File.18:猫集会の黒衣
【記録者:久住 瑛一】
【記録日:20XX年 1月29日】
午後2時。新宿の雑居ビル3階にある事務所の空気は、コンクリートの壁から染み出す冷気で凍りついている。加湿器が微かな音を立てて白い霧を吐き出し、PCのファンが低い唸りを上げている。
俺は身を乗り出し、山積みになった資料やデスクの足元を探していた。キョロキョロと周囲を見渡すが、何処にも見当たらない。
「……ねえな。どこにやった……」
いつも手元にあるはずの物が見当たらない。焦燥感から、伸び放題の髪を掻きむしる。
「……久住さん、先程から何をしているのですか?」
メインモニターの青白い光が強まり、相棒の『アイ』が音もなく姿を現した。純白のボディスーツに身を包んだ彼女は、重力のないデジタル空間を漂いながら、俺の不甲斐ない姿をガラス越しに覗き込んでくる。
「……探し物だ。ライターが、どこにもねえ」
「推奨:キッチンを確認してください。そこにあるはずです」
「……あ?」
俺はキッチンへ向かった。蛇口の横、さっきコーヒーを淹れた時に無意識に置いたままの100円ライターが、ポツンと佇んでいた。
「……あったか。……確かに探したはずなんだがな」
俺は自嘲気味に呟き、デスクへと戻った。
「人間特有の『認知の死角』ですね。対象が視界に入っていても、脳がそれを認識から除外する……非効率的なエラーです」
アイは冷ややかに言い放ち、空中で指先を弾いてサブモニターに新しいウィンドウをスワイプした。
「そんな久住さんのような『探し物』が絶えない人間たちの間で今、話題となっている場所があります。……通称『猫集会』です」
「……猫集会……?」
「はい、猫が集まる場所『猫集会』では、探し物を『猫』にお願いすれば見つかるそうです」
アイは、SNSの深層から抽出した、まるでお伽話のような手順を、淡々とした声で読み上げ始めた。
「噂によれば、探し物を見つけるためには『手順』があります。まず、新宿の地域猫たちが円陣を組むように集まる路地裏を特定しなければなりません」
「特定の場所……新宿にそんな場所あったか……?」
俺は首を傾げた。記者時代を含めればこの街の移り変わりは見てきたが、新宿に事務所を構えてまだ数年。猫が円陣を組んで会議を開いているような路地なんて、酔っ払いの妄想の中でしか聞いたことがない。
「そこへ、猫たちが抗えないほどの『極上の供物』……つまり『にゃむ〜る』を用意します。猫たちの警戒を解き、一匹ずつ丁寧に振る舞うことが条件です」
「現金な奴らだな。賄賂が通用するのは人間だけじゃないってか」
俺は見つけたばかりのライターでタバコに火をつけた。紫煙を吐き出し、深く椅子に体重を預ける。
「そんな事で本当に物が出てくるってのか?」
俺は鼻で笑いながら、虚空に浮かぶ手順書を指差した。猫におやつを貢いで探し物を頼むなど、俺でもボツにするような安直なオカルト話だ。
「ネットの反応は上々です。『5年前に失くした指輪が見つかった』『排水溝に落ちた車の鍵が見つかった』。……ですが、久住さん。猫の知能指数と物体識別能力を考慮すれば、これは論理的に不可能です」
アイはモニターの中で腕を組み、冷徹な緑色の瞳を細めた。彼女の周囲には、検証された「発見報告」のリストが滝のように流れ落ちていく。成功率は異常なまでに高い。
「……じゃあ、何が起きてる。魔法でも使ってるのか?」
俺は紫煙の向こうで目を細めた。デジタルな存在であるアイが「不可能」と断じるなら、そこには必ず人間の意図か、あるいは説明のつかない「ノイズ」が介在しているはずだ。
「いいえ。……映像解析と生体反応ログから、『奇跡』が具現化するまでに関わっている人物を特定しました」
アイの纏うスーツの青いラインが、静かに、しかし力強く脈打った。彼女は空中に無数の防犯カメラの断片を投影し、パズルを組み立てるように配置し直していく。
「この地区で30年以上地域猫の世話をしている一人の老婆……通称『猫ばあさん』がいます。タウン誌の方でも紹介されていました。この方です」
ウィンドウに新宿のタウン誌の画像が表示される。そこには、『都会のオアシス「猫集会」を見守る名物おばあちゃん』と紹介されていた。
「この事象について鍵を握っているのは彼女ではないでしょうか」
モニターの中、アイの瞳には、尽きることのない好奇心が宿っている。
俺は椅子の背もたれを軋ませ、額の冷却シートを指先で押さえた。
「……アイ、その『猫集会』の場所はわかるか?」
俺の唐突な問いに、アイは不意を突かれたように小首をかしげた。
「と、言いますと?」
「新宿ならすぐ近くだろ。たまには取材に出てみるのも悪くない。……婆さんが守ってる『魔法』ってやつを、この目で確かめておきたくなった」
俺はデスクから立ち上がり、ハンガーに掛けていた使い古しのコートを手に取った。ライターとしてではなく、記者の端くれとしての「野次馬根性」が、冷え切った身体の奥で微かに動いたのかもしれない。
「……了解しました。タウン誌の写真にある建築物の特徴と、路地裏のパースを照合……特定します」
アイの髪とスーツを走るサイバーブルーのラインが激しく脈打ち、デジタル空間に無数の地図データが展開される。
「……ヒットしました。地図を表示します」
メインモニターに映し出されたピンの場所を見て、俺は思わず苦笑した。
「……なんだ、すぐ側じゃないか。気付かなかったな……」
「普段の久住さんは、モニターのブルーライトで網膜を焼き、足元のストーブで暖を取ることに必死ですから。……物理世界の情報収集能力が著しく低下しています」
アイは冗談めかした口調で言い、俺のスマートフォンへとルートデータを転送した。
「久住さん、行くのでしたら供物の『にゃむ〜る』を忘れずに。手ぶらでは、彼らの『会議』への出席は認められないでしょうから」
「わかった、近場のドラッグストアに行けばあるだろう」
そう言って事務所を後にした。
***
事務所を出た俺は、目的地へ向かう前に近くのドラッグストアへ立ち寄った。ペット用品の棚から、アイが指定した『にゃむ〜る』を手に取る。とろみのあるペースト状の猫用おやつ。レジで会計を済ませ、俺はそれをコートのポケットに捩じ込んだ。
事務所の裏道から徒歩5分ほどの路地に、周囲の喧騒から切り離されたような、少し開けた場所があった。
「ここか……」
午後3時。冬の午後の低い光が差し込むその場所には、驚くほどたくさんの猫が集まっていた。
その中の一匹のサバトラが、音もなく俺の足元に寄ってくると、ごりごりと頭を擦り付け、尻尾をピンと立てて甘えてきた。
「人馴れしすぎた猫だな……」
しゃがみ込み、顎下をこしょこしょと触ると、冬の空気とは対照的な柔らかな温もりが伝わってきた。猫はゴロゴロと喉を鳴らし、何かをねだるように何度も頭を擦り付けてくる。そう、この猫は俺のコートのポケットに『にゃむ〜る』が入っているのを、その鋭い嗅覚で見抜いているのだ。
「……よくわかってるな……」
ポケットから『にゃむ〜る』を取り出した瞬間、目をキラキラさせた猫たちが四方八方から複数寄ってきた。
「ちょ……っ! 待て待て」
袋を開けると、我先にと言わんばかりに猫たちが群がってきた。そんな俺の姿を、少し離れた場所から見つめる人がいた。
「おや? 見ない顔だねぇ」
猫を引き連れた老婆が、軽やかな足取りで近づいてきた。
「うわっ……! ちょ、待て、……て……?」
猫たちに囲まれながら、俺は老婆の方を見た。
「お前さんも何か探し物でもあるのかい?」
「……猫ばあさん?」
「はは! なんだか皆にそう呼ばれているねぇ」
この地区で30年以上地域猫の世話をしている牧野 節子(76)――通称『猫ばあさん』だ。
猫たちは『にゃむ〜る』をもらえて満足したのか、俺の周りで落ち着いて顔を洗い出した。その隙に、俺は改めて彼女と向き合った。
「『猫集会』について話を聞きたく、取材をさせていただきたい」
俺は名刺を差し出した。かつて新聞社のエースと呼ばれた頃とは違う、しがないオカルトライターの名刺だ。
「えーと、久住さん、ね。こんなばあちゃんに取材だなんて……恥ずかしいったら」
照れたように話す牧野は、シワの刻まれた手で自分の頬を少し掻いた。 午後の柔らかな日差しが、路地の古いコンクリートを薄く照らしている。
「……始めはただ、猫を触りにきた若い子が世間話をする延長で、探し物の話をしたんだよ。ほら、ばあちゃん時間だけはあるからねぇ」
牧野がそう話していると、一匹、また一匹と猫が彼女の足元に寄ってきた。 彼女は慣れた手つきで、猫の耳の後ろをゆっくりと撫でる。
「ここの子たちは人の話を聞くのが好きでね、なんとなーく聞いているのよ。だから、困ってるって話に敏感でね」
寄ってきた三毛猫を牧野は優しく、慈しむように撫でた。
「気付いたら、無くしたって言ってた物をこの子が咥えて持ってきたのよ」
「……本当に魔法はあったのか」
俺は思わず呟いた。 ネットに溢れるデタラメなオカルトではない、目の前の老婆が語る言葉には、長年この街で生きてきた者特有の重みがある。
「ふふ、そうね。……でもね、猫って本当に気まぐれなのよね」
はぁ、と小さくため息をつく牧野。
「相談した子が期待して待ってるなんて事があってね。だから私が少しだけお手伝いをしているのよ。にゃむ〜るももらっちゃってるし」
彼女はいたずらっぽく笑い、俺が先程あげたおやつの空き袋に視線をやった。
「でも、宝探しをしているみたいでとても楽しいのよ」
と続けた。
俺の足元には、最初に寄ってきたサバトラの猫がずっと側を離れず、俺のズボンの裾をスンスンと匂いを嗅ぎ、額から耳にかけてゴリゴリと擦り付けてくる。
「どうやらその子に気に入られたみたいだねぇ」
「……」
俺は何も答えず屈み込んで、その猫の頭から耳を優しく撫でた。生き物の体温が、かじかんだ指先に伝わってくる。
「久住さん……あんた、とても大きな業を背負っているような目をしているねぇ」
牧野が不意に、俺の瞳の奥を覗き込むように言った。
「……え……」
「気を悪くしたなら謝るよ。……ただ、大きすぎるものを背負い込んじまうと潰れてしまう。そんな時は誰かと一緒に背負ってもらったらいいんだよ」
「……そんな、誰かなんて……」
俺は自嘲気味に笑い、視線を落とした。 俺が背負っているのは、嘘で塗り固めた過去と、救えなかった者たちの記憶だ。 それを分かち合える人間は、今は側にいない。
その時、背後から聞き慣れた、野太い声が聞こえてきた。
「あんれ? 見慣れた顔がいるじゃないか」
振り返ると、そこにはお馴染みの大家、富田幸子がこちらに向かって歩いてくる。
「……! 大家さん!」
「あら、さっちゃん」
「……さ? ……え……?」
俺は牧野と大家・富田を交互に見た。
「……お二人は知り合いで?」
「知り合いもなにも、半世紀以上歌舞伎町で暮らしてる戦友みたいなもんよ」
大家の富田は腰に手を当ててガハハと豪快に笑い、隣に立つ牧野の肩を親しげに叩いた。
「ねぇ」
牧野もまた、慈しむような笑みを浮かべて小さく相槌を打つ。二人の間には、新宿の激動を共に生き抜いてきた者だけが共有する、阿吽の呼吸が流れていた。
「さっちゃんこそ、久住さんと知り合いだったのかしら?」
牧野は不思議そうに首を傾げ、隣の親友に問いかけた。
「そりゃ、うちの部屋を借りてるからねぇ。腐れ縁だよ」
富田は当たり前だろと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「……あ、もしかして前に話してたインテリ?な人? 健太君からの『玉子』、直してくれた……」
牧野が何かを思い出したように、しわの刻まれた掌をポンと叩いた。
「そう! あれから健太とは毎日しゃべってるよ! 今日も生意気にも朝から説教されちまったよ」
富田は「困ったもんだよ」と口では言いながらも、本当に嬉しそうに目尻を下げて顔をほころばせた。
彼女の笑顔を見て、胸がチクリと痛む。かつて俺が仕掛けた「優しい嘘」が、今もなお彼女の日常を守り続けていることを物語っていた。
すっかり二人に会話の主導権を握られ、話の腰を折られた俺は、行き場をなくした手で無意識に首筋の傷跡をなぞった。その様子を見ていた富田は、ふと俺の顔をじろじろと覗き込むと、それまでの快活な表情を少しだけ和らげた。
「……セッちゃん、この子はまぁ、色々あったんだよ。……ここにいる猫達と一緒さ」
「……」
「……そうかい、そりゃ聞くのは野暮ってもんだねぇ」
牧野はそれ以上追求せず、再び足元の猫に目を向けた。
「まぁ、人生長く生きていると色々あるさ。それでも生きていかなきゃいけないし、大切な人がいるなら尚の事じゃないのかね」
富田の言葉が、冬の冷たい空気の中で暖かく響いた。
「……大家さんには敵いませんね」
俺が苦笑いをしながら俯くと、足元の猫と目が合った。
にゃーと一声鳴くと、ほかの猫達も数匹俺に近寄り、ゴロゴロと言いながらすり寄る。
まるで慰められているようだ。
冬の低い陽射しを浴びた猫たちの毛は温かく、先月の事件以来、どこか強張っていた俺の心の輪郭を、ゆっくりと解きほぐしていくようだった。
「ーーーー本日はありがとうございました」
「いえいえ、また遊びにおいでね」
「……はい」
猫ばあさん・牧野と、大家・富田、そして猫達と別れ、事務所へと戻る。
新宿のビル風は相変わらず冷たいが、コートのポケットに残った『にゃむ〜る』の微かな香りと、手のひらに残る柔らかな感触が、不思議と重たかった足取りを軽くさせていた。
***
事務所の扉が開かれる。
「おかえりなさい、久住さん。猫達にーーー会えたようですね」
メインモニターの黒い画面から青白い光が溢れ出し、相棒のアイがふわりと浮かび上がった。
事務所に戻った俺の姿を見るやいなや、その緑色の瞳をカメラのレンズのように細め、無機質なスキャンの光を走らせる。
かなりの猫達と戯れていたのがわかるほど、俺のコートは猫の毛だらけになっていた。
「猫達とずいぶん楽しんできたようですね、バイタルが安定しています」
アイは空中でくるりと一回転し、満足そうに解析ウィンドウを弾いた。
「血流が改善し、ストレス係数も大幅に低下。……『認知の死角』でライターを探し回っていた時とは比較にならないほど、精神状態が安定しています」
彼女は画面の端から、まるではしゃぎ遊んできた子供を見るように、しかしどこか悪戯っぽく俺の肩を指差した。
「ですが、私のパソコンを物理的に汚染するのは勘弁してください。……さあ、執筆の前に、まずはその『猫の毛』を処理してください。粘着クリーナーなら、キッチンの棚の二段目です」
俺は苦笑いしながらキッチンの棚から粘着クリーナーを取り出した。コートの毛を剥がすたび、ついさっきまで触れていた猫たちの柔らかな温もりが指先に蘇る。毛の付いた粘着テープを捨て、俺はデスクへと戻った。
「……アイ。この記事のタイトルは決まりだ。『【新宿怪談】猫たちの密談! 失せ物を異次元から回収する謎の集会に迫る!』」
「……久住さん。真実は『猫を手伝うおばあさん』です。また虚偽の記事を書くのですか?」
アイの髪とスーツの色が、警告の赤ではなく、穏やかな青色に明滅した。
「……『猫が魔法を見せてくれる街』の方が、住んでて楽しいだろ。 実際、猫が探してる体で時間がかかるってわからせてやらないと婆さんが倒れちまうからな。」
「……了解。おばあさんが倒れたら猫たちも可哀想ですからね」
俺はキーボードを叩いた。老婆たちが守る「優しい嘘」を壊さないよう、この記事では猫の魔法をそのまま記すことにした。久しぶりに触れた生き物の温かみと、婆さんたちの気遣いが心に沁みていた。
(File.18 了)




