて深海のように静かだ。 何層にも重ねられたグラデーションが、彼が秘めていた熱の強さを物語っている。 腕は鈍っても、「世界をどう見るか」という絵描きの目だけは、死んでいなかったのだ。
「……なるほどな。サクラ(やらせ)じゃない。こいつは『本物』だ」
俺は眉間の皺を緩め、煙を吐き出した。 激怒から感謝へ。 「金返せ」と罵っていた相手に、「命拾いした」と拝んでいる。 感情の振れ幅が大きいのは、それだけ中に眠っていた情熱が巨大だった証拠だ。
「はい。言語解析(センチメント分析)の結果、どちらの文章も、書き手の『本心』であることが証明されています」
アイが補足するように、画像の上に解析フレームを重ねた。 彼女の指先から、数値データがホログラムのように浮かび上がる。 青い光が、彼女の顔を照らす。
「画像解析の結果、筆の乱れを除外した『色彩構成の調和率』は、プロの画家の平均データと合致します。統計的に見ても、これは初心者のスコアではありません」
アイが満足そうに頷く。
「技術は錆びついても……色彩感覚だけは、高い数値を維持していたようです」
彼女は空中で一回転し、新たなコマンドを入力する。
「気になります。……時間を遡って、この『誤発注』の発生プロセスを、端末ログから逆探知してみましょう」
アイの両腕が広げられると、モニター画面いっぱいに無数のバイナリコードが滝のように流れ落ちた。 彼女はその情報の奔流の中に身を投じ、一人の疲れ切ったサラリーマンの「あの日」の記録を掘り起こしていく。
「対象のデバイスを特定。……これは興味深いですね」
数秒後、アイが指先で一つのタイムラインを摘み上げた。
【遡行解析:11月4日 午前3時15分】 《購入確定の瞬間》
「ログを確認します。対象を男性と推測します。購入操作が行われたのは、祝日明けの深夜3時15分。使用デバイスは本人のスマートフォンです。外部からのハッキングや、不正アクセスの痕跡はゼロ。……つまり、彼自身の指で購入ボタンを押しています」
「本人が買ったのか? じゃあ『覚えがない』ってのは嘘か?」
「いいえ。当時の彼の意識レベルは『微小睡眠』……つまり、半分寝ている状態でした。ここで重要なのは、このスマホの環境設定です」
アイがアプリリストを表示する。 そこには一般的なSNSやゲームに混じって、『Biz-Talk(ビズ・トーク/業務用チャット)』や『Company-Mail』といったアイコンが配置されていた。 さらに、それらのアプリには「常時通知ON」「優先順位:最高」のタグ付けがなされている。
「……うわ。個人のスマホに業務アプリを強制インストールさせてるのか。ブラックだな」
俺は顔をしかめた。 BYOD(Bring Your Own Device)。 聞こえはいいが、要するに「お前の私物を会社の道具として使わせろ」という搾取だ。 プライベートの境界線がない。 これでは、寝室の枕元に常に上司が立っているようなものだ。
「その『境界線のなさ』こそが、今回のトリガーです」
アイがタイムライン上の2つのログを連結させた。 彼女の指先が、赤いラインと青いラインを結ぶ。
【11月4日 午前3時10分:イベントログ】
3:10:05 [通知受信] アプリ:Biz-Talk
3:10:12 [生体反応] Bio-Sync検知:心拍数が平常時60から140へ急上昇(警告レベル:ストレス過多)
3:10:15 [アプリ起動] Biz-Talk(フォアグラウンド表示:45秒)
「見てください。深夜3時に、枕元のスマホへ容赦なく届いた業務通知。バイブレーションの振動で叩き起こされ、条件反射でアプリを開いた瞬間……彼の心拍数は『全力疾走レベル』まで跳ね上がっています」
アイがグラフの赤いピークを指差す。 その鋭角な波形は、彼が感じた恐怖と動悸をそのまま可視化したものだ。
「内容は……推測ですが、翌朝のプレゼンに関する叱責か、トラブル報告でしょう。深夜3時に送ってくる時点で、まともな神経ではありません」
「……ああ。胃が痛くなる話だ」
俺は自分の胃のあたりをさすった。 かつて記者だった頃、深夜の呼び出し音に怯えた記憶が蘇る。
「そして、ここからです。パニックになり、過呼吸気味になった彼の脳は、防衛本能として『逃げ場』を探しました。業務アプリを閉じ、無意識に指が動いた先が……」
【11月4日 午前3時12分:イベントログ】
3:12:00 [アプリ切り替え] Omnisショッピング
3:12:30 [生体反応] 心拍数の低下傾向を確認(鎮静効果)
3:15:10 [購入確定] 油絵スターターセット
「メールを見て心臓が破裂しそうになった彼は、緊急避難先として通販サイトを開きました。そして、無数にある商品の中で……この『画材』の画像を見ている間だけ、心拍数がストンと落ちているんです」
アイがグラフの「谷」の部分を拡大する。 140まで上がった心拍数が、画材セットを見ている40秒間だけ、穏やかな70台まで下がっている。
「脳科学的な防衛本能です。彼は意識的に『絵が描きたい』と考えて選んだのではありません。 高騰した心拍数を下げるための『鎮静剤』として、本能的にこの商品の画像に安らぎを見出し……そして、意識が混濁する中で、すがるように購入ボタンを押したと推測されます」
「……へえ。ロジカルな衝動買いだな」
俺は感心したようにタバコの灰を落とした。 理性が「無駄だ、金がない、時間がない、明日の仕事はどうする」と切り捨てたものを、無意識が「これがないと死ぬ」と判断して、強引にカゴに放り込んだのだ。
「結論が出ました。久住さん、彼のアカウントは乗っ取られていませんでした。乗っ取っていたのは……」
アイが満足そうにウィンドウを閉じる。 画面には再び、彼が自分で書いた『15年前、美大に行きたかった』という告白のレビューが輝いている。
「彼自身が、社会生活のために封印していた『インナーチャイルド(かつての夢)』です」
「……面白いですね」
アイは宙に浮いたまま、彼が描いた『絵』をじっと見つめていた。 彼女のヘアピンが、規則正しく、穏やかに明滅している。
「人間にとっての『無駄遣い』や『誤操作』とは……限界を迎えた脳《CPU》が、システムの強制終了を防ぐために実行した、緊急の『自己防衛プログラム』である場合がある」
彼女はゆっくりと頷き、俺の方を向いた。 その表情には、以前のような「理解不能なエラー」に対する困惑はない。 むしろ、複雑なシステムの裏技を発見したハッカーのような、知的な興奮が宿っていた。
「非効率で、論理的ではありませんが……生存戦略としては、極めて優秀な機能だと評価します」
「……学習したか」
「はい。アップデート完了です」
アイの静かな電子音が響く。 彼女はモニターの中でふわりと一回転し、再びデジタルの枯れ葉を降らせた。
「……ああ。俺たちの脳みそってのは、持ち主が思ってるより、ずっとお節介で優秀らしい」
俺は吸い殻を押し付け、ぬるくなったコーヒーを飲み干した。 その5,980円の絵具セットは、どんな名医のカウンセリングよりも確実に、彼の魂を延命させたのだ。
「さて、久住さん。記事のタイトルは?」
俺は新しい冷却シートを額に貼り付けると、迷わずキーボードを叩いた。
『【深夜の怪談】検証! 通販サイトに潜む「幸福な誤作動」! あなたの深層心理が勝手に選ぶラッキーアイテムとは?』
「……今回は、あまり怖くない怪談にしてやるよ」
「珍しいですね。久住さんがハッピーエンドを書くなんて」
「……足元のPCが少しだけ暖かく感じるせいだろ」
窓の外では、まだ冷たい木枯らしが吹いている。 俺たちの仕事は「嘘」をつくことだ。 だが、その嘘が誰かの大切な『色』を守れるのなら、三流ライターのペン先も、たまには悪くない。
(File.06 了)




