鯨骨とフランスの腰
一七九〇年代のアメリカにおいて、捕鯨産業は主要なビジネスだった。
鯨油はランプの燃料として欠かせない。だが、油を絞った後に残る「鯨のヒゲ(whalebone)」の扱いは微妙だった。
弾力があり、丈夫ではあるが、当時のアメリカではそこまで需要がなく、港の業者は大量の在庫を持て余していた。
いわば、産業廃棄物の一歩手前だ。
ある日、ニューベリーポートの港を散歩していたデクスター氏は、その「ゴミ」に目をつけた。
「おいナップ! 見ろ、あの山を!」
彼は港の倉庫裏に積み上げられた、巨大な骨の山を指さした。
鼻が曲がりそうな獣臭が漂ってくる。
「クジラのヒゲですね。油を絞った残りカスです」
「デカいな!」
「ええ、クジラですから」
「デカいことはいいことだ! しかも業者が言うには、捨て値でいいそうだぞ!」
嫌な予感がした。
この男の「安いから買う」という病気が、また発作を起こそうとしている。
「旦那様、あんなものを買ってどうするんです? 畑の肥料にでもする気ですか?」
「バカ野郎。骨だぞ? 丈夫だろ? 何かに使えるはずだ!」
「『何か』とは何ですか」
「それを考えるのがお前の仕事だ! とにかく全部買う! ここにある三百トン、全部だ!」
私は頭を抱えた。
三百トン。
屋敷の倉庫が、魚臭い骨で埋め尽くされる未来が確定した。
近隣住民から苦情が来るのは間違いない。私は防臭対策と、言い訳を考えるために奔走することになった。
デクスター氏は上機嫌だった。
「いいかナップ。腐っても鯛、捨て値でもクジラだ。生物として格が違う」
「意味が分かりません」
「とにかく、寝かせておけばそのうち価値が出る!」
私は確信していた。価値など出るものか。
これはただのゴミ屋敷化計画だ。
ところがだ。
世界というのは、時として狂った時計のように、ありえない時刻を指すことがある。
それから程なくして、フランスのパリから新しいファッショントレンドが上陸した。
「コルセット」である。
女性のウエストを極限まで細く見せるために、上半身を締め付ける補正下着。その流行が爆発的に広まったのだ。
そして、そのコルセットの芯として、最も適した素材は何だったか。
適度な弾力と強度を持ち、折れにくい素材。
そう、クジラのヒゲだ。
「おいナップ! ニュースだ!」
デクスター氏が、フランスのファッション誌(絵しか見ていない)を振り回して部屋に入ってきた。
「パリの女たちは、腰を締め上げるのが好きらしいぞ!」
「……ええ、流行っているようですね」
「その下着の中に、俺の骨が入るんだ!」
「言い方に語弊がありますが、その通りです」
市場価格は暴騰した。
ゴミ同然だった骨の山は、一夜にしてダイヤモンドの原石に変わった。
ボストンやニューヨークの服飾業者が、血走った目でデクスター氏の倉庫に殺到した。「いくらでも出す! その骨を売ってくれ!」と。
私は、積みあがる札束を数えながら、遠い目をした。
なぜだ。
なぜこの男の倉庫にあるゴミは、いつも宝物に変わるのだ。
「見ろナップ! 俺の読み通りだ!」
デクスター氏は、クジラのヒゲを一本手に取り、フェンシングのように振り回して笑った。
「女心とクジラの骨は、常にセットなんだよ。俺には分かっていたさ」
「……旦那様」
「なんだ?」
「あなたは、ただ『デカいから』買っただけですよね?」
「結果が全てだ! ガハハハ!」
私は悟った。
経済学やマーケティング理論は、この男の前では無力だ。
彼はただ、クジラのように大きな口を開けて待っていれば、勝手にプランクトン(大金)が飛び込んでくる生態系の中に生きているのだ。




