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File.17:雨とインクと警鐘(サイレン)(後編)

【記録者:久住 瑛一】

【記録日:20XX年 XX月XX日】


 世界が変わった。 俺たちが望んだ形ではなく、最も屈辱的な形で。


「……先輩。これ、誤植……っすよね?」


 翌朝の編集フロア。 いつもより冷房が効きすぎている気がした。肌に張り付くような人工的な冷気が、昨夜の熱気を完全に殺している。 三好が、刷り上がったばかりの朝刊をクシャクシャに握りしめて震えていた。


 俺は無言で、自分のデスクに置かれた朝刊を広げた。 一面トップ。そこには確かに、俺たちの署名記事がある。 だが、見出しは俺たちが推敲すいこうを重ねた『エイジス製薬、死の副作用を組織的に隠蔽か』ではない。


『エイジス製薬、データ管理体制の不備を謝罪――研究員個人の独断か』


  「組織的な隠蔽」が「管理体制の不備」に。 企業の犯罪性を告発するはずの記事が、ガス抜きのための「お詫び記事」にすり替わっている。


 本文を追う。俺達が命がけで持ち帰った役員の関与を示す証拠――ハンコの一つ、メールの一行に至るまで――が綺麗に削除されていた。代わりに、如月マヤ個人の精神的な脆さや、功名心を示唆するような「関係者の証言」なるものが、巧妙に、そして執拗に混ぜ込まれている。 それはもう、告発記事ではなかった。 一人の女性研究員をスケープゴートにして、企業を守るための「防壁ファイアウォール」だった。


「……大熊ッ!!」


 俺は新聞を叩きつけ、フロアの奥に鎮座する社会部デスク――大熊 巌(おおくま いわお)の席へ怒鳴り込んだ。 三好も青ざめた顔で後に続く。


「どういうことですか! なんで記事が書き換わってるんですか! 俺たちは昨日、完璧な裏取りをして……!」


「声がデカいぞ、久住」


 大熊はパソコンの画面から目を離さず、分厚い手で胃のあたりをさすりながら、ぬるくなった白湯を啜った。 50歳。身長180センチを超える巨漢だが、長年の激務と不摂生で背中は丸まり、白髪混じりの頭髪はボサボサだ。その名前と風貌から「社会部のヒグマ」と呼ばれているが、今の彼は、檻の中で飼い慣らされ、牙を抜かれた老いた熊にしか見えなかった。


 銀縁メガネの奥にある瞳は、ひどく濁っている。


「法務部と広告局の判断だ。お前が書いた『殺人企業』だの『死の薬』だの、そんなセンセーショナルな言葉、そのまま通せるわけがないだろう。名誉毀損で訴えられたら、会社が吹き飛ぶぞ」


「事実じゃないですか! 役員の捺印もあった! あの薬で死人が出てるんですよ!」


「その『因果関係』が証明できてないと言ってるんだ。……いいか、久住。向こうの弁護団は超一流だ。『科学的に証明されていない副作用』を根拠に記事を書けば、それはただのデマだ。……俺たちは新聞屋だぞ。裁判官じゃない」


 大熊の声は低く、重かった。 それは建前としての正論だった。大熊自身は深夜に上層部から呼び出され、数え切れないほどの「修正」を強要された疲労が滲んでいた。 彼のデスクのゴミ箱には、俺たちが書いた「原稿の第一稿」が無残に破り捨てられ、その上に大量の胃薬の空き袋が積もっていた。


「……じゃあ、如月さんは? 彼女を守るって約束したんです。この記事じゃ、彼女一人が悪者じゃないですか!」


 三好が悲鳴のような声を上げた。 大熊は初めて顔を上げ、メガネの位置を直しながら、哀れむような目で三好を見た。


「……三好。お前は頭がいい。だから分かるはずだ。……テレビを見ろ」


 大熊が太い指で指し示した先。 フロアの大型モニターに、緊急会見のテロップが流れていた。


「なっ……!?」


 俺は言葉にならない声が出た。画面に映し出されたのは、エイジス製薬のロゴを背にした無機質な会見場だ。


「会見!? なんで……記者クラブの『投げ込み(取材告知)』に、一行も出てなかったぞ! 独占(単独)か!? いや、各局が同じ映像を流してる……映像素材だけを会社側が各社にバラ撒いたのか!?」


 三好が血走った目でタブレットを猛烈に叩く。


「場所がどこかも分からない……! 三好、現場に飛んでいる記者はいないのか!」


「……SNSも静かすぎる。他社の連中も、誰も現場に辿り着けてないんだ! 事前に通告を受けた、ごく一部の『安全な』メディアだけを集めて、質問もさせずに一方的に喋らせてるんだ……。これじゃ会見じゃない、ただの『録画配信』ですよ!」


 東都新聞の社会部員でありながら、「茶番劇」の蚊帳の外に置かれている。


「どうなってるんだ大熊ッ!! あんた、全部知っててこの記事を……!」


 俺が身を乗り出し、大熊のデスクを勢いよく叩いた。だが、巨漢の男は微動だにせず、濁った瞳で俺を射抜いた。


「お前らは大人しくここで見てろ。……一歩でも外に出ようとするなら、この場で懲罰委員会に回す。……いいな、これは上層部からの『命令』だ」


 大熊の低い声が、冷気よりも冷たく俺たちの足を止めた。これが「社内政治」という不可視の暴力だ。俺たちは、自分たちの書いた原稿が死んでいくのを、ただモニター越しに眺めることしか許されなかった。


 ***


『……この度は、私の個人的な思い込みと、精神的な未熟さから……事実無根のデータを捏造し、会社および関係者の皆様、そして患者様に多大なるご不安をおかけしました……』


 画面の中。 まばらなフラッシュを浴びて、如月マヤが深々と頭を下げていた。


 彼女は泣いていなかった。 死人のような無表情で、用意された原稿を読み上げていた。 昨日、公衆電話の前で見た時のカーディガン姿ではない。急いで用意されたであろう、地味でサイズの合わない黒いスーツを着せられている。メイクも、心なしか彼女の顔色を悪く見せるように施されているように見えた。


 その横には、エイジス製薬の顧問弁護士と、広報担当役員が「温情ある表情」で寄り添い、彼女の肩を抱くようにして立っている。まるで、精神を病んでしまった社員を支える、良心的な企業であるかのように。


「……嘘だろ」


 俺は言葉を失った。


「取引、したんだ……」


 三好が呻くように言った。その声は絶望に震えている。


「会社側は、彼女を刑事告発しない代わりに、『全て私の狂言でした』と認めさせた。……彼女は、これからの生活と、実家の家族を守るために、自分の魂を売ったんだ。それどころか、会社は彼女を『休職させて治療を支援する』とまで言っている。……完璧なシナリオだ」


 大熊が、背後で重いため息をついた。


「……これが『政治』だ。彼女は社会的に死んだが、物理的には生き残った。会社も傷つかず、俺たちも訴えられない。……最善の落とし所だ」


「最善……? これが最善だって言うんですか!」


 俺が食ってかかろうとすると、大熊は鋭い眼光で俺を睨みつけた。一瞬だけ、かつての「ヒグマ」と呼ばれた敏腕記者の片鱗が見えた。


「甘ったれるな! 自分の正義が通じないからって喚くな! ……飲み込め。飲み込んで、次に進め。それができなきゃ、お前はこの世界じゃ生きていけねえぞ」


 その言葉は、彼自身への戒めのようにも聞こえた。 この巨漢の男もまた、かつては俺たちのように喚き、そして泥を飲み込み続け、この席でただの「大きな熊」という置物になったのだ。


「……ふん。まだ青いな」


 視線をモニターに戻した大熊が、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。その横顔には、彼が飲み込み続けてきた「泥」の重みと、それによって守られてきた何かが、僅かに滲んでいた気がした。



 ***


 俺たちは逃げるようにして、喫煙室に入った。 狭い部屋には、換気扇でも吸いきれない淀んだ空気が充満している。 窓の外は、まだ雨が降っていた。ガラスに打ち付ける雨粒が、俺たちの無力さを嘲笑うかのように流れていく。


 三好は、壁に額を押し付けたまま動かなかった。 彼の手元には、昨日あんなに誇らしげに持っていたタブレットが、電源の落ちた黒い板となってぶら下がっている。


「……先輩」


 長い沈黙の後、三好が呟いた。 その声は、泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。


「……僕ら、ナメられてたんですよ。大熊デスクにも、会社にも」


 三好がゆっくりと振り返る。 その顔を見て、俺は息を呑んだ。 昨日までの、生意気で自信過剰な若者の顔は消え失せていた。そこにあったのは、すべての感情を凍結させ、冷徹な計算式だけを脳内で回し始めた、得体の知れない「怪物」の萌芽だった。


「どんだけ足で稼いでも、どんだけ真実を掴んでも……『権力』と『見せ方』で握り潰されたら、それは『嘘』になる。……悔しいけど、それがこの世界のルールだ。僕らの正義なんて、彼らの政治力の前では、犬の遠吠えですらなかった」


「……ああ。クソったれな現実だな」


 俺は新しいタバコに火をつけた。手が震えていて、うまく点かない。 如月マヤは死ななかった。だが、彼女の「記者への信頼」と「正義」は殺された。俺たちが殺したんだ。


「先輩。……僕は、認めませんよ」


 三好が、血の滲むほど強く拳を握りしめた。


「こんな惨めな負け方、二度と御免だ。……次は絶対に勝つ。そのためなら、僕は泥でもなんでも飲み込んでやる。大熊さんの言う通り、飲み込んでやりますよ。組織の論理も、政治も、根回しも、全部利用して……あいつらが絶対に逃げられない場所から、喉笛を食いちぎってやる」


 三好の瞳に、復讐に近い執念の炎が宿る。 彼はこの敗北を糧に、自身のスタイルを「ただの暴露」から「勝つための報道」へと進化させようとしていた。清濁を併せ呑み、権力者と同じ土俵に立って、背後から刺す。そういう記者になると決めたのだ。


「……そうだな」


 俺は紫煙を吐き出した。 俺の中にも、どす黒い怒りが渦巻いている。 だが、俺の結論は三好とは違った。 権力を利用する? うまく立ち回る? 知ったことか。 そんな器用な真似、俺にできるわけがない。 俺は、もっと深く、もっと執拗に、地べたを這いずり回ってやる。権力者が一番嫌がる「予測不能な狂犬」になって、理屈も忖度も通用しない暴力的な真実を、喉元に突きつけてやる。


「行くぞ、三好。この借りは、次のネタで必ず返す」


「ええ。……やりましょう、先輩。僕ら流のやり方で」


 俺たちは拳をぶつけ合った。 ゴツ、という硬い感触。 俺たちはバディだった。 だが、その時すでに、俺たちの「戦い方」は決定的に分岐していたのだ。 三好は上を目指し、光と影を使い分けるデスクへ。 俺は地を這い、影の中を暴走する狂犬へ。 その道が3年後に完全に決裂するまで、俺たちはこの日の怒りを燃料に、互いに違う方向へ走り続けたのだ。


 ***


「……心拍数上昇。起床を推奨します」


 無機質な声で、世界が割れた。


「……ッ!!」


 ガバッと跳ね起きる。 冷たい汗が背中を伝う。 鼻をつくインクの匂いも、雨の湿気もない。 あるのは、静まり返った、薄暗い事務所の埃っぽい空気と、足元のPCが立てる低い排気音だけだ。


「……はぁ……はぁ……」


 俺は額に張り付いた冷却シートを引き剥がし、呆然とモニターを見上げた。 そこには、いつもの純白のボディスーツ姿の相棒――『アイ』が、グラフを見ながら淡々と作業をしている。


「……久住さん。おはようございます。あるいは、こんばんは」


「……今、何時だ」


「午後7時です。夕方から爆睡していましたね。……かなりうなされていましたよ。脳波パターンが、過去の闘争本能アドレナリンと、強烈な悔恨リグレットの混合状態を示していました」


 アイがチラリとこちらを見る。 その瞳に感情の色はない。ただのプログラムだ。だが、その青い光だけが、今の俺にとって唯一の救いのように感じられた。あの日の大熊デスクのような、濁った目の人間がいないことが、今は心地よい。


「……そうか。……最悪だが、懐かしい夢だった」


 俺はフラフラと立ち上がり、冷蔵庫から水を取り出した。 冷たい水が、喉の渇きと、夢の熱を強引に洗い流していく。


 あれから8年――。


 三好。 あいつの顔を、夢ではっきり見たのは久しぶりだった。 あの事件の後、俺たちは「リベンジ」を誓って3年間、死に物狂いで働いた。 三好は宣言通り、組織内での地位を高め、スマートな手腕を磨いた。上層部に媚びを売りながら、裏でネタを蓄え、確実に敵を仕留める「政治」を覚えた。あの「ヒグマ」こと大熊デスクでさえ、最後は三好の切れ味に舌を巻いていたほどだ。


 俺は逆に、組織の枠をはみ出し続け、誰彼構わず噛み付く「狂犬」として名を馳せた。 そして5年前。俺がとある事件をきっかけに、業界から身を引いた時……俺の背中を見送った三好の表情は、軽蔑ではなく、「とうとうこの日が来たか」という諦念に近かった。


「……アイ。ニュース検索」


「キーワードは?」


「……『東都新聞 三好』」


 アイが瞬時にウィンドウを開く。 検索結果のトップに、電子版の記事が表示された。


『本年度新聞協会賞受賞:東都新聞社会部・特別取材班キャップ 三好駆氏インタビュー』


『「スマートな取材で社会悪を断つ」――若きエースが語る次世代ジャーナリズム』


 写真の中の三好は、相変わらず仕立ての良いスーツを着て、自信満々に微笑んでいた。 少しだけ老けたが、その目には力がある。 俺が折れた場所で、あいつは折れずに、やり方を変えて生き残ったのだ。 俺が逃げ出した「席」を守り、あいつなりの正義を貫いている。


 記事の最後、彼のコメントが目に止まった。


『――真実を伝えるためには、時に泥を被る覚悟も必要です。かつて、それを教えてくれた先輩がいました』


「……へっ」


 俺は口元を歪めた。 安堵なのか、嫉妬なのか、自分でも分からない感情が胸をよぎる。 あいつはまだ、あの日の敗北を忘れていない。スマートな仮面の下で、いつか巨大な敵を討ち取るために、牙を研ぎ続けている。


「……ふん。偉くなりやがって。相変わらず気取った野郎だ」


 俺はブラウザを閉じようとして、指を止めた。


「……仕事するぞ、アイ」


「はい。……ところで久住さん、今の検索履歴、ログに残しますか? いつものように削除デリートしますか?」


 アイが問いかける。 俺はタバコに火をつけ、煙を吐き出しながら、モニターの中の三好を見つめた。 二度と交わることのない平行線。それは変わらない。 だが、あいつがまだあの日の泥を飲み込み続けているなら……こっちだけ綺麗サッパリ忘れてやるのも、なんだかシャクだ。 深い意味はない。ただの気まぐれだ。


「……残しておけ」


「了解しました。……ログを保存アーカイブします」


 アイが小さく微笑んだ気がした。 俺は紫煙を吐き出し、モニターに映し出された三好の写真を眺めた。


 8年前の雨音は止んだ。止まない雨はない。


 俺達の道は5年前に分たれた。 だが、それぞれの道、それぞれの正義を貫くのは変わらない。


 平行線を辿るその道は交わる事はなくとも、いつの日か――。


(File.17 了)

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