File.04:笑顔の閾値(いきち)
【記録者:久住 瑛一】
【記録日:20XX年 10月1日】
午後3時。 乾いた秋の風が、ビルの隙間を縫って吹き抜けていく。 街には、来春の就職内定式を終えたばかりの学生や、新たな就活戦線に挑むリクルートスーツ姿の若者が溢れている。 彼らのヒールの音が、カツカツとアスファルトに響く。
事務所の中も、今日は湿気がない。 その代わり、神経を逆撫でするような『光』と『音』が、俺の偏頭痛を悪化させていた。
カシャッ! ヒュイーン……カシャッ!
「……おい、なんだこれ。壊れてるのか?」
俺は手元のコンパクトデジタルカメラを睨みつけた。 リサイクルショップの青いコンテナから、「動作未確認:500円」で救出してきた12年前のモデルだ。 シルバーの塗装は剥げ、レンズ周りには手垢がこびりついている。
電源を入れた途端、こいつは勝手にフラッシュを焚き始めた。 俺がシャッターボタンに触れてもいないのに、カシャ、カシャ、とリズムよく俺の顔を盗撮し続けている。 強烈なストロボの光が網膜を焼き、視界にチカチカとした残像を残す。
「……眩しいです。ストロボの発光を停止してください」
メインモニターが起動し、不機嫌そうな声が響いた。 画面の中央に、相棒の『アイ』が浮かび上がる。 純白のボディスーツに身を包んだ彼女は、眩しそうに目を細め、白く細い指で顔を覆うモーションをした。 指の隙間から、緑色の瞳がこちらを覗いている。
「俺がやってるんじゃない。勝手にシャッターが切られてるんだよ。……やっぱりジャンク品か? 完全にイカれてやがる」
カシャッ! またか…。 俺は悪態をつきながら、暴走するカメラをデスクに置いた。 レンズがジジジと音を立てて伸縮し、まるで生物の目のように俺を追尾してくる。
アイは指の隙間からこちらを睨み、空中にウィンドウをスワイプさせた。
「いいえ。故障ではありません。仕様です」
「はあ? 仕様だ?」
「その機種には『笑顔自動認識機能』が搭載されています。被写体の笑顔を検知すると、自動的に撮影を行うモードがオンになっています」
「おいおい。俺は今、どう見ても不機嫌な顔をしてるだろ」
俺は眉間にシワを寄せ、頬杖をついた。徹夜続きで目は完全に据わり、口角は不機嫌にへの字に曲がっている。笑顔の対極にある。
「いいえ。解析によれば、久住さんの口角は疲労による痙攣で右側だけ15度引きつっています。この旧式エンジンの判定基準では、それが『はにかみ笑い』として処理されているようです」
「……余計なお世話だ」
俺は舌打ちをして、カメラの底面にあるSDカードスロットの蓋を開けた。 そこには、前の持ち主が忘れていったであろうSDカードが、そのまま刺さっていた。
「アイ。中身をスキャンしろ。……復元じゃない、ただの読み込みだ。消し忘れたデータがあるかもしれん」
「了解。外部ストレージとしてマウントします」
アイが空中で指を振るうと、彼女の周囲に無数のサムネイル画像が展開された。 彼女のボディスーツを走る青いラインが、データの読み込みに合わせて静かに脈打っている。
「……随分と、几帳面な持ち主だな」
画像データは数千枚。被写体はすべて同一人物。黒髪を後ろで束ねた、若い女性だ。
アイが画像を時系列順に並べ替える。 撮影日は、今から十二年前まで遡る。最初の数百枚は、公園やカフェで撮られた私服のスナップだった。あどけなさが残る、楽しげな日常の記録だ。
変化が起きたのは、それから2年後――今から10年前の日付だ。
白いブラウスに、黒いジャケット。就職活動が始まったのだろう、リクルートスーツ姿の写真が画面を埋め尽くし始める。 少し緊張しながらも、口角をきゅっと上げた模範的な笑顔。『採用面接、頑張るぞ』というキャプションがつきそうな、健気な記録だ。
だが、写真の日付が進むにつれ、雰囲気が変わり始めた。
「……撮影場所の照度が低下しています」
アイが指摘する通り、背景は屋外から、薄暗い室内に固定された。 部屋の中は荒れ始めていた。 背景に積み上がるコンビニ弁当の空き容器。 脱ぎ捨てられた服。 撮影時刻のタイムスタンプは、深夜2時、3時といった不健康な時間帯ばかりを示している。
それなのに。 写真の中の彼女は、『笑って』いた。
カシャ。 カシャ。 カシャ。
手元のデジカメが、画面の中の彼女の笑顔にも反応して、空シャッターを切り始めた。 乾いた電子音が、不気味なリズムを刻む。
「……おい、これ」
俺は思わず身を乗り出した。 彼女の顔色は土気色で、目の下には酷い隈ができている。髪もボサボサだ。 明らかに精神的に参っている。 目なんて完全に死んでいる。 だというのに、口元だけが、まるでプラスチックの作り物のように、完璧な三日月形に吊り上がっているのだ。
「感情データと表情筋の相関が乖離しています」
アイが浮遊したまま、一枚の画像をピックアップし、顔の上に解析フレームを重ねる。
「瞳孔の開き、涙腺の潤み具合から推測される感情は『絶望』および『極度の疲労』。しかし、口輪筋と大頬骨筋の収縮率は『幸福度100%』を示しています」
「薬でもやってるのか? ラリって笑いが止まらないとか」
「いいえ。……久住さん、最後のセクタにある画像を見てください」
アイが最新の日付のフォルダを開いた瞬間。
――ビッ。
微かな警告音と共に、彼女の様子が変わった。 透き通るような白髪の毛先と、スーツを走る光のラインが、穏やかな青色から、システムの警告を示す『赤』へと静かに変化した。
「……バイタルサイン、危険域まで低下」
赤く発光するアイが、深刻な顔で画像を拡大する。 そこに写っていたのは、異様な光景だった。
彼女は、机に突っ伏していた。 あるいは、床に倒れ込んでいるように見える。 アングルからして、カメラをミニ三脚か何かに固定し、自分に向けていたのだろう。
彼女は目を閉じている。 意識がないように見える。 だが、その口元だけは――依然として、完璧に笑っていた。
まるで、出来の悪い福笑いを見せられているようだった。 閉じた瞼の安らかな線と、無理やり吊り上げられた口角の三日月。 その二つのパーツが、同じ顔の上で完全に矛盾している。 皮膚が引きつる限界の、ピーンという音が聞こえてきそうなほど張り詰めた頬の筋肉。 生身の人間が浮かべていい表情じゃない。
「……死んでるのか?」
「いいえ。……睡眠、もしくは過労による失神状態です」
「じゃあ、なんで笑ったままなんだよ。寝たら顔の筋肉も緩むだろ」
アイは無言で、画像の口元を最大まで拡大した。 赤い光を帯びた指先で、口元の部分をマークする。 粗い画素の隙間に、キラリと光る透明なラインが見えた。
「……物体検知。シリコン製形状記憶マウスピース。市販名『スマイル・キーパー』です」
「なんだそりゃ」
「口角を物理的に持ち上げ、理想的な笑顔の形を筋肉に記憶させるための美容・矯正器具です」
俺は息を呑んだ。 つまり、こういうことか。
就職活動で「もっといい笑顔を」「明るい表情を」と求められ、そのたびに自分を否定されてきたのだろう。
終わりのない不採用通知に心を削られ、追い詰められた彼女は、寝ている間でさえも「笑顔の練習」をしなければという強迫観念に囚われた。
そうして、あの器具を口に嵌めたまま生活するようになってしまったのかもしれない。
そして深夜、疲労の限界を超えて気絶するように眠ってしまった。 意識は落ちた。 心も限界だった。 けれど、口に嵌められた器具だけが、彼女の顔を無理やり「笑顔」の形に固定し続けた。
その結果――。 高感度の笑顔自動認識機能がオンになっていたカメラは、目の前にある「完璧な笑顔」を検知し続けたのだ。
ヒュイーン……カシャッ!
ヒュイーン……カシャッ!
倒れて動かない彼女に向けて、機械が延々とフラッシュを焚き続ける。 彼女がどれだけ泣きたくても、どれだけ苦しくても、このカメラにとって彼女は「最高に幸せな被写体」でしかなかった。
「……クソったれな機能だな」
俺は吐き捨てるように言い、SDカードをカメラから引き抜こうとした。 だが、指先がプラスチックの冷たい縁に触れた瞬間、動きを止めた。
脳裏に、あの歪な笑顔が焼き付いて離れない。 真面目すぎた人間が、社会という規格に合わせようとして壊れてしまった姿。 そのあまりに不器用で、痛々しい努力の痕跡を、ただのデータとして消去することに、ふと、躊躇いを覚えたのかもしれない。
「……待て。消すのはまだ早い」
俺は手を引っ込め、画面の中のアイを睨んだ。
「アイ。この持ち主の『現在』を追えるか?」
「……目的は?」
アイの赤い警告色が、ゆっくりと点滅する。彼女は首をかしげた。
「このSDカードのデータ更新は10年前の5月で途絶えています。カメラは売却され、所有権は放棄されました。今の彼女を特定する合理的な理由は見当たりません」
「理由なんてねえよ。……ただ、こいつがまだ生きて笑ってるか、それとも本当の意味で死んじまったのか。知っておきたいだけだ」
もし彼女が死んでいたら。このSDカードは遺品になる。俺が弔ってやる必要がある。だが、もし生きているなら――。
「……了解。検索クエリ、作成。全画像データの顔認証特徴点を抽出。ネット上の公開画像と照合します」
アイが両手を広げると、モニター画面いっぱいに、SDカード内の数千枚の「笑顔」が粒子となって散らばった。彼女はその光の粒を空中でかき集め、検索バーへと放り込む。
「検索対象:SNS、ブログ、動画共有サイト……。ノイズ除去。類似度判定、閾値85%……」
青いプログレスバーが伸びていく。俺は祈るような気持ちで、ぬるくなったコーヒーをあおった。
「……ヒットしました」
数秒後、アイが指先で一つの光を摘み上げた。
「写真投稿型SNS『Photo-Log』に、当該人物と思われる古いアカウントを発見しました」
「でかした。……で、その後の足取りは?」
「……いえ。様子が変です」
アイが困惑したように眉を寄せる。
表示されたのは、SDカードの初期データと同じ、大学一、二年の頃と思われる楽しげな記録だ。 カフェで友人とパンケーキを囲んだり、公園でサークル仲間とはしゃいだり。そこには、無理をしていない自然な笑顔がある。
「ですが、就職活動が始まる時期を境に、投稿データが全て削除されています。それ以降、このアカウントへのログイン形跡はありません」
「……辛い記憶ごと、消したのか」
俺は、唐突に日付が途絶えたタイムラインを見つめた。 華やかなキャンパスライフの記録のあと、そこには10年分の空白が広がっている。
うまくいかなかった自分。社会に認められなかった自分。そんな惨めな記録を残したくなくて、彼女はデジタルな自分を殺したのだ。
「アイ。彼女がアカウントを放棄する直前……最後に何か、書き込もうとした痕跡はないか? 下書きでも、消去されたログでもいい」
「……サーバーの深層ログを検索します。……発見しました」
アイが空中で指を弾く。
投稿され、わずか数分で削除された一枚の画像が、ノイズの海から浮かび上がった。
映っていたのは、新幹線の車窓だ。雨に濡れた東京のビル群が、窓ガラスの向こうへ流れていく。手前には、あのデジカメではなく、スマホのレンズ越しに撮られたであろう缶チューハイの写真。
そして、写真の隅に小さく添えられた文字。
『さよなら東京。……もう、頑張らなくていいよね』
「……投稿日は、SDカードの最終更新日から約10ヶ月後。翌年の3月です」
アイの髪とスーツの色が、警告の赤から、ゆっくりと穏やかな青色へと戻っていく。
「彼女は5月に限界を迎えて撮影を止め……その年度末、大学卒業と共に故郷へ帰る道を選んだと思われます。カメラは、その際の身辺整理で手放されたのでしょう」
「そうか。……生きててくれたんだな」
俺は深く息を吐き出し、椅子の背もたれに身体を預けた。逃げることは敗北じゃない。特に、死ぬまで笑えと強要するような場所からは。
「……追加報告です。照合の結果、別名義のアカウントがヒットしました」
アイの声が弾む。
「現在、彼女はこちらのアカウントで活動しているようです。表示しますか?」
アイが静かに問う。
「ああ。見せてくれ」
新しいウィンドウが開く。最新の投稿は、昨日のものだった。そこには、もうスーツ姿の彼女はいなかった。
背景は、どこかの地方だろうか。広い空と、刈り入れが終わった静かな田園風景。 ジャージ姿にエプロンをつけた彼女が、泥だらけの手で、採れたての大きな大根を抱えている。
化粧っ気はない。髪も後ろで雑に縛っただけだ。かつての張り付いたような笑顔とは違う。
30代になり、目尻には笑いじわが刻まれている。就活の証明写真なら一発で不合格になるような、崩れた顔。 けれど、それはどうしようもなく『本物』の笑顔だった。
「……顔貌分析、実行」
アイがその写真に解析フレームを重ねる。
「口角の上昇角度、左右に差あり。形状記憶マウスピースによる矯正効果は消失しています。幾何学的な『美しさ』のスコアは、東京時代のデータと比較して40%低下」
アイは淡々と数値を読み上げるが、その声にはどこか温かい響きが含まれていた。彼女は、モニター越しにその泥だらけの笑顔を指でなぞる。
「ですが……生体エネルギー反応は、測定不能なほど上昇しています。……不思議ですね。形は崩れているのに、こちらの笑顔の方が自然に見えます」
「当たり前だ。心で笑ってるんだからな」
俺は手元のデジカメを見た。電源は入ったままだが、画面の中の彼女を見ても、もうシャッターは切れなかった。この機械の定義する「笑顔」と、人間が生きるための「笑顔」は、決定的に違うのだ。
「……よかった」
俺はSDカードを抜き取り、フォーマット(初期化)のコマンドを入力した。画面上のプログレスバーが進み、数千枚の「死んだ笑顔」が電子の海に溶けて消えていく。彼女の苦しみは、もうどこにも残らない。
「アイ。こいつの『笑顔認識機能』を永久にオフにして、設定をロックしろ」
「了解。……設定を変更しました」
「よし」
俺は空っぽになったSDカードをカメラに戻し、電源を切った。 そのまま、机の引き出しを開け、絡まったケーブルや他のガラクタが詰まった場所へ、無造作に放り込む。
もう二度と、誰かに無理な笑顔を強いることがないように。
「人間は、形を整えるために心を削ることもあれば……形を崩すことで、心を取り戻すこともあるのですね」
「ああ。生きるってのは、そういう泥臭いもんだよ」
俺は引き出しを閉じた。機能を封じられたカメラは、もう勝手に誰かを追うことはない。暗闇の中で、それは静かに眠った。
窓の外では、また秋の風が吹いている。どこかの空の下で、彼女が今日も不恰好に笑っていることを願いながら、俺は何も書かれていないエディタをそっと閉じた。
(File.04 了)




