涙の重さ
一八〇〇年。
世紀が変わっても、この男の奇行は止まらなかった。
彼はある日、朝食の席でふとトーストをかじりながら、深刻な顔で私に問いかけた。
「なぁナップ。俺が死んだら、みんな泣いてくれるかな?」
私はコーヒーを吹き出しそうになった。
泣くわけがない。
街の人間はあなたの金を愛しているが、あなた自身はピエロだと思っている。家族でさえ、あなたの死を「静寂の訪れ」として歓迎するだろう。
だが、給料をもらっている以上、そんなことは言えない。
「……それはもう、国中が涙の海に沈むでしょう」
「本当か? 口先だけじゃないか?」
「まさか」
「よし、確かめてみよう」
嫌な予感がした。
この男が「確かめる」と言った時、ろくなことになった試しがない。
「葬式をやるぞ」
「は?」
「俺の葬式だ。生きてるうちにやって、誰がどれくらい悲しむかチェックするんだ」
生前葬。
現代でこそたまに聞く話だが、当時は狂気の沙汰だ。
だが彼は本気だった。最高級の棺桶を用意させ、墓地の手配をし、街中に「ロード・デクスター、急逝」という招待状(?)をばら撒いた。
葬儀当日。
屋敷には三千人もの弔問客が集まった。
人徳ではない。デクスター氏が「酒と料理は振る舞い放題」と告知したからだ。タダ酒目当ての連中で、庭園は埋め尽くされた。
豪華な祭壇の前で、魚屋詩人のジョナサンが、涙ながらに(嘘泣きだが)弔辞を読み上げている。
「ああと尊きデクスター卿! 太陽は沈み、世界は闇に包まれた!」
棺桶の中には、誰も入っていない。
では、主役はどこにいるのか。
屋敷の二階である。
彼は窓の隙間から、眼下の様子を監視していた。そして、その横には私が立たされていた。
「おい見ろナップ、あいつ笑ってやがるぞ! 名前を控えろ!」
「旦那様、静かに。死人は喋りません」
「それに比べて、ジョナサンはいい奴だ。あんなに泣いてる。給料を上げてやろう」
彼は参列者の態度を細かく採点していた。
ここまでは、笑い話で済んだかもしれない。
だが、事件は起きた。
一階の広間、棺桶のすぐそばに、妻のエリザベス様が座っていた。
彼女は黒い喪服に身を包んでいたが、その顔は晴れやかだった。長年の騒音から解放された安堵感が、隠しきれずに滲み出ていたのだ。
彼女は泣いていなかった。むしろ、ハンカチで口元の笑みを隠しているようにさえ見えた。
それを見た瞬間。
デクスター氏の顔が、怒りで真っ赤に染まった。
「……あの女」
止める間もなかった。
彼は「死んでいる」設定を完全に忘れて、階段を駆け下りた。
ドタドタドタ!
静粛な葬儀会場に、死んだはずの男の足音が響き渡る。
そして彼は、広間の扉を蹴破って叫んだ。
「おいエリザベス! なんで泣かないんだ!!」
会場が凍り付いた。
三千人の客が、ビールグラスを持ったまま硬直する。
デクスター氏は、杖を振り回して妻に詰め寄った。
「夫が死んだんだぞ! もっと悲しそうな顔をしろ! 涙を流せ! 幽霊みたいに突っ立ってんじゃねえ!」
エリザベス様は驚かなかった。
ただ、深く、深くため息をつき、「やっぱり死んでなかったのね」と呟いただけだった。
葬儀はカオスになった。
死人が生き返って暴れまわるという、聖書にもない奇跡を目の当たりにして、客たちは逃げ惑い、あるいは腹を抱えて笑った。
デクスター氏はその後、台所に逃げ込んだ妻を追いかけ回し、「泣くまで葬式をやり直すぞ!」とわめき散らしたという。
その夜。
すべての客が帰り、散らかり放題になった屋敷で、デクスター氏は上機嫌でワインを飲んでいた。
「まぁ、成功だったな! たくさん人が来たし!」
「……奥様は実家に帰ると言っていますが」
「放っておけ。あいつは幽霊だ。俺には見えない」
彼は都合の悪い現実を、「見なかったこと」にする能力に長けていた。
妻が自分を愛していないという事実を認めるより、彼女を「幽霊」扱いする方が、彼の精神衛生上は良かったのだろう。
私は、飲み残しのワインを片付けながら思った。
この男は、東洋一の哲学者かもしれないし、ただのバカかもしれない。
だが一つだけ確かなことがある。
彼は、誰よりも「人間」を求めていた。
金で建てた木像や、金で集めた弔問客の中に、彼が本当に求めていた温もりがあったのかどうか。
それは、計算機を弾く私には、永遠に算出できない問いだった。




