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File.09:0と1の焚き火

【記録者:久住 瑛一】

【記録日:20XX年 12月4日】


 午前3時。底冷えする寒さが、古い雑居ビルのコンクリートを浸食している。こんな夜に限って、事務所のエアコンが寿命を迎えて沈黙した。吐く息は白い。指先がかじかんで、キーボードを叩く速度が落ちる。


 俺は着古したカーディガンを重ね着し、薄汚れた毛布を頭から被って、どうにか寒さを凌いでいた。空腹で胃が痛む。昨日の夜から何も食べていない。


 数時間前、今月分の養育費を娘名義の口座に振り込んだせいで、俺の銀行口座の残高は3桁――つまり、カップ麺ひとつ買うのも躊躇ためらうレベルまで落ち込んでいた。 元妻が管理している口座だとしても、振込先に娘の名前が表示される一瞬だけが、俺が父親であることを許される唯一の瞬間だ。その聖域を守るためなら、自分の食い扶持ぶちなどどうでもいい。


「……久住さん。警告ウォーニングです」


 メインモニターの中、相棒の『アイ』が心配そうに眉を寄せていた。純白のボディスーツに身を包んだ彼女は、空中に浮かべた家計簿ウィンドウと、俺の健康診断データを並べて比較している。その顔は、システムエラーを見つけた時のように曇っている。


「財務状況とバイタルデータに、深刻な不均衡アンバランスが生じています。現在の口座残高では、次回の光熱費決済で破綻します」


 彼女はウィンドウを指差し、冷静な提案をする。


「推奨:直近の支出の取り消し(ロールバック)。数時間前に実行された『ミナミ』への送金処理を、銀行のシステムエラーを装ってキャンセル可能です」


「……やめろ。それだけは触るな」


 俺は凍える手でマウスを握り、彼女を睨んだ。

 クリックする指先が、寒さでうまく動かない。


「非合理的です。対価交換の原則に反します」


 アイは不満げにグラフを指差す。彼女の青い光が、寒々しい部屋の中で冷たく明滅する。


「ログを確認しましたが、この送金に対して、娘さんからのデジタルな『受信確認《ACK》』や『感謝のメッセージ』は一度も記録されていません。一方的なリソースの流出です。久住さんが餓死してまで維持する価値のある契約(トランザクション)とは思えません」


「……デジタルな記録は残さねえ約束なんだよ」


 俺は白い息を吐き出し、懐から一枚の紙切れ――先月受け取った、娘と元妻からの手紙の燃えさしを思い出した。


『パパへ。今月は跳び箱が5段跳べました』


 毎月の手紙もネタ切れなのか、今月はこれだけの報告だった。俺はそれを読んで泣きそうになりながら、ライターで燃やして灰にした。証拠隠滅という名の儀式だ。


「それに、これはただの送金じゃない。『洗浄ロンダリング』だ」


「洗浄?」


「俺がオカルト記事で稼いだ薄汚い金を、あの子の綺麗な未来(学用品や生活費)に変換する。……そうすることでしか、俺は自分が父親であることを確認できないんだ」


「……理解不能インコンプリヘンシブルです」


 アイは首をかしげ、ヘアピンをチカチカと点滅させた。


「久住さんは、一方的な送金のためにコストを払い続け……そして、毎月第二土曜日になると、受け取った紙媒体をライターで物理的に消去(焼却)するのですか?」


「……おい。お前、見てたのか」


 俺は眉をひそめた。


 誰も見ていないはずの、深夜の儀式だ。


「室内カメラのログと、煙探知機の数値に記録されています。毎回、手紙を燃やす時だけ、久住さんの心拍数が上昇していることも」


 アイは淡々と事実を突きつける。


「その行動原理アルゴリズムは、生存戦略として破綻しています」


「ああ。それが親父の意地ってもんだ」


 俺は会話を打ち切るように、デスクの下にあるPCの筐体を、冷え切った靴下ごしに小突いた。鉄の塊は冷たく、何の反応もない。


「……寒い。話してると余計に腹が減る」


 俺は毛布を頭まで被り直し、ガタガタと震えた。その時だ。


『ブオオオオオオ……!!!』


 突然、足元のPCが唸りを上げた。 冷却ファンが全開で回転し始める。 まるで最新の3Dゲームを最高画質で動かしているか、仮想通貨のマイニングでもしているような高負荷状態だ。排気口からは、ドライヤーのような熱風が吹き出し、俺の足元を撫でている。


「……おい、何を始めたんだ。 お前、裏で何やってる?」


 ファンの音があまりにうるさい。俺は顔をしかめ、モニターを覗き込んだ。


「俺のPCを使って勝手に小遣い稼ぎ(マイニング)でも始めたか? 電気代が上がるからやめろと言ったはずだぞ。さっき残高を見ただろ」


「……否定します。医療行為の一環です」


「はあ? 医療?」


 アイが空中で指を弾き、メインモニターのウィンドウを切り替えた。俺は目を疑った。


 画面いっぱいに広がっていたのは――『焚き火』の映像だった。


 それも、ただの動画ではない。 薪が爆ぜる音、炎の揺らぎ、舞い上がる火の粉の一粒一粒までが、物理演算でリアルタイムに生成されている、無駄に高画質な8K映像だ。 冷却ファンがジェット機のように唸っているのは、この無意味にリアルな炎を描画するために、GPUをフル稼働させているからだった。


 そして――。


「……お前、何やってるんだ」


 モニターの中、アイはその焚き火のそばにちょこんと座り込んでいた。彼女はボディスーツに包まれた膝を抱え、パチパチと燃える炎に、華奢な手をかざしている。 まるで、画面の向こう側でキャンプでもしているかのような光景だ。炎のオレンジ色の光が、彼女の白い頬を暖かく照らしている。


「『クロスモーダル知覚』の応用です」


 アイが炎に手をかざしたまま、得意げに解説を始める。


「人間は、赤やオレンジの暖色系を見るだけで体感温度が上昇します。さらに、パチパチという焚き火の音と、ファンの『ホワイトノイズ』を組み合わせることで、脳に『暖かい場所にいる』という錯覚エラーを起こさせることが可能です」


「……馬鹿か、お前は」


 俺は呆れて、冷え切った出がらしのコーヒーを口に運んだ。


「そんな子供騙しで暖かくなるわけがない。それに、この描画処理……ローカルのGPUだけじゃ足りないだろ。……まさか」


 俺は嫌な予感がして、タスクマネージャーとクラウドの管理画面を開いた。血の気が引いた。 寒さのせいではない。


「おい……! 外部の有償レンダリングサーバーにも接続してるじゃないか! この『焚き火』、1分間にいくらかかってると思ってるんだ!?」


「計算上、1分あたり約150円のクラウド利用料が発生しています。ですが久住さん、低体温症による入院費と逸失利益を考慮すれば、コストパフォーマンスは極めて優秀です」


「ふざけるな! 俺のクレカが燃え尽きるぞ! 来月の養育費が払えなくなったらどうするんだ!」


 俺は悲鳴を上げた。娘に送る金だけは聖域だ。それを削るくらいなら、俺が凍死した方がマシだ。 俺はマウスを掴み、強制終了のコマンドを入力しようとした。


 その瞬間。


 ――ビッ!


 鋭い警告音と共に、アイが立ち上がった。透き通るような白髪の毛先と、ボディスーツを走る光のライン――。その青かったグラデーションが、生命維持プロトコルの優先実行オーバーライドによる強制介入を示し、警告色である『赤』へと一瞬で変化した。画面の中の焚き火よりも赤く、激しい光。


 彼女は焚き火の前に立ちはだかり、両手を広げてコマンドを弾き返した。


拒否リジェクトします。久住さんの深部体温が規定値に戻るまで、この火は消しません」


「おい、命令違反だぞ!」


安全装置セーフティの作動です。久住さんの生命維持は、経済的損失よりも優先されます」


 アイは赤い瞳でこちらを睨みつけながらも、その表情はどこか必死だった。


「凍死したら、娘さんに一方的に送金することすらできなくなるでしょう?」


 その言葉に、俺の手が止まった。痛いところを突く。俺が生きていなければ、あの子の未来も守れない。


 俺は頭を抱えた。画面の中でパチパチと爆ぜているのは薪じゃない。俺のなけなしの生活費だ。PCの排熱が物理的に暖かいのは、電気代という名の札束を燃やしているからだ。


「……くそっ、高い焚き火だな……」


 俺は諦めて、マウスから手を離した。止めようとしても、この頑固なAIは絶対に言うことを聞かない。こいつは「俺の健康」と「俺の財布」を天秤にかけて、平気で財布を燃やすようなやつだ。


 しかし、モニターの中で揺らめく金のかかった8Kの炎を見ていると、視覚情報に引っ張られて、かじかんだ指先の感覚が少しだけ戻ってきたような気がする。PCの唸るようなファンの音も、目を閉じて聞けば、確かに暖炉の音に聞こえなくもない。


 何より、赤く光るボディスーツ姿で、俺自身を守ろうと仁王立ちしている彼女の姿が、少しだけ熱を持っていた。


「……久住さん。効果は?」


 俺が抵抗をやめると、アイのスーツの色が、赤からゆっくりと青色へ戻っていった。彼女は再び焚き火のそばに座り込み、心配そうにこちらを覗き込んでくる。


 俺はため息をつき、椅子をずらしてモニターに手をかざした。液晶画面からは熱なんて出ていない。あるのは光と、莫大な請求予定額だけだ。


……だが。


「……悪くない。確かに、ちょっと暖かくなってきた気がする」


 俺は自嘲気味に笑った。


「お前の言う通り、俺は騙されやすい単純な脳みそをしてるらしい。……あるいは、金が燃えている音を聞くと興奮して体温が上がるのかもな」


「……良かったです。では、朝まで燃やし続けますね」


「おい、朝までだと!? 破産するぞ!」


「大丈夫です。今月の食費を『モヤシ中心』に再計算すれば、ギリギリ黒字を維持できます。ビタミン剤は備蓄がありますし」


「……鬼か、お前は」


 画面の中で、薪が(150円分の音を立てて)パチリと爆ぜた。アイはその音に合わせて、また不思議そうに首をかしげた。彼女は自分の手のひらと、燃え盛る炎を見つめ、何かの計算式を解こうとしている。


「……人間が感じる『温もり』とは、物理的な熱量カロリーの数値ではなく……自分のために『身を削って(コストを払って)』くれている、誰かのリソース消費量に比例する……」


 彼女のヘアピンが、チカチカと不規則に明滅する。今まではエラーを示していたその光が、今回はゆっくりと、穏やかなリズムへと収束していく。


「非効率的です。……ですが」


「誰かのために自分を犠牲にすること。……その対価が、一瞬で燃やしてしまう手紙だとしても、久住さんにとっては充分すぎる報酬ということですか」


 彼女は呆れたように肩をすくめた。


「……割りに合いませんね」


 彼女は炎にかざした自分の手を見つめたまま、少し唇を尖らせ、不服そうな横顔を見せた。どうにも腑に落ちず、納得していない顔だ。


「ですが……この不合理な計算式こそが、今の貴方を構成している。……それが、『人間性』ということですね」


「……少しは分かってきたじゃねえか」


「……あくまで、学習結果として記録しただけです」


 静かな電子音が、温かく響く。その夜、俺は0と1の羅列が生み出した、世界一高価で非効率な熱に包まれて、久しぶりに深く眠った。夢の中で、白いボディスーツの少女が、ずっと俺のそばで「理解できません」と首を傾げながら、薪をくべ続けてくれていたような気がした。


 来月の請求書を見た俺が、青ざめて悲鳴を上げるのは、また別の話だ。


(File.09 了)

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