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序章:一セントの壁紙

 一七八〇年代の終わり。マサチューセッツ州、ニューベリーポート。

 長く続いたイギリスとの独立戦争は、我々の勝利に終わった。

 だが、「自由」という言葉の響きだけで腹が膨れるほど、人間は便利にできていない。

 戦勝気分が抜けた後に残ったのは、焼け野原と、膨大な借金と、紙切れになった通貨だけだった。

 ボストンの港は静まり返り、かつては誇り高かった兵士たちが、明日のパンを求めて路地裏でうずくまっている。

 これが、私が新しい雇い主――ティモシー・デクスターの屋敷を訪れた時の、世の中の空気だった。

 私がこの「自称・宮殿」の門を叩いたのは、単に金がなかったからだ。

 皮なめし職人から成り上がった彼が、読み書きのできる事務員を募集していると聞き、私は飛びついた。

 仕事内容は単純だ。彼の資産を管理し、帳簿をつけ、彼がこれ以上バカな散財をしないように手綱を握る。それだけのはずだった。

 採用初日。

 挨拶もそこそこに、デクスター氏は私を倉庫へと引きずり込んだ。

 小太りの体に、サイズがあっていない上等なベルベットのコート。ボタンのかけ違いにすら気づいていないその男は、埃っぽい倉庫の真ん中で、満面の笑みを浮かべていた。

 彼の足元には、紙の山があった。

 山は山でも、ゴミの山だが。

「おい、ナップ! こっちに来い! すごいもん見つけたぞ!」

 デクスター氏は、足元の薄汚れた紙束を鷲掴みにして、私の顔の前に突き出した。

 一目見て、私はめまいを覚えた。

 それは、コンチネンタル紙幣(大陸紙幣)だった。

「……旦那様、正気ですか?」

「見りゃわかんだろ! 金だよ、金!」

 デクスター氏は、興奮のあまり唾を飛ばしながらまくし立てる。

「いいか、よく聞けよ。これな、今ならなんと一セント以下で買えるんだ!」

「はあ」

「一セントだぞ!? 元の値段は一ドルとか十ドルって書いてあるのにだ! 街の奴らはバカだなぁ。こんなお買い得品を捨てちまうなんて!」

 私はこめかみを押さえた。

 この男には、経済という概念がないらしい。

 私は、できるだけゆっくりと、聞き分けのない子供に言い聞かせるような口調を選んだ。

「旦那様。それがタダ同然で売られているのには、悲しい歴史的経緯がありまして」

「あ?」

「戦争中、我らが大陸会議は、イギリスと戦うための軍資金が必要でした。しかしゴールドがない。そこで彼らはどうしたか。……この紙幣を刷ったのです」

 私は手の中の紙切れをひらひらとさせた。

「『戦争に勝ったら金と交換してやる』という約束手形として、刷って刷って、刷りまくりました。その結果どうなったと思います?」

「みんな金持ちになった!」

「いいえ。パン一つ買うのに、この紙束が山ほど必要になりました。インフレです。信用がないから、誰も欲しがらない。今や『コンチネンタル以下の価値』という言葉が、『無価値』の代名詞になっているのをご存じでしょう?」

 街の酒場でこれで支払おうものなら、店主から塩を撒かれるレベルだ。

 兵士たちは給料としてこれを受け取り、泣く泣く二束三文で手放して、ようやくスープにありついている。これは国家による詐欺の残骸なのだ。

「だから、これはただの紙くずです。お尻を拭く紙にもなりやしませんよ」

「でも一ドルって書いてあるぞ」

「書いてあるだけです。政府にはこれを買い取る金なんてないんですから」

「じゃあ一ドルだろ!」

 ダメだ。

 会話が噛み合わない。

 論理の位相がズレている。彼は「文字が読める」というレベルではなく、「数字の形を認識している」だけのようだ。

「いいかナップ。俺は皮なめし職人だったから分かるんだ。安い素材を仕入れて、高く売る。これが商売の基本だ。一セントで仕入れて、一ドルで売れば、えーっと……とにかくすげぇ儲けになる!」

「売れませんよ。買う相手がいません」

「俺が買うんだよ! うるせえな、いいから帳簿につけとけ! 『すごい紙、たくさん』ってな!」

 彼は聞く耳を持たなかった。

 結局、妻のエリザベス様(彼女は常識人だったが、夫への興味を失っていた)の冷ややかな視線を背に、デクスター氏は全財産に近い金を叩いて、この「国の借用書」を買い占めてしまった。

 倉庫は天井まで紙幣で埋まった。

 私は初日にして転職を考えた。この家は潰れる。

 一七八〇年代の混乱期において、最も愚かな投資だ。来月の給料が出る保証はどこにもない。

 私はただ、この異様な紙くずの山を眺めながら、深く溜息をつくしかなかった。

 ところがだ。

 神というのは、時々ひどく悪趣味なサイコロを振るらしい。

 それから数日もしない、一七九〇年のある日。ニュースが飛び込んできた。

 あのアレクサンダー・ハミルトン財務長官が、国の信用回復のためにとんでもない法案を通したのだ。

「政府は、過去の紙幣を『国債』として、額面通りの価値で買い取る」と。

 ……は?

「おいナップ! 見ろ!」

 デクスター氏が、新聞(彼は読めないので、私が読んで聞かせたのだが)を振り回して踊り狂っている。

「一ドルになった! 一ドルになったぞ! 俺の言った通りだ!」

「……うそでしょう」

「一セントが、一ドルだ! 百倍だぞ! ガハハ! 見ろ、俺の勝ちだ! やっぱり俺は天才だなぁ!」

 私は震える手で計算機を弾いた。

 百倍どころではない。買値が捨て値同然だったことを考えれば、利益率は数千倍になる。

 国家の経済破綻を逆手に取った(としか見えない)この一手で、彼は一夜にして、マサチューセッツでも指折りの大富豪になってしまったのだ。

 そこにロジックはなかった。

 戦後のインフレ予測も、ハミルトンの政策への読みも、何ひとつない。

 ただ、「安いから買った」。それだけだ。

「ナップ、次は何を買うか考えとけよ! 金が唸るほどあるからな!」

 無邪気に笑うその顔を見ながら、私は奇妙な敗北感と共に、悟ってしまった。

 この男の周りでは、私の知る「常識」や「歴史」など、何の意味も持たないのだと。

 そして、これが悪夢の始まりだった。

 無知と強運という、最悪の組み合わせを持った怪物が、莫大な資金を手にしてしまったのだから。


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