File.21:神の名の残滓(ざんし) (3/4)
【記録者:久住 瑛一】
【記録日:20XX年 XX月XX日】
朝、目が覚めて一番に玄関へ向かった。ポストの蓋を跳ね上げ、差し込まれた朝刊を掴み取る。インクの匂いと共に、一面には躍動感のある見出しが躍っていた。
『東都新聞スクープ:カルト教団「クオリア・メソッド」、信者の子供を「神の子」として幽閉か』
「……出たな」
静かな呟きが、冷え切った廊下に響く。正義を成し遂げたという高揚感と、これから始まるであろう嵐への予感が、俺の背筋を震わせた。
東都新聞社に到着すると、エントランスで待ち構えていた三好が弾かれたように駆け寄ってきた。
「先輩、やりましたね……! 各局、この記事を追っかけてますよ!」
社内はいつも以上にざわつき、電話が鳴り止まない。同僚たちの視線には、羨望と賞賛が混じっていた。俺たちはその余韻に浸る間もなく、報道陣が詰めかける教団本部へと車を走らせた。
***
教団側は即座に記者会見を開いた。会見場の壇上に現れたのは、凛の母であり、教団幹部の羽鳥優。彼女は眉一つ動かさず、用意された声明を読み上げた。
「……本日、一部報道でなされた当法人への疑惑は、すべて事実無根です。当法人は常に子供たちの幸福を第一に考えており……」
「ふざけるな!」
俺は最前列で立ち上がり、彼女の言葉を遮った。
「ここに内部告発による詳細な計画書がある! 5歳の少女を『神の子』として加工し、不当に寄付金を募っていた証拠を、どう説明するつもりだ!」
「それは捏造された資料です。東都新聞のあなた方の執拗な取材こそが我々への妨害であり、何より『白稚様』の心を傷つけている」
優は真っ向から否定し、俺を冷徹に見据えた。その後も質疑応答は平行線を辿り、怒号が飛び交う中で会見は一方的に打ち切られた。
「……往生際の悪い奴らめ……」
三好が苦々しく吐き捨てる。だが、メディアの熱狂は最高潮に達し、世論に押される形で警察もようやく重い腰を上げようとしていた。
***
翌日、出社した俺を待っていたのは、勝利の余韻などではなく、肌に張り付くような嫌な静寂だった。
昨日の喧騒が嘘のように、編集フロアの空気が重く澱んでいる。大熊デスクは険しい顔でパソコンの画面を凝視したまま動かない。
俺は自分のデスクに座り、その時重苦しい振動が走った。
ヴヴヴ……。
スマホの液晶に映ったのは、『仙崎 剛』の名だった。
いつもなら、警察内部の情報をぶっきらぼうに伝えてくるあいつからの電話だ。だが、この時のバイブレーションは、なぜか不吉な地鳴りのように俺の鼓膜に響いた。
「……はい、久住です」
スマホを耳に当てた瞬間、肺の中の空気が一気に冷えた。
スマホの向こう側から聞こえてくるのは、いつもの刺々しい声ではない。砂を噛むような、ひどく掠れた、そして深い後悔の滲んだ沈黙だった。
「……久住……」
一言、俺の名を呼んだ仙崎の声が震えている。あの冷徹な男が、言葉を失っている。その事実だけで、俺の背筋に冷たい汗が伝った。
「仙崎? どうした、何があった」
「……話が、ある。……今すぐだ」
「話って、クオリアの件か? 強制捜査のスケジュールでも決まったのかよ」
俺は努めて明るい声を出そうとした。だが、仙崎はそれを遮るように、絞り出すような声で続けた。
「……すまん。……俺たちが、不甲斐ないばかりに……」
その謝罪を聞いた瞬間、俺の思考は真っ白になった。仙崎が謝る? あの男が?
嫌な予感が、心臓を直接掴まれたような圧迫感となって襲いかかる。
「おい、何を言って――」
問い返そうとしたその時、物理的な重みが俺の肩に落ちた。
振り返ると、そこにはいつの間にか席を立った大熊が立っていた。
「大熊……?」
「久住、あと三好。……来い」
大熊の表情は、いつになく暗く、そして重い。
「……仙崎、悪い。また掛け直す」
通話を切り、俺たちは会議室へと向かった。重厚な扉が閉まり、しん、と静まり返った密室で、大熊は静かに口を開いた。
「……今朝、羽鳥凛の遺体が見つかった」
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「……は……?」
長い沈黙の末に、やっとの思いで絞り出した声。隣で三好が息を呑む音が聞こえる。
「な……っ! なんでっ……!」
「警察は事件と事故の両方で捜査を始めたそうだ。現場は……あの河川敷だ」
三好の叫びを遮るように、大熊が事務的な、しかしどこか痛ましそうなトーンで事実を告げる。俺は椅子を倒す勢いで立ち上がった。
震える手でスマホを取り出し仙崎へかける。呼び出し音が鳴るや否や仙崎はすぐに出た。
「っ仙崎!……何が起きた…っ!」
「……久住、落ち着いて聞け……」
重苦しい声で、仙崎が話した。
早朝、クオリア・メソッド本部近くの河川敷で羽鳥凛の遺体が見つかった。
全身を打撲、特に頭を強く打っていた。外傷を詳しく見ると、打撲痕から転ぶなど自然にできたものではなく、何者かによって暴行を受けた可能性が高いと検視官からの報告が上がった。遺体の状況から、別の場所で殺害後河川敷に運ばれた可能性が濃厚、これから強制捜査に入ると。
「……っ! 三好! 本部に行くぞ!」
「せ、先輩……! ま、待ってください!」
***
教団本部前は、すでに他のマスコミによる「囲み取材」で混沌としていた。その中心にいたのは、先日の会見と同じ、羽鳥優だ。
「……『白稚様』は不慮の事故で亡くなりました。今は警察が詳しく調べておりますので、それ以上のことはお伝えできません……」
表情を消し、淡々と、あらかじめ決められた台本を読むように答える優。昨日は「加害者」の母として糾弾され、今は「被害者」の遺族としてカメラの前に立っている。そのあまりの厚顔無恥さに、俺の血管が弾けそうになった。
「……っ! 東都新聞の久住ですっ! 一部報道で羽鳥凛さんは夜中に河川敷で倒れていたと報じられていますが、なぜ河川敷だったのでしょうか?」
報道陣をかき分け、俺は彼女の目の前で問いをぶつけた。
「……東都新聞……久住……?」
優の目が俺を捉えた瞬間、その顔に初めて人間らしい「険」が浮かんだ。
「貴方ですね……『白稚様』をたぶらかしたのは……!」
「なっ……!」
優はカメラの方を向き、涙を浮かべて声を張り上げた。
「『白稚様』は東都新聞の記者に執拗に付きまとわれ、精神的に追い詰められていました。あの日も、記者に無理やり夜中の河川敷に呼び出され、逃げようとして足を滑らせたのです。……あの子を殺したのは、貴方ですね!」
周囲の視線が一斉に俺を射抜く。テレビ局の生中継が、この「逆転の告発」を全国に垂れ流していた。優は泣き崩れ、「『白稚様』を返して!」と叫ぶ。
だが、俺には分かっていた。この女は、娘の死すら演出に使っている。俺は記者としてではなく、1人の子の親としてその目を睨み返した。
「……最後まで、あの子を『名前』で呼ばないのだな」
言われた瞬間、優の表情が凍りついた。
「はっ……!」
演技を見破られた、ばつの悪い顔。その一瞬の隙を俺は見逃さなかった。だが次の瞬間、警察の無機質な号令がかかった。
「報道各社、取材は終わりだ。これより強制捜査に入る」
屈強な男たちが割って入り、仙崎もその集団の中にいた。彼は一度だけ俺に視線を投げ、すぐに目を逸らして本部の中へと消えていった。
「……先輩、ここまでですよ。戻りましょう」
三好に促されるようにして、俺はその場を後にした。
***
会社に戻ると、電話の着信音はもはや怒鳴り声にしか聞こえなかった。
中継を見た世間からの抗議が、東都新聞の回線をパンクさせていた。
「久住、お前しばらく休め」
大熊に呼び出された会議室。開口一番、投げつけられたのは実質的な謹慎宣告だった。
「……っ! しかし……!」
「警察の調べが進めば真実が明るみになる。今は我慢しろ。……これは、会社を守るためでもあるんだ」
大熊が出ていき、俺は一人、静まり返った部屋に取り残された。
ドアを開けて出ると、三好が震える肩を抱えて待っていた。
「せ、先輩……」
俺はあいつの肩を強く掴み、その目を見据えた。相手が一枚上手だった。せめて、この青臭い情熱だけは守らなければならない。
「……三好……いいか、お前は俺の上司命令で取材に協力した、それだけだ! この件は全部、俺がやった事だっ!」
それは、あいつを救うための盾であると同時に、自分自身に下した断罪の宣告でもあった。
***
事実上、自宅謹慎となった俺は家に籠る日々となった。 しかし自宅は休まる場所ではなくなった。
テレビを付ければ、嫌でも『クオリア・メソッド』の文字が目に飛び込んでくる。報道は加熱の一途を辿っていた。羽鳥凛の死亡の因果関係が事故ではなく暴行による過失致死に切り替わり、教団の家宅捜索も進んだ。過去の信者への暴行、事故死偽装など凄惨な事実。そして政治献金などの不透明な金の流れなどが、次々と明るみになっていった。
リビングの固定電話は、もはや通信手段としての機能を失っていた。鳴り響くのは決まって無言電話か、あるいは名も名乗らぬ誰かが一方的に罵声を浴びせて切るだけの音の暴力だ。
ポストの中を確認するのも、いつしか義務的な苦行に変わった。折り重なったチラシの隙間には、送り主不明の怪文書や、殴り書きの脅迫文が当たり前のように混じっている。
玄関のドアには、何度も生卵が投げつけられていた。白い扉にこびりついた黄色い染みを、俺は無言で拭い取る。一度や二度のことではない。それが日常の一部になってしまうことが、何よりも恐ろしかった。
その度に警察へ足を運び、淡々と被害を届ける。だが、調書を取る警官の瞳に宿る、隠しきれない哀れみの色が、何よりも俺の神経を逆撫でした。 被害者として扱われながらも、世間からは「元凶」として見られている……その視線から逃げるように、俺は再び閉ざされた家へと戻るしかなかった。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、机に置いたスマホが何度も震え、液晶が虚しく明滅を繰り返している。
『三好 駆』
『真壁 圭』
『仙崎 剛』
画面に浮かび上がるその名を見るたび、胸の奥がひどく疼いた。三好はきっと、あの日俺が放った「全部俺がやったことだ」という言葉を否定したくてかけてきているのだろう。真壁は、姉の事件に続くこの惨劇に、何を思って俺を呼んでいるのか。そして、何日かに一度は仙崎からも電話があった。
だが、今の俺にはそれを受ける資格も、あいつらの声を聞く勇気もなかった。震えが止まると同時にまた次の着信が重なる。俺はその音を拒絶するように、スマホを裏返して暗がりに沈めた。
俺があの記事を出さなければ羽鳥凛は死ななかった?あの時無理にでも保護をすればよかった?
……何度でも繰り返す後悔。
「……パパー! ただいま!」
不意に、現実へと引き戻す陽の声が響いた。バタバタと廊下を駆けてきた陽が、俺の膝に飛びついてくる。その無邪気な重みに、俺は顔を引き攣らせて笑みを作った。
「今日もパパはお休み?」
「ああ……しばらく忙しかったからな。お休みをたくさんもらったんだよ」
力なく笑って答える。嘘を吐くたびに、胸の奥がチクリと痛む。
「陽は、今日楽しかったか?」
「うん! ……でもね、なんか最近、お友達が一緒に遊んでくれないんだー……どうしたんだろ?」
心臓が跳ねた。
陽の無邪気な疑問が、冷たい刃となって俺を貫く。あの中継のせいだ。俺が「少女を死に追いやった記者」として全国に顔を晒され、社会的な死を宣告されたあの忌まわしい瞬間の。
***
その夜、陽が寝静まったのを見計らって、俺はリビングで由香里と向き合った。
「……陽から聞いた。保育園での様子はどうなんだ?」
「……え? ……あー……普通だよ? 瑛一さんが心配するようなことは何も……」
由香里は努めて明るく振る舞い、手元のマグカップに視線を落とした。その指先が、微かに震えている。
「由香里」
逃げ場を塞ぐように、俺は彼女を真っ直ぐに見つめた。
「……正直に言うね。ちょっと、ちょっとだけ……周りのママ友からは冷たい目で見られてる……かな。で、でも、保育園だから別に付き合いなんてないし、大丈夫だよ」
「……それから?職場ではどうなんだ?」
「……えっ?……あ……」
俺から視線を逸らし困った顔をする由香里。
暫くの沈黙の後、重たくなった口を開く。
「……し、仕事の時、名札があるから……その……ね、あまり患者さんの前に、出るなって……で、でも!裏でやる事たくさんあるし!……大丈夫……だからね?」
強がる彼女の言葉が、逆に事態の深刻さを物語っていた。ネット上ではあの日の中継映像が何度も掘り起こされ、俺への「たられば」のバッシングは止まない。社への抗議電話は未だに続いているだろう。
俺はどうなってもいい。だが、家族を巻き込むことだけは耐えられなかった。
「由香里……話がある」
俺は、喉まで出かかった言葉を、覚悟と共に絞り出した。
「……離婚しよう」
「……は? え? ……え?」
由香里は、魂が抜けたような顔で俺を見た。
「……はぁ〜? 瑛一さん? 何ヲ仰ッテイルノ?」
驚きが限界を超えたのか、後半はカタコトになっていた。
「いや、だから……これ以上一緒にいたら、陽と由香里に迷惑が……」
「瑛一さん」
言葉を遮るように、彼女が強い口調で言った。
「私、そんなに柔な女じゃないよ? ちょっとくらい仲間外れにされたって困らない。そもそも……あの教団? あんな酷いことをしていた話を今まで誰も表に出さなかった方が、絶対におかしいよ」
普段、俺の仕事に口を出さない由香里が、堰を切ったように話し始めた。
「瑛一さんは時間をかけて調べたんでしょ? ……陽と同い年の子が大変な目に遭ってるのを知ったから、余計に頑張ったんだよね……」
彼女はそっと、俺の震える手を優しく包み込むように握った。
「……ああ」
「結果として残念なことになってしまったけど……でも、あの教団は他にももっと悪いことをしてたって、瑛一さんが調べてくれたから……救われた人もたくさんいたと思う」
視界が滲んだ。
誰かに褒められるために書いた記事じゃない。それでも、一番理解してほしい人に認められることが、これほどまでに救いになるとは思わなかった。
「私は、久住瑛一の妻でいられて誇らしいよ。……だから、一緒に闘う」
ああ…そうだ、由香里はこういう人だった。
涙が溢れた。 だが俺には勿体ないほどの大切な人を、これ以上矢面に立たせるわけにはいかない。
「……ありがとう。それでも……それでも、俺が耐えられないんだ」
沈黙が流れる中、由香里が少し考えてから、突拍子もないことを言い出した。
「瑛一さん……それなら、『偽装離婚』はどう?」
「偽装……?」
「そう、偽装。形だけ離婚して、苗字も変える。私たちがいると瑛一さんが仕事をやりにくいなら。これでどうかな?」
まるでスパイ映画の作戦でも立てるように、由香里は楽しそうに続けた。
ルールは厳格に決めた。面会は月に一度、毎月第二土曜日のみ。連絡は手紙だけ。手紙は読んだらすぐに処分すること。デジタルな足跡は一切残さない。
「私と瑛一さんだけの秘密。これで共犯者だね」
少し悪そうな顔をして、にやりと笑う由香里。その顔を直視できない。
「……すまない……いつか必ず、迎えに行く」
俯く俺の強く握られた手を優しく包み込むように、由香里が優しく手を重ねる。顔を上げると柔らかく微笑みながら涙を浮かべる由香里がいた。
「うん……待ってる。……瑛一さん、大好き。……愛してる」
この日、俺たち夫婦は、世界を欺く「共犯者」になった。
***
数日後、俺は一通の封筒を大熊のデスクに置いた。
「……お世話になりました」
「久住、本当にいいのか?」
「はい。けじめをつけさせてください」
「先輩……っ!」
三好が声を詰まらせて、俺の袖を強く掴んだ。その震える指先は、あの日、河川敷で凛に飴を差し出した時と同じ、隠しきれない優しさに満ちていた。俺は、その手を優しく、だが拒絶するようにゆっくりと振り払った。それは、あいつをこれ以上こちらの泥沼へ引き入れないための決別だった。
「三好……お前はいい記者になる。俺のようにはなるな。この場所で、お前の正義を貫け」
俺は一度も振り返ることなく、騒々しい編集フロアを後にした。
背後で鳴り続ける電話の着信音、誰かを糾弾する怒号、そして慌ただしく叩かれるキーボードの音。かつて俺の鼓動と同期していたあの喧騒が、エレベーターの扉が閉まると同時に、遠い世界の出来事のように静まり返った。
陽光の降り注ぐ「正義」の世界を捨て、俺は濁った泥の中に沈んでいく。
身を切るような喪失感と共に、胸の奥には由香里と結んだ「秘密」という名の微かな熱が宿っていた。
新聞記者・久住瑛一としての死。
それが、どこへ続くかも分からない、果てしない暗闇への第一歩だった。
(File.21 了)




