File.10:暴かれた未稿箱(1/4)
【記録者:久住 瑛一】
【記録日:20XX年 12月21日】
午前3時。世間が週末のクリスマスに向けて浮かれ始めている頃。静まり返った事務所は、冷え切ったコンクリートの冷気で満たされている。PCのファンが低い唸りを上げ、時折、古い冷蔵庫がコンプレッサーの振動でガタガタと震える音だけが響く。
「……久住さん。そのファイル、本当に削除していいのですか?」
メインモニターの中、『アイ』は不服そうに頬を膨らませていた。
純白のボディスーツに身を包んだ彼女は、重力のないデジタル空間で、ある「ファイルアイコン」を両手で抱えるように持っている。まるで、壊れやすいガラス細工でも扱うような手つきだ。透き通るような白髪の毛先と、スーツを走る青いラインが、データの質量を感じているかのようにゆっくりと明滅している。
画面には、書きかけの記事が表示されている。
『杉並区公園バラバラ殺人事件:被害者の左手首に結ばれた赤いリボンの意味とは?』
「……ボツだ。リアリティがありすぎる」
俺は吐き捨てるように言い、手元の缶コーヒーをあおった。常温に戻った黒い液体が、カフェインで荒れた胃壁をチリチリと焼く。 最近はもう、コーヒーの味などしない。ただ脳を叩き起こすための泥水を流し込んでいる感覚だ。
「犯人の心理に同調しすぎた。こんなものを世に出せば、模倣犯が出かねない。ただの『胸糞悪い妄想』として処理する」
俺はマウスを操作し、カーソルをアイの手元へ伸ばした。彼女は抵抗するように少し身を引いたが、システム上の命令には逆らえない。 俺は強引にアイコンを奪い取ると、クラウド上の――暗い深淵にある『未稿箱』へとドラッグ&ドロップした。
カチッ。
このフォルダには、俺が「記事にできなかった」――あるいは「しなかった」闇が眠っている。誰にも見られることのない、電子の墓場だ。
「……了解。アーカイブへの登録をキャンセルします」
アイは空になった両手を見つめ、小さく肩をすくめた。彼女の姿が粒子となって消え、モニターがスリープモードに入る。部屋がふっと暗くなる。
俺は額に張り付いた冷却シートを指で強く押し、PCの電源を落とした。こめかみの奥が、疲労で熱を持ったように重い。
『未稿箱』と名付けたクラウドストレージ上にある誰にも見られる事のない、電子の墓場。 この時、『未稿箱』への鍵を久住以外の者が開けているとは思いもしなかった。
***
異変が起きたのは、その3日後――雨の降る聖夜の夜だった。
「おい、これ……」
コンビニで買った夕刊紙を広げた俺は、言葉を失った。インクの匂いに混じって、饐えた血の匂いが漂ってくる錯覚に襲われる。
一面トップ記事。
『都内の公園で女性の遺体発見。遺体の一部は損壊し、左手首には赤いリボンが――』
背筋に、氷柱を突き刺されたような悪寒が走る。
偶然じゃない。リボンの結び方、ベンチの向きと遺体の角度、現場に残されたメッセージカードの内容。すべてが、俺が3日前に書いて捨てた『ボツ原稿』の描写と全く同じだった。
「……アイ。ニュース映像と俺の削除ログを照合しろ」
俺の声に応えて、即座にPCが起動する。画面に現れたアイは、既に無数のニュースサイトを展開し、情報を貪っていた。
そして。
――ビッ。
警告音と共に、彼女の姿が変貌した。透き通るような白髪の毛先と、ボディスーツを走る光のライン――。その青かったグラデーションが、システムの警告を示す『赤』へと変化した。
「……照合完了。一致率99.9%」
赤く発光するアイが、戦慄したように目を見開いている。
「久住さん、これは統計的な偶然ではありません。テキストデータが、犯行計画書として流用されています」
俺は脂汗を拭った。手の震えが止まらない。誰だ? 誰が俺のPCを見た? ハッキングか? いや、アイが気づかないはずがない。
「……アイ、警察内部のデータベースに潜り込め。奴らがどこまで掴んでいるか探るんだ。更にクラウドサーバーのアクセスログの照合も頼む」
「了解。……同時に、久住さん以外の『足跡』がないか確認をします」
アイの声が室内に響く。俺は震える手でキーボードを叩き、情報の集積を待った。数分後、アイの警告色が一段と濃くなる。
「……見つけました。警視庁への匿名通報です。内容は久住さんの未投稿記事そのもの。送信時刻は昨夜。つまり、殺人が実行される前です。作成タイムスタンプが事件より前である上、クラウドストレージの契約者情報も警察が掴んでいます。警察は久住さんを『犯行計画の作成者』……最重要参考人と断定しました」
「匿名通報だと……? 誰が……いや、それよりログはどうだ」
「……ハッキングの痕跡は皆無です。ですが、3時間前、正規の共有権限を使用したアクセスログが残っています」
「シェア・キー……だと……?」
心臓が冷たくなる。ハッキングではない。俺がかつて信頼して渡した「合鍵」を使って、誰かが俺の原稿を盗み、警察に売った。
しかし、犯人を突き止めている時間はなかった。
「……アイ、ここを一時放棄する。サブノートへ移動しろ!」
「推奨しません! その端末は5年前のモデルです。私のリソースを確保できません!」
「贅沢言うな、圧縮して飛び込めッ!」
俺は型落ちのサブノートを繋ぎ、強引にエンターキーを叩いた。
メインモニターから光が消え、古いノートPCのファンが悲鳴を上げる。画面に現れたのは、解像度が下がり、ポリゴンが削ぎ落とされた二頭身の『ミニ・アイ』だった。
「……最低の居住環境です。狭すぎます」
画面の隅で、マスコットキャラのようにデフォルメされたミニ・アイが、短い手足をバタつかせて抗議している。だが、文句を言っている時間はない。 俺はそれをひったくるように掴むと、コートを羽織って事務所のドアを開けた。
――その、瞬間だった。
「……どこへ行く、久住」
廊下の暗がりに、捜査一課の仙崎 剛が一人で立っていた。
足元には何本ものタバコの吸い殻が落ちていた。応援の警官などどこにもいない。彼は組織の動きを先回りして、たった一人でここへ来たのだ。
「仙崎……っ」
「……変なタレコミがあった。上層部はお前が関わってると踏んでいる。……身に覚えはあるか」
仙崎の声は低く、どこか悲痛だった。彼は久住を疑いに来たのではない。むしろ「お前がそんなことをするはずがない」と信じ、正式な捜索が始まる前に、逃げるか自首するかの猶予を与えに来たのだ。 だが、極限状態の俺に、その善意を受け取る余裕はなかった。
「最重要参考人」というアイの言葉が脳内でリフレインする。今ここで仙崎に身を預ければ、俺のPCは押収され、アイという存在も消されるかもしれない。真犯人を追う手立てはすべて失われる。
「……悪いな、仙崎さん。ネタ合わせはまだ終わってないんだ」
「待て、久住! 行くな!」
俺は仙崎の制止の声を振り切り、彼を突き飛ばすようにして階段へ走り出した。 背後で仙崎が何かを叫んでいたが、風の音にかき消された。
長年続いてきた、あの男との腐れ縁すら、今の俺は信じ切ることができなかった。 土砂降りの雨の中へ、俺は自ら「逃亡犯」として飛び出して行った。
***
「……現在地、新宿三丁目。Nシステムと防犯カメラの死角ルートをナビゲートします」
ミニ・アイの冷静な声が、イヤホンから聞こえる。
「はぁ……、はぁ……っ。……撒けた、か」
肺が焼けるような痛みに顔を歪めながら、俺はネットカフェの薄暗い個室に滑り込み、荒い息を整えていた。
テーブルの上で、型落ちのサブノートPCの冷却ファンが、悲鳴のような唸り声を上げている。画面の中では、ローポリゴンのミニ・アイが不機嫌そうに腕を組んでいた。
「……アイ。状況を整理しろ。警察が握っていたデータは、どこから漏れた?」
「整理を開始します。……まず第一に、警察のデータベースにあった『匿名通報』の中身は、久住さんの契約しているストレージにのみ保存されていた未投稿の『ボツ原稿』と、その作成タイムスタンプです。これにより、警察は久住さんを犯行計画の立案者と断定しました」
「……誰が、どうやって俺のストレージを覗いた。ハッキングか?」
「いいえ。外部からの不正侵入の痕跡は、今も昔もゼロです」
ミニ・アイが、粗い解像度の指先で一つのログデータを指し示した。
「……アクセスログを解析しました。ファイアウォールも認証システムも正常です。システム側からは、これが『正当なアクセス』に見えています。犯人は、外部からこじ開けたのではなく、正規の認証キーを使用して正面から入っています。つまり……」
「……正規の、ユーザーだと?」
「肯定します。今回のリークに使用されたキーは、久住さんが過去に正規の手順で『共有権限』を渡した相手のものです」
俺は息を呑んだ。
正規のユーザー。俺のクラウドストレージに、俺と同じ権限で立ち入ることができる人間。
脳裏に、土砂降りの雨の音が蘇る。 7年前の、湿った喫茶店の記憶だ。あの時の珈琲の苦い香りと、目の前の大学生が放っていた、青臭いほどの純粋さ。 「姉さんの行方を探すための共同作業だ」と言って、俺自身が手渡した合鍵。
「……真壁、圭」
その名前が口をついて出た瞬間、喉の奥がカラカラに乾いた。
(File.10 了)




