File.03:存在しない休日
【記録者:久住 瑛一】
【記録日:20XX年 9月24日】
午後3時。 台風一過の突き抜けるような秋晴れ。 窓の外からは、観光客で賑わう新宿の雑踏や、楽しげな笑い声が微かに漏れ聞こえてくる。 だが、この事務所の中だけは、湿気と古い紙の匂いが澱み、世間の幸福な空気から完全に断絶されていた。
俺はカフェインの切れかけた頭を抱え、デスクに突っ伏していた。 額の冷却シートはすっかり乾き、ただのぬるい布になっていた。 胃の中が空っぽでキリキリと痛むが、食欲はない。 頬をデスクの冷たい天板に押し付けたまま、ぼんやりとモニターを見上げる。
「……久住さん。本日は『秋分の日』の振替休日。世間一般で言うところの『シルバーウィーク』最終日です」
メインモニターの中、相棒の『アイ』は重力のないデジタル空間で、膝を抱えて宙に浮いていた。 純白のボディスーツに包まれた肢体。 その周囲には、無数の地図データや座標グリッドが、プラネタリウムの星々のように展開され、ゆっくりと回転している。
「だから何だ。俺たちには関係ないだろ」
俺は乾いたシートを剥がしてゴミ箱に捨てると、椅子の背もたれに体重を預けた。 ギシッ、と蝶番が悲鳴を上げ、天井のシミが視界に入る。
「フリーライターに連休なんて概念はない。休んだらその分、来月の家賃が払えなくなるだけだ」
「非効率です。都内の幸福度指数は上昇傾向にあるのに、久住さんのバイタルだけが低下しています。労働基準法に準拠し、休息の取得を推奨します」
アイが真顔で、空中に『有給休暇申請書』のフォーマットをスワイプして表示させる。
「誰に出すんだよ、それ」
「……理解不能です」
アイは申請書のウィンドウを消去せず、そのまま抱えるようにして首をかしげた。 左前髪のヘアピンが、計算の不整合を示すようにチカチカと不規則に明滅する。
「人間は、なぜ維持コスト(生活費)のために、本体の寿命を削るのですか? ……非効率的なサイクルです」
「それが『生きる』ってことだよ」
俺は天井から視線を外し、窓の外に広がる憎らしいほどの青空を睨んだ。 雲ひとつない秋晴れ。どこかの家族連れが笑っている風景。
「……ああ、どっか遠くに行きてぇな」
俺は重たい瞼を閉じかけたまま、うわ言のように呟いた。 この薄暗い部屋と、締め切りと、請求書から一番遠い場所へ。
「逃避願望、検知しました。……では、代替案を提示します」
アイが指をパチンと弾く。 申請書が光の粒子となって霧散し、代わりに毒々しい極彩色の幾何学模様が、画面いっぱいに展開された。
「『VR睡眠導入プログラム』です」
「……なんだその色は」
「視覚野に特定のパルス信号を照射することで、脳に『ハワイのビーチで8時間寝た』という偽の記憶を植え付けます。所要時間はわずか15分。コストは電気代のみ」
画面が激しく明滅し、見ているだけで三半規管がおかしくなりそうだ。
「……お前、俺の脳みそを焼き切る気か? それは休息じゃなくて洗脳だ」
「効果は同じです。リフレッシュ係数は98%をマークしています」
アイは真顔で、その怪しい光を俺の顔に近づけるようにウィンドウを拡大した。 悪気がないのが一番タチが悪い。
「却下だ。……俺が欲しいのは偽物の記憶じゃなくて、本物の……」
そこまで言って、俺は言葉を飲み込んだ。 本物の安らぎ? そんなものは5年前に消えてしまった。 俺はふぅ、と息を吐き、手でシッシッとその極彩色のウィンドウを追い払った。
「……まあいい。で、何か見つけたのか? ただ『行楽日和』の嫌味を言うためだけに、俺の思考に割り込んだわけじゃないんだろ」
俺はため息をつき、軋む身体を起こした。 アイは少し不満そうに「洗脳プログラム」を閉じると、キリッと表情を引き締めた。
「……はい。久住さんが現実逃避を望むなら、うってつけのデータがあります。……ある意味、究極の『バカンス』を楽しんでいる二人の記録です」
アイが空中に浮かぶグリッドの一つを、人差し指で手前に引き寄せた。 ウィンドウが拡大され、見慣れた地図アプリの『ストリート・モード』のキャプチャ画像が表示される。
「ある行方不明者捜索掲示板の、5年前の『過去ログ』から発掘しました。『失踪した婚約者が、地図アプリに写っているのを見つけた』……そう書き込まれていましたが、誰にも信じられず、スレッドごとサーバーの奥底に沈んでいました」
画面には、とある地方の海沿いの道路が映っている。 のどかな風景だ。 防波堤があり、その向こうに海が広がっている。 そして、防波堤沿いの歩道に、一組の男女が歩いているのが映っていた。
「画像認識アルゴリズムを実行。この男性です」
アイが両手を広げるような仕草をすると、画像がスムーズにズームされる。 顔には自動でプライバシー保護のモザイク処理がかかっているが、特徴的なリュックサックを背負っている。
「当時の書き込みによれば、このリュックのキーホルダーは彼女の手作りだそうです。だから、彼に間違いないと」
「なるほどな。失踪したと思ったら、別の女とよろしくやってたわけか。よくある話だ」
俺はぬるくなったコーヒーを流し込み、鼻で笑った。
「駆け落ちか、蒸発か。どちらにせよ事件性は薄い。……俺たちが首を突っ込むネタじゃない」
「私も初期推論では『不貞行為による失踪』として処理しようとしました」
アイは表情を変えず、淡々と告げる。 モニターの光が、彼女の顔の半分を青く照らしている。
「しかし、メタデータの日付を確認してください。矛盾が発生しています」
赤い枠線が、画面の左下を囲む。
【撮影日:20XX年 5月3日】
「5月3日。……彼が失踪届を出される前日です」
「じゃあ、ただの旅行だろ」
「いいえ。警察が公開している捜査資料、および彼のSNS、スマートウォッチのログによれば……」
アイが指を振るうと、複数のデータウィンドウが滝のように流れ落ちてきた。
「この日、彼は都内の自宅で高熱を出して寝込んでいました」
「……あ?」
「スマートウォッチの心拍数データ、位置情報、看病していた婚約者が撮影した『お粥』の写真。すべてのログが、彼が『都内の部屋から一歩も出ていない』ことを証明しています」
俺は眉をひそめ、画面の中の男を見た。 都内の部屋で高熱にうなされていたはずの男。 だが画面の中では、初夏の陽気の中、半袖で、健康そうに、見知らぬ女性の隣を歩いている。
「……そっくりさんか?」
「確率的には最も高い仮説です。しかし、5年前の掲示板で、婚約者の女性は『絶対に彼だ』と譲りませんでした。……そして、もう一つ。説明できないエラーがあります」
アイが浮遊したまま、体を反転させた。 彼女の動きに合わせて視点が移動する。
「地図アプリの撮影車は、一定速度で移動しながら連続撮影を行います。座標を進めてみましょう」
画面が切り替わる。 撮影車が少し進み、歩いている二人を追い越した地点。 カメラが360度回転し、二人の背中が映る……はずだった。
「……対象消失」
その直前、アイの指先がピタリと止まり、彼女の映像にザザッと微かなノイズが走った。
――ビッ。
警告音と共に、アイの姿に変化が生じた。 透き通るような白髪の毛先と、ボディスーツを走る光のライン――。 その青かったグラデーションが、論理的な矛盾を検知し、警告色を示す『赤』へと静かに変化した。 空気が一瞬で張り詰めた。
「……消失しました。隠れる場所などない、一本道です」
赤く光るアイが、困惑したように画像を指差す。 防波堤の歩道。 さっきまで二人が歩いていた場所には、誰もいなかった。 あるのは、白く乾いたコンクリートと、誰もいない海だけ。
「前後のフレームを全て解析しましたが、二人が映っているのは『この一点の座標だけ』なんです。その前も、その後も、道路には誰も存在しません」
まるで、その瞬間にだけ、空から降ってきたかのように。 あるいは、その瞬間だけ、別のレイヤーのデータが重なったかのように。 アイのスーツを走る赤いラインが、計算の困惑を示すように不規則に明滅した。
「ゴースト(不要な映り込み)の除去処理がエラーの可能性は否定できません。ですが……」
彼女は躊躇うように視線を落とし、画像を最大解像度まで引き伸ばした。
「久住さん。連れの女性の顔を見てください」
モザイクのかかっていない、隣を歩く女性。 目鼻立ちははっきりしている。 美人だ。 アイが空中で指先を滑らせると、ストリート・モードの隣に、新たなウィンドウがポップアップした。 表示されたのは、ある古いSNSのプロフィール画面だ。
「掲示板の投稿者のIDから、彼女の当時のSNSアカウントを特定しました。……これは5年前、彼女が彼と交際していた頃のプロフィール画像です」
画面には、幸せそうにピースサインをする若い女性の自撮りが映っている。 アイが、そのSNS写真と、ストリート・モードの女性の顔に、青い照合フレームを重ねた。
「比較してください。……骨格、目元の特徴が完全に一致します」
「……本当だ。生き写しだな」
俺は眉をひそめて見比べた。 確かに似ている。髪型も、雰囲気も。 だが、どこか違和感がある。
「ただ……久住さん。よく見てください」
アイが、ストリート・モード側の画像をさらに拡大した。 粗い画素の向こう側にある、女性の目元を指先でなぞる。
「ストリート・モードの中の女性の方が、少しだけ『経年変化』が進んでいるように見えませんか?」
「……え?」
俺は椅子を寄せ、モニターに顔を近づけた。 左には、5年前のあどけない笑顔。 右には、ストリート・モードの不鮮明な笑顔。
「肌の質感、目尻の笑い皺……。数値化すると微細な差ですが、明らかに変化しています」
アイが、二つの顔の上にサーモグラフィーのような解析フィルターを重ねる。 青い光が、彼女の顔の陰影を浮かび上がらせた。
「5年前の写真よりも、5年か、あるいは10年ほど歳を重ねたような……落ち着いた雰囲気です」
「……どういうことだ」
俺は言葉を失った。 失踪したのは5年前だ。 もし生きていたとしても、こんなに穏やかに歳を取っているはずがない。 まるで、事件など何もなかったかのように、幸せな時間だけを積み重ねてきたような顔だ。
静まり返った部屋に、PCのファンの音だけが低く響く。 アイは浮遊したまま、困惑したように小首をかしげた。
「……不明です。ですが、この画像データは『現在』のタイムラインではない可能性があります」
アイの赤い光が、微かなノイズを帯びて揺らめいた。 彼女自身も、この論理的な矛盾に答えを出せずにいる。
「未来の映像断片が紛れ込んだのか。それとも、彼らが選ばなかった『別の可能性(分岐ルート)』が、地図データのエラーとして映り込んだのか」
俺たちは黙って画面を眺めた。 二人はとても幸せそうに見える。 手をつなぎ、穏やかな海を見ながら、笑顔で話している。 現実は失踪事件という悲劇だ。 彼はもう、この世にいないかもしれない。 なのに、画面の中だけは、穏やかなハッピーエンドが流れている。 病気も、失踪も、悲しみもない世界線。
そこには、俺が失った「もしもの未来」さえも存在しているような気がして、胸が締め付けられた。
「……久住さん。この画像、どう処理しますか?」
アイが静かに問いかける。
「投稿者の女性のアカウントは現在も生きています。彼女に『これはカメラの不具合による誤作動だ』と伝えますか? それとも、『ドッペルゲンガーの怪異』として記事にしますか?」
俺はカップに残ったぬるくなったコーヒーを飲み干した。 苦味が舌に残る。
「……いや。どっちもしない」
俺はタバコを取り出し、首を横に振った。
「そっとしておいてやれ。これはただのバグだ。だが、彼女にとっては唯一の『彼が生きて笑っている場所』かもしれない」
「ですが、これは偽りのデータです。修正するのが正当な処理では?」
「構わん。このネットワークの海のどこかに、二人が幸せに暮らしている場所がある。……そう思わせておいた方が、夢があるだろ」
俺はモニターの電源ボタンに指をかけた。 誰にも教えない。 記事にもしない。 ただ俺たちだけが目撃した、存在しない休日。
画面が消える直前、アイのスーツの赤い光が、消灯の闇に吸い込まれるように揺らめいた。
「……了解しました」
プツン。
真っ暗になったモニター。 そこには、俺の疲れた顔だけが映り込んでいた。 暗闇の中で、アイの声だけが静かに響く。
「……論理エラーを確認。不具合のあるデータを『仕様』として保存するという判断は、システムの最適化に反します」
彼女の声には、まだ納得できていないような、硬質な響きが残っていた。 合理性よりも感情を優先させる俺の判断が、彼女のアルゴリズムの中ではじかれているのが分かる。
「人間は、バグさえも『夢』と定義して保存するのですね。……非効率的で、不可解なメモリ管理です」
「それが人間だ。お前もそのうちバグるさ」
俺はライターの火をつけた。 シュボッ、という音と共に、小さな炎が真っ暗なモニターを照らす。 揺らめく炎の向こうで、窓の外には今日も変わらない新宿の雑踏が広がっている。 あの幸せな二人は、この世界のどこにもいない。 だが、デジタルの地図の片隅でだけ、彼らは永遠に笑い合っているのだ。
エディタには『存在しない休日』というタイトルだけが白く光っていた。 俺はバックスペースキーを長押しした。 文字が一文字ずつ消えていく。 完全に白紙に戻ったファイルを、俺は保存せず静かに閉じた。
(File.03 了)




