File.16:雨とインクと警鐘(サイレン)(前編)
【記録者:久住 瑛一】
【記録日:20XX年 XX月XX日】
「……んぱい。……先輩、起きてくださいよ。ヨダレ垂れてますって」
肩を激しく揺さぶられる感覚と、少し甲高い男の声で、俺は泥のような眠りから引きずり出された。
東都新聞社、本社ビル12階。編集フロアの一角を占める社会部のシマは、暴力的なまでの熱気に包まれていた。 鼻をつくのは、地下の輪転機で刷り上がったばかりの夕刊のインクの匂いと、喫煙室から漏れ出すタバコの紫煙。そして、絶え間ない電話の着信音と怒号が入り混じった、戦場のような喧騒だ。
「……うるせえな。あと5分寝かせろ。昨日の夜回りから一睡もしてねえんだ。夢の中でくらい、まともな布団で寝かせろよ」
「ダメっすよ。さっきデスクが『久住はどこだ、またサボりか』って青筋立てて探してましたから。ほら、顔拭いてください」
目の前に、冷えた缶コーヒーと、コンビニの濡れおしぼりがドンと置かれる。 俺はのろのろと顔を上げ、椅子から身を起こした。背中の関節がボキボキと悲鳴を上げる。首にかけていたIDカードが、安っぽい音を立てて机に当たった。 IDカードには、俺の顔写真と『東都新聞社会部 久住瑛一』と書かれていた。
そこに立っていたのは、仕立ての良いネイビーのスーツをラフに着崩し、片手には最新型のタブレット端末を持った若者――後輩の三好 駆
23歳。新卒で社会部に配属されたばかりのこの男は、東都新聞社内でも異質の存在だった。 俺たちのような、靴底を減らしてナンボの「足で稼ぐ」記者を、時代遅れの遺物として見下している節がある。髪は美容院でセットされた流行りのスタイルだ。どこにでもいる若者だが、その瞳の奥には、常に獲物を探すような冷徹な光が宿っている。
「で、例のネタはどうなりました? 僕はもう裏取り終わってますよ」
三好がタブレットの画面をスッと俺に見せる。そこには、俺たちが今追っている『エイジス製薬』の新薬『ルミナ・コープス』の治験データに関する、SNS上の告発ログが綺麗にマッピングされていた。
「今回の新薬『ルミナ・コープス』の副作用に関するSNSの告発ですが、まずはエイジス製薬の公式プレスリリースを確認しました。そこに記載されていたプロジェクトリーダーの名前から実名登録型SNS『Your Face』を検索し、開発メンバーが揃った祝賀会の集合写真を見つけ出したんです」
「脇が甘い人間が組織の長だと部下も大変だな……こっちとしては有り難いが」
「で、そこからメンバー全員の顔と名を割り出し、他のSNSの有無を徹底的に洗いました。その結果、表立ってSNSを一切やっていないメンバーが3名浮上しました。その中で最も可能性が高いのが、この如月マヤです」
三好は画面をスワイプし、解析された通信ログの比較表を表示させた。
「決め手はIPアドレスの一致です。リークを行ったSNSアカウントと、匿名掲示板で『守秘義務と刑事罰』について執拗に相談していたID……。この両者が使用していたグローバルIPが完全に一致しました。発信元はエイジス製薬の社員寮です。3名のうち、ルミナ・コープスの安全評価担当で、現在もその寮に住んでいるのは彼女だけ。……なので、彼女で確定です」
三好は自信たっぷりに言い切ったが、俺は画面を一瞥しただけで、ため息混じりに吐き捨てた
「……で、結局は『可能性が高い』止まりか。決定打がねえんだよ。IPが社員寮だってことは分かった。だが、共有回線を使っている以上、別人の可能性もゼロじゃねえ。状況証拠だけで実名記事を書けば、捏造で訴えられて会社ごと吹き飛ぶぞ。詰めが甘いんだよ、青二才」
「……わ、分かってますよ!」
三好は不満げに言い返し、タブレットの画面に表示されたエイジス製薬本社の建物を、苛立ちを隠さずに睨みつけた。
俺は立ち上がり、椅子の背にかけてあったヨレヨレのジャケットを羽織った。ポケットの中には、安物のボールペンと、ボロボロになったメモ帳だけが入っている。
「いいか三好。データが指し示しているのが彼女だとしても、本人の顔を見て直接『証拠』を引き出すのは誰の役目だ?」
「う……。それはまあ、先輩の『人たらし』スキルの出番っすけど……。僕、生身の人間と話すの疲れるんすよね」
三好は溜息をつき、タブレットを鞄に放り込んだ。
「データは嘘をつかないのに、人間はすぐ嘘をつくし、感情的になるし、面倒くさいじゃないですか。だから、その先は先輩にお任せしますよ」
「効率だけで記事は書けねえんだよ、三好。人間ってのはな、安全な場所で綺麗な建前を並べてる時じゃなくて、泥水すすって泣いてる時に本音が出るんだ。その『面倒くさい』部分にこそ、ニュースの核がある」
俺は三好の胸ポケットからメンソールタバコを一本抜き取り、自分の口にくわえた。
「行くぞ。……雨が降ってくる前に、決着をつける」
***
午後4時。 S市の空は、重たい鉛色の雲に覆われていた。湿り気を帯びた生暖かい風が、アスファルトの熱気を巻き上げている。 俺たちは社用車の中で、コンビニのアンパンをかじりながら、ターゲットが現れるのを待っていた。
「先輩、いつも思うんですけど、なんで張り込みの時にアンパンと牛乳なんですか……」
三好が、飲み込みにくそうに口の中のパンを牛乳で流し込みながら、心底嫌そうに呟いた。
「張り込みと言ったらアンパンと牛乳ってのが、この業界の定番なんだよ」
「いつの時代の刑事ドラマですか……。先輩だってまだ若いんだから、もっと柔軟になりましょうよ。アンパンなら、せめてアンバターのクロワッサンの方がよかったなあ。あと、牛乳じゃなくて冷たいカフェラテ」
「贅沢言ってんじゃねえ。……ほら、残さず食え。この後は飯を食う暇もねえぞ」
「先輩、マジで言ってます? この湿気の中、あと2時間も張り込みっすか? 車内温度見てくださいよ、サウナっすよ。僕のタブレットが熱暴走しそうですよ」
運転席の三好が、恨めしそうにシャツの襟元をパタパタと仰いだ。ダッシュボードには、彼が持ち込んだ小型の携帯扇風機が虚しく回っている。
「文句言うな。ここが特等席だ。……それに、お前も分かってるはずだろ。動くなら今日だ」
「まあ、ログの解析結果からはそう予測されますけどね。今日が新薬の承認申請の最終期限ですから。良心が痛むなら、今日しかない」
三好は口では文句を言いながらも、その目は鋭く周囲をスキャンしている。 こいつは生意気だが、記者のセンスはいい。俺のアナログな勘と、こいつのデジタルな予測が一致した時、俺たちは外したことがない。
「時代はデータ・ドリブンっすよ。僕が吸い上げた内部ログによれば、彼女の退社時間は18時15分で確定してるんです。あと2時間は出てきませんって」
「データは嘘をつくが、良心の呵責に耐えかねた人間の『限界』は嘘をつかねえよ。……見ろ」
俺が顎でしゃくった先。 会社の自動ドアが開き、小走りで出てくる人影があった。薄いグレーのカーディガンを羽織った、華奢な女性だ。彼女は怯えたように周囲を見回し、裏通りから大通りの方へと向かっていった。
「……如月マヤだ。出てきたな」
俺たちは車を降り、彼女を追いかけた。
彼女は大通りにあるボックス型の公衆電話へと駆け込んだ。
「携帯を持ってるのに、わざわざ公衆電話?」
三好の目が、一瞬で「記者」の色に変わる。眠そうな若者の顔が消え、獲物を狙う猛禽類の鋭さが宿る。
「ビンゴだ。社用携帯のログには残せない連絡をする気だぞ。誰にかけてる? 監督官庁か? それともマスコミか?」
「……あ、ちょっと待ってください。今、近隣の基地局のトラフィックを……。くそ、公衆電話じゃ僕のデバイスからは追えない! 先輩、相手は誰です!?」
三好が身を乗り出し、タブレットを叩きながら焦りを見せる。その隣で、俺は彼女の指先の微かな震えをじっと見つめていた。
「いや、あの様子じゃどこにも繋がってない。迷ってるんだ。……背中を押してやるぞ」
「うわ、ちょ、待ってくださいよ!」
ぽつり、ぽつりと大粒の雨が落ちてくる。 俺が先陣を切って走り、三好が舌打ちしながら、それでも絶妙なタイミングでICレコーダーを構えて追随する。 この阿吽の呼吸。 口では「古い」とバカにしながらも、三好は俺の動きを完璧に予測してサポートに回る。それが俺たちのスタイルだった。
「……如月マヤさんですね?」
俺は公衆電話の受話器を置いた彼女の背後に立ち、静かに声をかけた。 彼女の肩がビクリと跳ね上がり、真っ青な顔で振り返る。その瞳には、恐怖と警戒心が張り詰めていた。フックに戻された受話器を、未だ縋りつくように握りしめている指先が震えている。
「ひっ……! だ、誰ですか……!?」
「東都新聞社会部の久住です。……『ルミナ・コープス』の副作用データについて、お話を伺いたい」
「ち、違います! 私は何も知りません!」
彼女が逃げ出そうとした瞬間、横から三好がスッと傘を差し出した。だが、その傘は彼女を雨から守るためというより、周囲の視線を遮る壁のように機能していた。
「声が大きいですよ、如月さん。……落ち着いて周りを見てください。ここはまだ、あんたの会社の目と鼻の先だ。偶然通りかかった同僚、得意先、あるいはあんたを監視している上司……誰に見られているか分かったもんじゃない。あそこのビルの窓から、誰かがこちらを覗いている可能性だってある」
三好の冷ややかな指摘に、彼女はハッとして周囲のビルや通り過ぎる車を怯えたように見回した。俺はさらに声を低くして、彼女の耳元で囁いた。
「ここじゃ壁に耳ありだ。……あそこに停めてある車に来てくれないか。雨も強くなってきた。あそこなら、誰にも見られずに、あんたの『本当の声』を聞ける」
彼女は激しく葛藤しているようだったが、俺の「誰にも見られない」という言葉が、折れかけていた彼女の防衛本能に届いたらしい。
俺は周囲の視線を遮るように彼女の横に並び、静かに車の方を指し示した。三好が傘を深く傾け、彼女の顔が周りのビルから見えないよう、布の壁を作る。
「……わかり、ました」
彼女は消え入りそうな声で呟くと、雨を避ける同僚たちのように自然な足取りを装い、俺たちの後に続いた。
***
社用車の中。
ルーフを叩く激しい雨音だけが、密室の沈黙を埋めていた。 外の世界から切り離された狭い車内で、彼女は深く俯き、膝の上で組んだ両手を強く握りしめている。エアコンの冷気とは違う、彼女が放つ凍りついたような緊張が、車内の空気を重く沈ませていた。
「……怖かったんです。……私が言えば、プロジェクトのみんながどうなるか」
絞り出すような彼女の声に、三好が助手席で静かにICレコーダーのスイッチを入れた。その小さな「カチリ」という音が車内に響いた。
「皆を守るためでもあるんです。……これ以上、被害を広げないために」
俺が静かに促すと、彼女は震える手でバッグの奥底から茶封筒を取り出した。それは、彼女がどれほど長い間、肌身離さず持っていたかを物語るように、端がひどく擦り切れていた。
「……これ、コピーです。原本は、私が管理している鍵付きのロッカーに。……役員の捺印がある、副作用の報告書と、それを『修正』した後の比較リストです」
三好が身を乗り出し、差し出された紙束を素早く、だが慎重に受け取った。彼は車内灯を点け、タブレットのカメラで一枚一枚、鮮明にスキャンしていく。
「……うわ、えぐいな。……第Ⅲ相試験の時点で、重篤な肝機能障害が12件。うち、死亡が2件。……これ、全部『既往症による偶発事象』に書き換えられてるじゃないですか」
三好の指先が、タブレットの画面をなぞる。いつもは冷淡な彼の声が、怒りで僅かに震えていた。データが「数字」から「人の命」へと変わった瞬間だ。
「……バックアップ、取れました。暗号化して社外のセキュアサーバに飛ばします。これで、物理的にこの紙が燃やされても、真実は消えません」
三好がスキャンを終え、俺は差し出された紙束を手に取った。
それは何人もの人生を左右する、あまりに重く、嵩張る「真実」の塊だ。
俺はそれを、常に持ち歩いている使い古したクリアファイルに挟み込み、さらに雨濡れ防止用のビニール袋に包んでから、足元に置いていたビジネスバッグの最も深い仕切りへと滑り込ませた。
「如月さん。……あんたの勇気、無駄にはしない。俺たちが、必ず世に出す」
彼女は、張り詰めていた糸が切れたように、膝の上に置いた両手に顔を埋めて声を殺して泣き始めた。 俺と三好は何も言わず、ただ前を向いたまま、彼女の涙が止まるのを待った。
雨脚はさらに強まり、ルーフを叩く音だけが車内を満たしている。 しばらくして、彼女は震える手で目元を拭い、後部座席のドアノブに手をかけた。
「……お願いします。……私の、最後のわがままなんです」
「あんたの覚悟、確かに受け取った」
彼女は小さく頷くと、傘も差さずに土砂降りの外へと消えていった。バックミラーに映る彼女の背中が、雨のカーテンの向こうに霞んでいく。
「……行きましょう、先輩」
三好の言葉に、俺は深く頷いた。
***
それから数時間後。
日付が変わろうとする頃、俺たちはガード下の焼き鳥屋『赤提灯』にいた。
「いやー! 終わった、終わりましたね! 出しましたよ、原稿!」
三好がジョッキを高く掲げ、上機嫌で叫んだ。テーブルの上には、焼き鳥の皿と、ビールの空き瓶が並んでいる。
会社に戻り、叩きつけるように書き上げた4000字。三好が解析した裏付けデータ。それらを詰め込んだ特ダネの原稿は、今頃デスクの端末で揉まれているはずだ。
「先輩のあの『あんたの勇気、無駄にはしない。俺たちが、必ず世に出す』格好良かったっすわー」
「うるせえ。お前の、『これで、物理的にこの紙が燃やされても、真実は消えません』も完全に決め顔だっただろ」
俺が笑いながらジョッキを煽ると、三好も「やめてくださいよ先輩!」と無邪気に笑い、ねぎまを頬張った。
ビールの冷たさが、数時間前までキーボードを叩き続けていた指先と、極限まで張り詰めていた喉に染み渡る。
「……でも、本当によかった」
三好がふと少し真面目な顔になり、グラスの結露を指でなぞった。
「僕、新聞記者になってよかったっす。こんな……世界がひっくり返る瞬間に立ち会えるなんて。 最初は『新聞なんてオワコンだ』って思ってましたけど、先輩みたいな泥臭いやり方も、悪くないっすね」
「まだひっくり返ってねえよ。デスクが首を縦に振って、整理部が紙面を組んで、最終版(14版)の輪転機が回るまではな」
俺はジョッキに残ったビールを飲み干した。
原稿は投げた。だが、まだ「最終確認」の連絡は来ていない。深夜二時の完全締め切りまで、あとわずか。巨大企業エイジス製薬を敵に回すこの記事が、無事に紙面を飾れる保証はどこにもなかった。
「分かってますって。……でも先輩、あれが一面トップを飾ったら、今年の新聞協会賞、マジで僕らのもんですよ。僕、スピーチの練習しときますから」
「気が早えよ」
俺たちが組めば、どんな闇も切り裂ける。 そう、本気で思っていたのだ。この雨が、すべてを洗い流してしまうまでは。
店の外では、雨脚がさらに強まっていた。
遠くで、街の喧騒を切り裂くような警鐘の音が、パトカーか救急車か……不穏なリズムを刻みながら、こちらへ近づいてくるような気がした。
(File.16 了)




