File.14:更新される未稿箱
【記録者:久住 瑛一】
【記録日:20XX年 12月31日】
午後3時。 世間は仕事納めを迎え、新宿の街も浮ついた安息の空気に包まれている。だが、この薄暗い事務所だけは、年末の喧騒から断絶されていた。
俺は、首筋に貼られたガーゼの上から、抜糸前の傷口を指先で無意識に弄っていた。 6日前、真壁圭と対峙した時に突きつけられたナイフの痕だ。かさぶたを剥がすような自虐的な手癖。ズキリとした痛みが、俺が背負った罪の重さを思い出させる。
「……久住さん。『患部への接触過多』です」
静寂を破り、メインモニターに相棒の『アイ』が浮かび上がる。
逃亡中、型落ちのサブノートPCに圧縮されて不機嫌な『ミニキャラ』になっていた彼女も、今は愛機であるこのハイスペックなメインPCへと無事帰還していた。
ローポリゴンの姿を消し、滑らかな高解像度のテクスチャを取り戻している。 本来の姿に戻り、純白のボディスーツに身を包んだ彼女は、呆れたように俺の首元を指差した。
「そうやって傷口を弄ってばかりいるから、治癒プロセスが停滞するのです。……バイタルデータも低下したまま。まだ、あの雨の夜を引きずっているのですか?」
「うるさいな。傷が痒いだけだ」
俺が視線を逸らしたその時、無機質な電子音が部屋に響いた。ドアのインターホンだ。
「……チッ。誰だ、こんな年末に」
アイが空中で指を弾き、監視カメラのウィンドウを俺の前にスライドさせる。
「……久住さん。来客です。事務所前の監視カメラに、仏頂面の生体反応あり」
画面の向こうで、カメラを不機嫌そうに睨みつけている男。先日、俺が雨の中へ飛び出した際に立ちはだかり、最後にはその尻拭いをしてくれた腐れ縁、仙崎だった。
「……居留守を使え」
「無理です。既に『ピッキング対策はどうなってる』と独り言を言いながら、ドアノブに手をかけています」
ガチャリ。
鍵がかかっていないドアを無遠慮に開けられた。 冷たい冬の風と共に、コートに染みついたタバコの匂いが部屋に入り込んできた。
「よう、詐欺師先生。相変わらずゴミ溜めみたいな部屋だな」
仙崎はズカズカと上がり込むと、コンビニ袋をデスクに置いた。 ゴトリ、と重い音がする。 中身は缶コーヒーと、茶封筒だ。
「……何の用ですか。真壁の件なら、調書は終わったはずでしょう」
「いや、仕事の依頼だ」
仙崎はニヤリと笑い、茶封筒から一つのUSBメモリを取り出した。 薄汚れたUSBメモリは先端のキャップがなくなっていた。
「今朝、管轄内の雑木林で首吊り遺体が見つかった。身元は判明してる。遺書もあったし、事件性はなし。……もう処理済みのヤマだ」
「なら、なんでここに?」
「引っかかるんだよ。仏さんは死ぬ直前まで、このメモリを右手に強く握りしめていた。死後硬直を解くのが大変なほどにな」
仙崎はタバコを吹かし、苦い顔をした。 吐き出した煙が、汚れた部屋の天井へと昇っていく。
「鑑識にも回したさ。だが、出てきたのは風景写真ばかり。『特に異常なし』で返ってきた。……警察はこれ以上、事件性のない遺留品に予算も時間も割けねえ。明日には遺族に返還されちまう」
「なるほど。組織としては終わりだが、刑事の勘が『まだ何かある』と告げているわけか……」
「……その通りだ。公式に動けないなら、非公式にやるしかねえ。お前のとこの優秀なAIなら、鑑識が見逃した『裏のデータ』が見えるんじゃないかと思ってな。ちなみに、仏さんの職業はSEだったそうだ」
仙崎がニヤリと笑い、視線をモニターへと向けた。
すると、それまで画面の中央で浮遊していたアイが、仙崎と目が合った瞬間にサッっと身を翻し、デスクトップに展開されていたブラウザウィンドウの陰へと隠れてしまった。
顔を半分だけ出して、警戒するようにこちらを覗いている。
「久しぶりに来てみたら……嫌われちまったか?」
仙崎が目を丸くする。俺は呆れてモニターを見上げた。
「……アイ?」
「い、いえ、そういう訳では、ないです。……ただ、久住さん以外の人とは話す機会が、その……極端に少ないので……」
アイはしどろもどろになりながらウィンドウの奥へと顔を引っ込めた。
「AIもコミュ障とかあるのかねえ、この前会った姪っ子と同じ反応だ」
仙崎が可笑しそうに肩を揺らすと、その言葉に反応したアイが、ウィンドウの陰からバッと飛び出してきた。
「……そ、そんな事はありません! ただ、対人インターフェースの学習データが偏っているだけで、慣れてないだけです!」
早口で弁解しながら、彼女のヘアピンが赤く恥ずかしげに明滅している。
「ハッ、随分と人間味のあるAIだな。久住とのやり取りでここまで成長したのか?」
仙崎が俺の方を見て、からかうように微笑む。俺は小さく鼻を鳴らして、話を強引に戻した。
「……で、依頼ってのはそのUSBか」
俺は額に張り付いたまま乾ききっていた冷却シートを剥がし、ゴミ箱へ投げ捨てた。引き出しから新しい一枚を取り出し、慣れた手つきで額にピシャリと貼る。冷たさが、停滞していた思考をクリアにしていく。
俺はデスクの上のUSBメモリを手に取った。
「……アイ。スキャンしろ。単純な隠しファイルじゃ鑑識は騙せない。もっと深い、画像偽装か、あるいは削除領域の残留データだ」
「了解。……解析、開始」
アイが空中で両手を広げると、彼女の周囲に膨大なバイナリコードの奔流が渦巻いた。 彼女は重力のないデジタル空間を遊泳するように身を翻し、データの海へと潜っていく。
――数秒後。
彼女のスーツを走る青いラインが、一瞬だけ強く輝いた。
「……解析完了。画像のバイナリデータ内に、不自然なパターンの暗号化領域を検知。展開します」
アイが指先で空中のコードを切り裂くと、一つの動画ファイルが生成された。 再生ボタンを押すと、そこには生前の男性が映っていた。 背景はどこかの山頂のようだ。 風の音。荒い息遣い。
『……えー、遺言です』
男性は息を切らしながらも、どこか晴れやかな顔でカメラに語りかけていた。
『俺、病気で余命宣告されちゃってさ。病院で死ぬのは嫌だったんだ。だから、最後に日本中の「絶景」を見て回ることにした。ここが最後と決めた場所。……最高に綺麗だ』
男性はカメラを回し、眼下に広がる雲海を映す。 朝焼けが、雲を黄金色に染めている。
『満足したよ。俺の人生、悪くなかった。……母さん、父さん。勝手に消えてごめん。俺はここで、一番いい景色のまま終わるから』
動画はそこで終わっていた。 自殺ではない。 あるいは、積極的な安楽死に近い、最期の旅路の記録だった。
「……なんだ。ただの『エンディングノート』じゃないか」
俺は肩透かしを食らった気分で言った。
「これを遺族に見せればいい。事件性なし。感動的な最期だ」
「……そうか」
仙崎は腕を組み、難しい顔をした。 眉間の皺が深くなる。
「だがな、久住。遺族は『息子は借金苦で自殺したに違いない』って自分たちを責めてるんだ。……もしこの動画を見せれば、『病気のことに気づいてやれなかった』って、今度は別の後悔で一生苦しむことになるかもしれんぞ」
俺は仙崎を見た。 この強面の警部は、俺のやり方を試しているのだ。 真実は時として、遺された人間を殺す凶器になる。 俺はそれを、誰よりも知っている。
「……アイ。この動画の音声データ、編集できるか?」
「可能です。何をさせたいのですか?」
アイが小首をかしげる。 純白のボディスーツが、モニターの光を受けて淡く輝いている。 俺は少し考えた。
「『病気』や『余命』に関する単語をカット。代わりに、環境音のノイズを被せて……『借金』を匂わせるフェイクの独り言を合成しろ」
その瞬間。
――ビッ。
警告音と共に、アイの瞳孔が収縮した。 透き通るような白髪の毛先と、ボディスーツを走る光のラインが、倫理的なパラドックスを検知して、警告色の『赤』へと一瞬で変化する。
「……久住さん。推奨されません。『幸福』の定義において重大な矛盾が発生しています」
赤く発光するアイが、困惑したように声を上げる。
「被写体は『満足』を表明しています。このポジティブな真実を隠蔽し、ネガティブな虚偽(借金苦)を捏造することは、遺族の総幸福量を著しく損なう恐れがあります」
「違うな。遺族が今信じているのは『借金苦で死んだ』というストーリーだ。それを肯定してやった方が、彼らは『仕方なかった』と諦めがつく」
俺は仙崎に向き直った。
「……息子は最期まで、親に心配かけまいと借金のことを隠して、一人で逝った。そういう『親孝行な嘘つき』にしてやるのが、一番の供養だろ」
仙崎はニヤリと笑い、机に置かれたコンビニ袋から缶コーヒーを取り出し開けた。 カシュッ、という音が小気味よく響く。
「……やっぱりお前は、いい性格してるよ。三流ライター」
モニターの中、アイの赤い警告色が明滅を続けている。 彼女は、俺と仙崎の顔を交互に見つめ、そして空中に浮かぶ「真実の動画」を見つめた。
「……計算、再試行」
アイが呟く。 彼女は目を閉じ、膨大なシミュレーションを脳内で走らせているようだった。 真実を伝えた場合の、両親の生涯にわたる後悔係数。 嘘をついた場合の、一時的な悲しみと、その後の納得による精神安定度。
やがて。 彼女のスーツの色が、赤から、ゆっくりと穏やかな青色へと戻っていった。 それは単なるシステム復旧ではない。 彼女自身が、論理を超えた答えを選び取った色だった。
「……理解しました」
アイが静かに目を開ける。 その瞳には、もう迷いもエラーもなかった。
「真実のログは美しくとも、鋭利すぎます。……遺された人々の心を保護するためには、あえて解像度を下げた『優しい嘘』でラッピングする必要がありますね」
彼女はふわりと微笑み、空中に展開した音声波形に、自ら指を這わせた。
「お任せください。……世界で一番、優しい嘘に仕上げます」
彼女の繊細な指先が動くたびに、青い光の粒子が舞い、残酷な真実が、親を思う優しい嘘へと書き換えられていく。それは、彼女が初めて「論理」ではなく「心」で選択した、共犯の作業だった。
数分後。
アイの手によって生成された『偽りの遺言』――いや、世界で一番優しい嘘のデータが、USBメモリに上書きされた。
「……できましたよ、どうぞ。……これで借りは返しましたからね」
俺はUSBを放り投げた。
仙崎はそれを片手でパシリと掴み取ると、ポケットにねじ込んだ。
「ああ、恩に着る。……これで遺族も、少しは救われるだろう」
仙崎は立ち上がり、コートの襟を立てた。そして、帰り際にデスクの上に置いたままだった缶コーヒーの袋を指差した。
「そいつは礼だ。……ま、来年もまた厄介なネタを拾ったら、ここに捨てに来てやるよ」
「勘弁してくれ。ここはゴミ処理場じゃない」
「ハッ、違いない」
仙崎はニヤリと笑い、片手を挙げて背を向けた。
事務所のドアがガチャリと閉まる。
嵐が過ぎ去ったように静まり返り、部屋には再びPCのファンの音と冷たい雨音だけが残された。
俺は深く息を吐き出し、椅子の背もたれに体重を預けた。どっと疲れが出た。首の傷が、脈打つように疼く。
「……行っちゃいましたね」
モニターの中、アイがポツリと呟いた。
彼女は仙崎が出ていったドアの方角を少し寂しげに見つめた後、視線を俺に戻した。
「……久住さん。今年も、残り数時間ほどで終了します」
「ああ。……長い一年だったな」
俺は天井を見上げた。
本当に、色々なことがあった。
ジャンクPCを解析し、深夜に他人のPCをハッキングし、時には命がけで逃げ回り、そして……7年越しの過去と決着をつけた。
この薄暗い部屋で、俺たちは数え切れないほどの「嘘」をつき、そしていくつかの「真実」を闇に葬ってきた。
「はい。私のデータベースも、この1年で大幅に拡張されました」
アイが空中でくるりと一回転し、自身の周囲に無数のメモリログを展開する。
そこには、これまで関わってきた事件の断片がキラキラと輝いていた。
「最初は理解不能な事ばかりでした。人間は非効率で、矛盾していて、すぐに嘘をつく。……ですが」
彼女は浮遊したまま、胸の前でそっと手を組んだ。その緑色の瞳が、以前より少しだけ深く、柔らかい光を宿しているように見えた。
「今の私には、その『非効率』の意味が少しだけ理解できます。……誰かを守るための嘘。自分を奮い立たせるための虚勢。悲しみを乗り越えるための忘却。……それらすべてが、人間を構成する大切な機能なのですね」
「……随分と賢くなったもんだ」
俺は苦笑し、仙崎が礼として置いていった缶コーヒーを開けた。
かつては「理解不能です」と首をかしげていたAIが、今では俺と一緒に嘘をつく共犯者になっている。
「久住さんとの対話学習のおかげです」
アイはふわりと微笑み、画面越しにぺこりと頭を下げた。
「……来年も、サポート契約を更新してくれますか? まだまだ、学習したい『人間のバグ』がたくさんありますから」
その言葉に、俺は少しだけ目を見開いた後、フッと口元を緩めた。
契約、か。
俺の寿命が尽きるか、こいつのサーバーが飛ぶか。どちらが先かは分からないが、腐れ縁はまだ切れそうにない。
「……ああ。お前が俺の財布を燃やし尽くさない限りはな」
「善処します。……では、来年もよろしくお願いしますね、久住さん」
アイの左前髪を留めた三角形のヘアピンが、心臓の鼓動のように温かく、青く明滅した。
俺は新しいエディタを開いた。
タイトルはまだない。だが、来年もきっと、このキーボードで「優しい嘘」を綴ることになるのだろう。
窓の外では、冷たい雨がいつの間にか霙へと変わっていた。静かな冬の音が、事務所を優しく包み込んでいく。
俺はキーボードに指を置き、今年最後のログを静かに打ち込んだ。
(File.14 了)




