東洋へ聖書
クジラの骨の一件で、デクスター氏の自信は成層圏を突破していた。
彼は自分を「商業の神」と信じ込んでいたし、周囲の人間も半分あきれながら、半分恐怖していた。
そんなある日、彼はまたしてもとんでもないことを言い出した。
「ナップ。東インド諸島へ行くぞ」
「はい?」
「あそこの人間は、まだ神の教えを知らないらしい。だから俺が教えてやるんだ」
「……つまり?」
「聖書を売る!」
私は卒倒しそうになった。
東インド諸島。
もう少し具体的に言えば、東南アジアやインド周辺。そこはヒンドゥー教やイスラム教、仏教が根付いている地域だ。
キリスト教の聖書など、需要がないどころか、下手に持ち込めば宗教的なトラブルの火種になりかねない。
しかも、彼が輸出しようとしているのは「英語の聖書」である。
現地の人間に読めるわけがない。
「旦那様、それは自殺行為です」
「なんでだ? 聖書はいい本だぞ。俺は読めないけど、ありがたいことが書いてあるんだろ?」
「ええ。ですが、向こうには向こうの神様がいます。それに言葉も通じません。英語の聖書なんて、向こうの人にとってはただの紙束です」
「また紙か! 紙なら得意だぞ!」
彼は「コンチネンタル紙幣」の成功体験を思い出して、ニヤリと笑った。
「いいかナップ。ライバル業者の男が言ってたんだ。『デクスターさん、あんたほど徳の高い人なら、きっと異教の地でも聖書を売りさばけるでしょう』ってな!」
「……それは、明らかな嫌味です」
「バカ言え! 応援してくれてるんだよ! 俺は四万冊送るぞ!」
四万冊。
正気の沙汰ではない。
私は必死に止めたが、彼は聞かなかった。
結局、船倉いっぱいの聖書を積んで、我々の船は東洋へと出航した。
長い航海の果てに、船は東インドの港に到着した。
結果は予想通りだった。
現地の商人たちは、英語で書かれた分厚い本になど見向きもしない。「紙としてなら買うが、薪より安いぞ」と嘲笑される始末だ。
「……終わった」
私は港の倉庫で、山積みになった聖書を前に頭を抱えていた。
持って帰る燃料代の無駄だ。いっそここで全て燃やして、灰にしてしまった方がマシかもしれない。
私はマッチ箱を取り出し、聖書に火をつけようとした。
その時だ。
港の方が何やら騒がしい。
顔を上げると、一隻のボロボロになった船が入港してくるところだった。マストには見慣れた十字架が掲げられている。
「……あれは?」
船から降りてきたのは、疲れ果てた様子の西洋人たちだった。
彼らは我々の船にある星条旗を見るなり、溺れる者が藁をも掴むような勢いで駆け寄ってきた。
「おーい! 同胞か! 頼む、助けてくれ!」
「あんたたちは?」
「我々は宣教師団だ! 布教のために来たんだが、途中の嵐で積み荷を流されてしまった! このままじゃ手ぶらで布教することになる!」
彼らは、これからこの地域で活動を始めようとしていた新しい宣教師団だった。
やる気はある。信者を集める自信もある。だが、肝心の「道具(聖書)」が海に消えていたのだ。
リーダー格の男が、私の足元にある箱を見て、目を見開いた。
そこには『HOLY BIBLE』の文字。
「……まさか、それは?」
「ええ、聖書です」
「売ってくれ! 全部だ! 金ならある!」
宣教師たちは涙を流して喜んだ。
嵐で聖書を失い、絶望の淵にいた彼らの前に、山ほどの在庫を抱えた私が立っていたのだ。
彼らにとって、これは神の導き以外の何物でもなかっただろう。
まさか、その「神の使い」が、スペルも書けないアメリカの成金おやじだとは夢にも思うまい。
……完売である。
しかも、足元を見て、現地の物価を無視した高値で売りつけてやった。
帰りの船で、私は海を見つめながら、神の不在を確信していた。
もし神がいるなら、こんなふざけた確率変動を許すはずがない。
「ナップ! 見ろ、やっぱり俺は持ってるなぁ!」
デクスター氏は、聖書が売れた金で買った葉巻をふかしながら、満面の笑みを浮かべていた。
「向こうじゃ聖書が足りてなかったんだ。俺には聞こえたんだよ、彼らの祈る声がな」
「……到着したのは、向こうの宣教師団のほうが後でしたよ」
「細かいことは気にするな! 聖書が売れて、みんなハッピー。これが『三方よし』ってやつだ!」
私は何も言えなかった。
この男は、羅針盤を持たずに海に出て、嵐に遭っても、その風に乗って目的地より良い場所にたどり着いてしまう。
それがティモシー・デクスターという男の、「哲学」なのだ。




