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File.13:暴かれた未稿箱(4/4)

【記録者:久住 瑛一】

【記録日:20XX年 12月25日】


 ワイパーが激しい雨を左右に弾く。白いコンパクトカーは、聖夜の喧騒を離れ、街外れの暗い峠道へと差し掛かっていた。助手席に置いたサブノートPCの画面の中で、赤く光るミニ・アイが悲しげに眉を寄せる。


「……アイ。警察への匿名通報の準備は?」


 俺の問いに、アイは一瞬のタイムラグを置いて答えた。


「……完了しています。……ですが、久住さん。本当にいいのですか? ……タイミングがシビアすぎます。……一歩間違えれば、警察が到着する前に貴方が本当に殺されますよ。……私の演算では、生存確率は極めて低いです」


「構わん。これが、嘘つきの落とし前だ」


「……久住さん、貴方には守るべき人がいる事を忘れないでください」


 脳裏に、家族の笑顔が一瞬だけ浮かんだ。


「……わかってるよ」


 ハンドルを握る手に力がこもる。 7年前、真実から逃げるために重ねた『優しい嘘』。それが真壁を壊し、今日この惨劇を招いた。ならば、その幕を引くのも俺の責務だ。


 ***


 辿り着いたのは、山深い森に覆われた『クオリア・メソッド』の跡地だった。


 5年前の『ある事件』をきっかけにクオリア・メソッドの本部に警察の家宅捜査が入った。暴力・恐喝・傷害・殺人…数々の犯罪が露見され、その悪質性から後に教団解体命令が出された。


 事件が明るみになるにつれて被害者の会など裁判が行われ、日本各地にあった教団の施設は被害者への賠償に充てられるため競売にかけられた。だがその禍々しい歴史のせいか買い手はつかず、建物は腐るままに放置されていた。


 ヘッドライトが、敷地の斜面を照らす。 先日の土砂崩れで地盤が抉り取られ、真壁の姉が最後にいたというプレハブ小屋の跡地は、今はもう泥の海に沈んでいる。張り巡らされた黄色の規制線が、雨の中で無機質に揺れていた。


 俺は車を降り、重い鉄扉をこじ開けて本館へと入った。 カビ臭い空気と、過去の祈りの残骸が漂う廊下を、スマホのライトを頼りに進んでいく。


 突き当たりにある重厚な扉を開けた瞬間、俺の目は暗闇の中に浮かぶ「一点」に釘付けになった。


 天井の剥げ落ちた礼拝堂。その中央、崩れかけた祭壇の上に、それはあった。


 時折走る雷光を浴びて、鈍い赤色を放つ――『赤いイルカのメタルキーホルダー』だ。


 7年前、俺が真壁に『真実』を伝えられなかった残骸。


 俺は、その不気味な輝きに引き寄せられるように、一歩、また一歩と礼拝堂の奥へと足を踏み入れた。


 その時だ。


 ガチャンッ!!!


 背後で重い金属音が響いた。 勢いよく閉ざされた扉に、太い金属のかんぬきが叩き込まれた。


「っ!しまっ……」


 脳裏に、かつてネットカフェで目にしたあの『処分者リスト』と『現場報告書』の記述が、おぞましく鮮明にフラッシュバックした。


 あの報告書には、組織への裏切り行為を行った者へ『尋問』と称した凄惨な『拷問』を行った記録が克明に記されていた。そして、その執り行われた場所こそが――教団の各施設にある礼拝堂だった。


 マニュアル化された『尋問』の手順の中に、「逃げ出さないよう必ず礼拝堂の扉に閂をする」という冷徹な一文があったのを、今更のように思い出したのだ。


 俺は弾かれたように振り返ったが、そこには既に「退路」はなかった。


 閉ざされた扉の前には一人の男が立っていて、ゆっくりと振り返る。


 真壁だ。


 真壁は俺の横をすり抜け、キーホルダーが置かれた祭壇へとゆっくりと歩み寄る。


「……来ましたね、先生。直接お会いするのは、ずいぶん久しぶりですね……」


 背を向けたままの真壁の声は、記憶にあるものよりずっと低く、そしてひび割れていた。


 真壁は、祭壇に置かれていたキーホルダーを大事そうに手に取り、そっとポケットへとしまった。


「……真壁、もうやめるんだ」


 俺の言葉に、真壁がゆっくりとこちらを振り向いた。逆光で顔はよく見えないが、その瞳だけが異常なほど鋭く、濡れたように光っている。


「……じゃあ、僕はどうすればいいんですか……?」


 真壁の一歩が、埃の積もった床を軋ませる。


「7年間、必死に探し続けていた姉さんは、とっくに死んでいた。警察から聞きましたよ。正確な死亡推定時刻を調べるには時間がかかるが、遺体の状態からして、少なくとも死後数年は経っていると……。……久住先生」


 真壁の言葉が、鋭い刃となって俺の胸に突き刺さる。


「いつから知っていたんですか? 姉さんが死んでいたのを。7年間一度も更新されなかったクラウドストレージ……もしかしてあの日。僕のことを『共犯者』と言ってくれた、あの時にはもう、知っていたんじゃないですか?」


「それは……」


 声が詰まる。否定したかった。だが、あの日、俺が彼の瞳に宿る危うい光を恐れ、真実を喉元で押し殺したのは事実だ。


「何故、何故あの時に教えてくれなかったんですか……! そうすれば、あの時ならば、僕は教団へ復讐することもできた。あいつらを地獄へ送ることだってできたのに……!」


「復讐なんてさせたくなかった。お前に……人殺しになってほしくなかったんだ」


「そんなの、先生のエゴだ!」


 真壁の叫びが、礼拝堂の天井に反響する。


「この7年間、姉さんを探して、絶対どこかで元気でいると信じて……! もしかしたら、もうこの世にいないかもしれないって思うことがあっても、あの時の先生の言葉を信じて、僕は探し続けたんだ!」


 真壁の肩が震えている。


「……先生……僕はどうしたらいいんですか……? この、ぶつけようのない怒りや悲しみを、一体何にぶつければいいんですか……?」


「……俺だ。俺にぶつければいい、真壁。お前を今日まで縛り付けたのは、俺の傲慢な嘘だ。俺がすべてを引き受ける。だから……」


「そんな綺麗事を言われても、僕の心は安らがない……もう、安らぐことができないんです……。苦しい……。胸の奥が、ずっと焼けるように熱くて、痛いんだ……」


 真壁は力なく笑い、ゆっくりと懐に手を差し入れた。 チャキッ、と金属が擦れ合う冷たい音が礼拝堂に響く。


 その瞬間、窓の外で激しい雷光が走った。 一瞬だけ白く塗り潰された視界の中で、真壁の手に握られた折り畳みナイフが、ギラリと凶悪な光を放つ。


 再び訪れる濃い闇。俺の目には、もはや真壁の姿さえ定かではない。耳元で、アイの悲痛な叫びが響く。


『……久住さん! 彼の動体反応が加速しました! 避けてください!』


「……だから……もう……終わりにしましょう、先生。僕も、あなたも。この『嘘』から始まった物語を、ここで」


 暗闇の中、埃を舞い上げる足音。 雷光の残像を切り裂くようにして、真壁が真っ直ぐに俺の胸元へと突き進んでくる。


「真壁……っ!」


 俺は咄嗟に身を翻したが、完全に避けることはできなかった。 右腕に、冷たく鋭い「線」が走る。遅れてやってきた熱い痛みが、俺の思考を一気に現実へと引き戻した。


 真壁が俺の胸ぐらを掴み上げ、そのまま礼拝堂を支える石柱へと叩きつけた。


 ゴッ!


「ぐっ……!」


 後頭部を打ち付け、意識が遠のきそうになるのを必死に食い止める。


「が、はっ……」


 喉元に、冷たい金属の感触。


 ナイフの切っ先が、頸動脈のすぐ横、顎の付け根から首筋に伸びるラインに突きつけられていた。既に刃先は薄皮を裂き、首筋を熱く濡らす血の筋が、シャツの襟元へと吸い込まれていく。


「見てくださいよ、これ!!」


 真壁はナイフを突きつけたまま胸ぐらを掴んでいた手でポケットからキーホルダーを取り出し、俺の顔の前に突き出した。 降り注ぐ雨漏りの匂いと、何かが焦げたような死の臭気が鼻をつく。


「先月、土砂崩れの現場から出てきたんです。姉さんの骨と一緒に! 僕がこの7年、お揃いのキーホルダーを握りしめて『姉さんは生きてる』って祈っていた間……姉さんはずっと、冷たい土の中で、この赤いキーホルダーと一緒に焼かれて埋まってたんですよ!!」


 真壁の目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。


「……信じていたのに。7年前、あなたが『姉さんは逃げた』って言ったあの時……本当は、もう全部知っていたんじゃないんですか…?」


 グイ、とナイフの圧力が強まる。


 痛みよりも、彼の悲鳴のような問いが胸を刺す。もう、隠しても無駄だ。俺は掠れた声で、最期の懺悔を口にした。


「……ああ。知ってたよ」


 真壁の手が激しく震え、刃が横に滑って肌の表面をじりじりと削る。 焼けるような痛みが走るが、俺は逃げなかった。


「あの時……俺は佐伯からデータを買った。そこには『処理済み』のリストと……あの、熱で変色したキーホルダーの写真があった」


 真壁の表情が歪んでいく。


「想像してみろ。まだ大学生だったお前に、あんな変わり果てた姉の姿を見せられたか?……いや、違うな。俺は、絶望するお前を直視したくなかったんだ。 ……お前を守るという口実で、俺は自分自身を守ったんだ」


「……ッ!!」


「お前に『希望』という名の麻薬を売りつけて、俺は『善人』のフリをした。……今日、俺はその落とし前をつけに来たんだ」


 これは「優しい嘘」なんかじゃない。俺のエゴが生んだ、必然の報いだ。 ……だが、ここで無責任に目を閉じるわけにはいかない。娘のみなみに見せている「ヒーロー」という嘘を、最後まで演じ切る責任が俺にはある。さっき車の中で、アイにそう誓ったばかりじゃないか。


 俺の告白を受け、真壁の顔が激しく歪んでいく。


「……ふざけるな。希望なんていらなかった。……いっそあの時、僕を絶望の底に突き落としてくれればよかったんだ!!」


 真壁が絶叫し、ナイフを大きく振りかぶった。雷光を受けて、刃が白く閃く。


 死の予感が脳を焼く。だが、まだ終わらせるわけにはいかない。「ヒーロー」を、最後まで演じ切るために。


 生へと抗おうとした、そのコンマ数秒――。


 耳のインカムから、アイの切迫した声が響いた。


『――仙崎警部から「突入」の合図を受信! ……衝撃、来ます!!』


 ガァンッ!!!


 礼拝堂の重厚な扉が、外部からの「破城槌バタリングラム」で強引に打ち破られた。


 轟音と共に扉が歪み、隙間から黒い筒状の物体がコロコロと床を転がってくる。


「え……?」


 真壁の視線が、足元のそれに釘付けになった瞬間。


 カッ!!!!


 ドォォォォンッ!!!!


 視界を全て白く染め上げる強烈な閃光フラッシュと、鼓膜を突き破るような爆音。 閃光音響手榴弾スタングレネードだ。


「あ、がぁぁぁっ!?」


 平衡感覚を完全に失った真壁が、悲鳴を上げて両手で耳を塞ぎ、よろめく。 振り上げられていたナイフが、力なく空を切り裂いた。


突入ゴーッ!!!」


 SIT(特殊捜査班)の部隊が雪崩れ込んでくる。 彼らは躊躇なく、よろめく真壁に向かってジュラルミンの大盾(ライオットシールド)を叩きつけた。


 ドォンッ!!


「確保ォ!!」


 真壁の体が弾き飛ばされ、地面に押さえつけられる。 ナイフが遠くへ滑っていく。 俺も衝撃と轟音で耳がキーンと鳴り響く中、這うようにしてその場を離れた。


「……遅ぇよ、派手にやりやがって……」


 盾を持った隊員たちの後ろから、防刃ベストを着込んだ仙崎がゆっくりと歩み寄ってきた。


「人質の安全確保。……ったく、ギリギリまで粘りやがって」


 仙崎は俺の顔を覗き込み、何かを言った。だが、耳鳴りのせいでよく聞き取れない。俺の虚ろな反応を見た仙崎は、呆れたように自分の耳をトントンと叩き、続けて両手で目と耳を塞ぐジェスチャーをして見せた。


「耳、イカれたか? 『突入するから目と耳を塞げ』ってメール送ったはずだがな」


 仙崎の声が、くぐもって聞こえる。俺は苦笑して、弱々しく首を振った。


「……あいにく、スマホを見る余裕がなくてな。優秀な相棒ナビがいなけりゃ鼓膜が破れてた」


 俺は震える手でポケットを探った。タバコは無残に潰れてしまっている。


 仙崎はしゃがみ込み、俺の手から潰れた箱を取り上げると、自分のタバコを一本差し出した。無言で突き出された火で、俺は深く吸い込んだ。 血の味と混ざった煙が、肺の奥まで落ちていく。


「……死ぬ気だったのか? 抵抗した痕跡がねえぞ」


「……さあな。プロット通りにいかないのが、現場の面白さだろ」


 煙を吐き出し、俺はよろめきながら立ち上がった。 連行されていく真壁とすれ違いざま、俺は彼に近づき、小声で囁いた。


「……姉さんのキーホルダー、最期まで強く握りしめられていたらしいぞ。現場写真で見た。……これは、嘘じゃない」


 真壁の目から、再び涙が溢れ出した。薄汚れた頬に、新しい白い筋ができる。 彼のポケットに入った2つのイルカが、ようやく再会できたことを喜ぶように、優しくカチャカチャと音を立てていた。


 ***


 数時間後。


 窓の外では雨が雪へと変わり、夜明け前の病院は深い静寂に包まれていた。

 

 搬送先の病室。天井の無機質な白さを眺めていると、遠くのナースステーションからかすかな足音が聞こえてくる。


 首の傷は数針縫われ、石柱に叩きつけられた後頭部には脳震盪の疑いがあるとのことで、一晩の経過観察を言い渡されていた。


 コンコン、と遠慮のないノックが響き、ドアが開く。


 入ってきたのは、防刃ベストを脱ぎ、ヨレヨレのシャツの袖を捲り上げた仙崎だった。その顔には、一睡もせずに夜を明かした男特有の、ひどく煤けた疲労が張り付いている。


「……災難だったな。麻酔は切れたか?」


 仙崎が呆れた顔で俺を見下ろす。彼はパイプ椅子を引き寄せると、乱暴に腰を下ろした。


「真壁圭……あの時の大学生だよな」


「……ああ……」


 仙崎は、肺の奥にあるおりを全て吐き出すかのような、長く重い溜息をついた。


「真壁は『久住の熱心なファンで、創作ノートを盗み見て犯行を思いついた』と供述してるぞ。 ……お前、連行される間際に、あいつに何を吹き込んだ?」


「事実を言っただけですよ」


 俺は首を少し動かそうとして、ズキリとした鈍い痛みに顔をしかめた。


「あいつはただの、現実と虚構の区別がつかなくなった哀れな読者だ。俺のボツ原稿を見て、悪い夢を見ちゃっただけですよ。……そう調書に書いといてくださいよ、警部さん」


 仙崎は深くため息をつき、ポケットを探った。だが、ここが病室であることを思い出したのか、舌打ちをして空の手を戻す。


 彼は俺の意図――真壁を「復讐からの確信犯」ではなく「精神的に不安定な模倣犯」として扱い、少しでも情状酌量の余地を残そうとしていること――を、その鋭い観察眼で正確に察したようだった。


「……貸し一つだぞ、久住。『うえ』を納得させる報告書を書くのは俺なんだからな」


 仙崎はそう言って、投げやりな仕草で自分の首の後ろをさすった。


 本来なら「教団への怨恨による計画的殺人未遂」として処理すべき案件を、わざわざ「不安定なファンによる模倣犯」へとトーンダウンさせて報告するには、それなりの「筆力」と「根回し」が必要になる。


「ええ、分かってますよ」


 仙崎は立ち上がると、ドアのところで一度だけ振り返り、鼻を鳴らした。

 

 パタン、とドアが閉まり、再び病室に静寂が戻る。


 カーテンの隙間から差し込む光が、少しずつ青白く染まり始めていた。

 

 これで、俺がついた『最後の嘘』が完成した。


 かつて俺がついた「優しい嘘」は一人の青年の人生を狂わせたが、この「卑怯な嘘」は、せめてあいつの未来に、ほんのわずかな光を遺せるだろうか。


 ***


 翌日。


 右腕の裂傷と首筋の傷を処置され、俺は病院の硬いベッドの上でノートPCを開いている。


 耳元のインカムから、アイの静かな声が届いた。


『……久住さん。指示通り、共有ストレージにおける真壁の全アクセス権限を削除、およびパスワードの無効化を完了しました。今後、彼が外部からこの領域に触れることは二度とありません』


「……そうか。ありがとう」


『ただ……今まで彼が共有した調査資料、プロット、そしてあの「ゴミ箱」のデータについてですが。……本当に、このまま保管しておいても良いのですか? 警察に提出すれば、彼の罪を軽くする証拠に……』


「いや、いい。これは提出用じゃない。あいつが7年間、どんな思いで『物語』を書き続けてきたか……その熱量と狂気は、俺が持っておくべきだ」


 俺はキーボードを叩き、真壁との「共同制作」という名の呪縛だったフォルダに、『保管:04_真壁圭』という名前をつけた。


 嘘は麻薬だ。一時的に痛みを忘れさせるが、根本を治癒することはない。


 俺が7年前に処方した「優しい嘘」は、あいつの時間を止め、歪ませた。だが、あいつが最後に遺したプロットの末尾には、こう書かれていた。


【追記:12月25日 00:05】

本当は、先生に、止めてほしかっただけなのかもしれない。


 あいつは、自分が怪物になっていくのを、誰よりも自覚していた。そして、自分をこの現実に引き戻せるのは、かつて「希望」という名の嘘をくれた俺しかいないと信じていたのだ。


「アイ。この記事を書き上げたら、少し休むよ」


 俺がそう呟くと、画面の中のミニ・アイは、労いの言葉をかける代わりに、無機質な視線を俺の首元に投げかけた。


『……首の傷、それなりに痛むはずですが。鎮痛剤、追加しましょうか?』


「……いい。少し痛むが皮一枚裂けただけだ。……でも、このくらいの痛みがないと、自分がしでかしたことの重さを忘れちまいそうだからな」


 自嘲気味に笑う俺に、アイは短く、鼻で笑うようなノイズを返した。その瞳には、呆れと、隠しきれない微かな憂いが混ざっている。


『……感傷的ですね。たった数センチの傷で、7年分の重みが相殺できるとでも? 私の演算では、到底釣り合いは取れません。』


「……厳しいな、相変わらず」


『事実を言っているだけです。……でも、そんなふうに自分を痛めつけても、真壁が救われるわけではありません。もし本当に「落とし前」をつけたいのなら、まずはプロのライターとして、その記事を最後まで書き上げることです』


 画面の中で、アイが少しだけ表情を和らげ、腕を組んだ。


『それから……せっかくの入院生活なんですから、これを機に少しは規則正しい生活にしてみてはどうですか? 病院の食事を摂り、夜は早めに眠る。……今のあなたに必要なのは、感傷に浸ることではなく、次の真実に向き合うために1日でも早く怪我を治すことです』


 厳しい指摘の裏にある、彼女なりの不器用な気遣いが伝わってきた。


「……規則正しい生活、か。お前に管理されるなら、案外悪くないかもしれないな」


『ええ、徹底的にサポートしますよ。……さあ、手を止めないで。あと10分。書き上げることが、今の久住さんができることです。』


 俺は苦笑し、再びキーボードを叩き始めた。


 首筋の傷はじりじりと熱を帯びているが、アイの小言のおかげで、余計な感傷は雪と一緒に溶けていった。


 雪の降る空の下、俺が綴る最後の一行は、誰かを救うためでも、自分を許すためでもない。


 明日もまた、この相棒と共に「嘘」を書き記していく。


(File.13 了)

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