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終章:通人へのピクルス

 一八〇二年。

 ティモシー・デクスター氏は、五十五歳になっていた。

 相変わらずニューベリーポートの「宮殿」に住み、庭の木像たちに話しかけ、妻を幽霊扱いする日々を送っていた。

 金は腐るほどある。名声(悪名だが)もある。

 だが、彼にはまだ満たされないものがあった。

「ナップ、俺は哲学者だ」

「はい、自称ですが」

「哲学者は何をする生き物だ?」

「考える生き物ですね。あとは、本を書いたりします」

 言ってしまった。

 私は自分の口を縫い付けたくなった。

 その言葉を聞いた瞬間、デクスター氏の目が、あの「一セントの紙幣」を見つけた時と同じ輝きを放ったからだ。

「本だ! それだ! 俺の本を書くぞ!」

 悪夢の再来である。

 この男は、スペルが書けない。文法を知らない。句読点の打ち方さえ知らない。

 そんな人間が本を書くなど、魚が空を飛ぶようなものだ。

「旦那様、執筆は大変な作業です。ゴーストライターを雇いましょう」

「バカ野郎! 俺の魂の叫びを、他人に書かせてたまるか! 俺が書く! 全ページ、俺の手書きだ!」

 彼は部屋に閉じこもり、執筆を開始した。

 数週間後。

 ゲッソリとした顔で部屋から出てきた彼は、インクまみれの手で原稿の束を私に突きつけた。

「できたぞ、ナップ! 最高傑作だ!」

「……タイトルは?」

「『A Pickle for the Knowing Ones(通人へのピクルス)』だ!」

 意味が分からない。

 ピクルス? なぜ漬物が出てくる?

 彼は「分かってる奴らには、ピリッとした刺激が必要だろ?」と得意げだったが、私は眩暈をこらえて原稿を開いた。

 ……そこには、地獄が広がっていた。

 まず、スペルが壊滅的だ。「George Washington」が「Gorg Washingtun」になっている。「Knowledge」が「Nowing」だ。

 そして何より恐ろしいことに、句読点が一文字もない。

 ピリオドもカンマも一切なく、数千の単語が、堰を切った泥水のように延々と続いている。どこで息継ぎをすればいいのか分からない。読むだけで窒息死しそうだ。

「旦那様、これでは読めません」

「なんでだ? 英語だぞ?」

「句読点がないからです。文の区切りがないと、意味が通りません」

「区切りなんて、読みたい奴が勝手に脳内で入れればいいだろ! 俺の思考は止まらないんだよ!」

 彼は聞かなかった。

 結局、この前衛的すぎる奇書は、自費出版で世に放たれた。

 内容は支離滅裂。政治家への批判、妻への悪口、そして自分がいかに偉大かという自慢話が、ノンストップで綴られている。

 街の反応は二分された。

 「狂人のたわごと」と捨てる者と、「あまりに突き抜けすぎていて面白い」と爆笑する者だ。

 結果として、本は売れた。

 だが、読者からは当然の苦情が殺到した。「読みづらい」「どこで文が終わるのか分からない」「頼むからピリオドを打ってくれ」と。

「うるせえなぁ! どいつもこいつも、ちまちまと!」

 第二版の印刷準備中、デクスター氏は苦情の手紙を読んで激昂していた。

 そして、彼は歴史に残る解決策を思いついた。

「ナップ! 印刷屋に伝えろ! 巻末にページを追加するぞ!」

「あとがきですか?」

「いや、こいつだ!」

 彼が紙に書きなぐったのは、大量の記号だった。

 ピリオド、カンマ、コロン、セミコロン、感嘆符、疑問符……。

 それらが、ただひたすらに並んでいる。

「……これは?」

「句読点だよ! 文句がある奴には、これをくれてやる!」

 こうして出版された第二版の巻末には、一面の記号と共に、以下のメッセージ(もちろんスペルミスだらけ)が添えられた。

 "finerlay sum marks of stops and may peper and solt it as they plese"

 (ここに句読点を置いておく。あとは胡椒と塩みたいに、好きなところに振りかけてくれ)

 私は、出来上がった本を見ながら、脱力した。

 勝てない。

 この発想は、常識に囚われた人間からは絶対に出てこない。

 彼は「読者に句読点を委ねる」という、文学史上類を見ないインタラクティブな手法を編み出したのだ。面倒くさかっただけなのに。

 それから四年後の、一八〇六年。

 ティモシー・デクスター氏は、五十九歳でこの世を去った。

 死因は不明だが、おそらく生きることに飽きたのだろう。

 彼の死後、私が管理していた「宮殿」は、あっけなく崩壊した。

 嵐が来るたびに、庭の木像たちはバタバタと倒れていった。

 ナポレオンは顔から泥に突っ込み、ワシントンは腕を失い、そしてデクスター氏自身の像も、シロアリに食われて土に還った。

 

 今、私の手元に残っているのは、あの奇妙な自伝『ピクルス』一冊だけだ。

 私は時々、あの男のことを考える。

 彼は本当に、ただの無知なバカだったのだろうか?

 紙くずを金に変え、ゴミを宝石に変え、野良猫を輸出し、文字も読めないのにベストセラー作家になった。

 計算機を弾き、常識に従って生きてきた私は、結局彼に雇われるだけの人生だった。

 ある晴れた日。

 私はデクスター氏の墓前に立ち、あの一冊の本を開いた。

 巻末のページ。

 無造作に並んだピリオドやカンマたちが、まるで星空のように見えた。

「……胡椒と塩、ですか」

 私は苦笑して、本を閉じた。

 人生に意味なんてない。ただの羅列された単語の連続だ。

 そこにどこで区切りをつけ、どう解釈するかは、結局のところ、自分で勝手に決めるしかないのかもしれない。

 墓石の下で、あの男が高笑いしているような気がした。

 

 "I am the first in the East..."

 ああ、そうですとも。

 あなたは間違いなく、世界で一番の、愛すべき哲学者でしたよ。

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