第一章2 "(くろうさぎ)たちの巣窟"
ライトはバイクを滑り込ませるようにして、廃墟となった一角に身を隠した。
そこはかつて「空気浄化プラント」だった場所。今はただの鉄屑の山だが、錆びついた鉄骨が奏でる不快な軋み音さえ我慢すれば、眼下に広がる街の灯りを一望でき、パトロール・ドローンの目からも逃れられる絶好の隠れ家だ。
少年は転げるようにバイクから飛び降りると、ひび割れたコンクリートの壁に背中を預けてへたり込んだ。
左足の義肢から、不吉な駆動音が長く響く。
**ギギギ……プスン。**
微かな白煙が昇った。先ほどの死に物狂いの逃走劇が、老朽化したモーターに限界を超えさせたらしい。
ライトはゴーグルを外し、雨に濡れた髪を乱暴にかき上げた。
無言のまま少年に歩み寄り、ただ黙って右手を差し出す。
少年はビクリと肩を震わせたが、何を求められているかは理解していた。
破れた服の内側に手を突っ込み、大切そうに握りしめていた「ロケット」を取り出すと、ライトの大きな手のひらにそっと乗せた。
「ご、ごめんなさい……」少年はうつむいたまま震える声で言った。「そんなに大事な物だなんて知らなくて……高く売れるただの骨董品だと思ったんだ」
ライトはロケットを受け取ると、金属の冷たさが指先に食い込むほど強く握りしめた。
蓋を開け、中の「氷華」が無事であることを確認する。安堵の息を長く吐き出すと、彼はそれをコートの最も内側、心臓に一番近いポケットへと収めた。
「なぜ盗んだ?」
ライトの声は平坦だったが、その瞳は鋭く少年を射抜いていた。
「お前の腕なら、修理工や運び屋でも食っていけるはずだ。こんなコソ泥みたいな真似をして、命を捨てる必要はないだろう」
少年はしばらく黙り込み、油にまみれた手を固く握りしめた。
「まともな仕事なんて……IDを持たない人間にはないよ」
少年の声が震える。「それに、あったとしても……賃金が安すぎて足りないんだ」
「足りない? 何にだ?」
ライトの思考が止まった。
その答えは、ハンマーで心を叩かれたような衝撃だった。
戦争、飢餓、選択肢を持たずに死んでいった人々――かつての記憶がフラッシュバックする。
世界は何も変わっていない。いや、以前より悪くなっているのかもしれない。
美しく輝く摩天楼の下で、子供たちはただ妹に呼吸させる空気を買うためだけに、盗みを働かなければならないのだ。
少年は唇を噛み締めた。
「あのロケットを闇市で売れば、一番安いフィルターを買えるだけのクレジットになったはずなんだ……盗みたくなんかなかった。でも、僕には選べなかったんだ」
廃墟に沈黙が落ちる。
吹き抜ける風の音だけが、虚しく響いていた。
ライトは再びポケットに手を突っ込んだ。
先ほどバーテンダーに叩きつけた残りのクレジット硬貨を掴み出す。彼は無造作に、それらを少年の足元へと弾いた。
**チャリン! チャリン!**
硬貨は転がり、少年の壊れた鉄の足先で止まった。
「取っておけ」ライトはぶっきらぼうに言った。「フィルター代と……そのボロ足の修理代くらいにはなるだろう」
少年は目を丸くし、信じられないといった様子で硬貨を拾い集めた。
「あ、ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」
彼は何度も何度も、ライトに向かって頭を下げた。
ライトは面倒くさそうに手を振ると、周囲の警戒のためにテラスの方へと歩き出した。
だがふと、何かを思い出したように足を止めた。
「名前は?」背中を向けたまま聞いた。
「え?」
「名前を聞いているんだ、小僧」
少年は硬貨を大事そうにポケットにしまうと、精一杯背筋を伸ばして答えた。
「レンです……僕の名前は、レン」
「レン(蓮)か……」ライトは小さく呟いた。
泥の中でも咲くことができる花の名だ。
「俺はライトだ……よく覚えておけ。そして二度と他人の物を盗むな。次やったら、俺がお前の頭を撃ち抜くぞ」
レンは、泥だらけの顔で初めて屈託のない笑顔を見せた。その瞳には希望が宿っていた。
「ライトさん……貴方は一体何者なんですか? ただの人じゃないですよね。あのロボットを一瞬で倒すなんて」
ライトは暗い地平線を見つめたまま、喉の奥で自嘲気味に笑った。
「ただの『時代遅れ(ロスト・ワン)』さ。このクソみたいな世界から、おさらばしようとしているだけのな」
「こっちです……」
ライトが助けた少年、レンが手招きをした。彼は足を引きずりながら、湿ったカビの臭いがする路地の奥へと案内する。
ライトは無言で従った。ここは「下層都市」。富裕層が暮らす上層からの廃棄物が降り注ぎ、太陽の光さえ届かない場所。行き場のない者たちの吹き溜まりだ。
レンは、工場跡のような巨大な鉄扉の前で立ち止まった。
錆びついた鉄板を、特定のリズムで叩く。**コン……コンコン……コン。**
扉が開くのを待つ間、ライトはずっと気になっていたことを口にした。
「どうしてそこまで危険を冒す? 運び屋の仕事でもすれば、なんとか食っていけるだろう。なぜわざわざ帝国兵から盗む?」
レンはうつむき、自分の機械の足を見つめた。
「運び屋じゃ、全然足りないんです……場所代、電気代、ショバ代……」声が細くなる。「それに……ここの空気清浄機がもう限界で。交換パーツを買う金がないと、みんなが……」
その時、重苦しい油圧音と共に鉄扉がスライドして開いた。
中からは暖かなオレンジ色の光と、微かなヒップホップのビートが漏れ出してきた。
「ようこそ、僕たちのアジトへ」レンが誇らしげに言った。
中は外の荒廃ぶりとは別世界だった。
そこは古い地下鉄の駅構内を改造した居住空間だった。モニターの山、工具、ゴミ捨て場から拾ってきて修理した家具などが所狭しと並び、十代特有の雑然とした、しかし居心地の良い空間を作り出している。
だが、ライトが一歩足を踏み入れた瞬間、その空気は凍りついた。
**カチャッ! ジャキン!**
銃の撃鉄を起こす音と、刃物を抜く音が同時に響いた。
部屋にいた4人の若者たちが一斉に振り返り、侵入者に敵意に満ちた視線を向ける。
* **カシュー:** リーダー格の男。22歳くらいか。ボロボロのシャツの上に防弾ベストを着込み、改造ショットガンをライトに向けている。その目は猛犬のように鋭い。
* **カイラス:** アッシュグレーの髪をウルフカットにした、クールな男。木箱の上に座り、高周波ブレードを構えている。刀身が低く唸りを上げている。
* **ビーンズ:** ゴーグルを頭に乗せた、派手なストリートファッションの少年。作業台から飛び降り、巨大なモンキーレンチと二丁拳銃をジャグリングするように回しながら、不敵な笑みを浮かべている。
* **ナナ:** パステルピンクの髪をツインテールにした、可愛らしい少女。メインサーバーの前に座り、武器こそ持っていないが、即座に扉のロックボタンを押してライトを閉じ込めた。
「レン! 誰を連れ込んだ!?」カシューが怒鳴った。「余所者は入れないルールだろ!」
「カシュー兄ちゃん! 待って!」レンが慌ててライトの前に立ちはだかり、両手を広げた。「この人は僕を助けてくれたんだ! 第4区画で帝国兵に殺されそうになったところを、逃がしてくれたんだよ!」
「帝国兵だと?」カイラスが片眉を上げ、ライトを値踏みするように見た。「このオッサンがか? どう見てもただの浮浪者だろ」
ビーンズがケタケタと笑った。「レン、騙されてんじゃねーの? 実は帝国のスパイかもよ。見ろよこの無精髭、指名手配犯面だぜ」
ライトはため息をついた。ゆっくりと両手を胸の高さに上げる。
だが、その目は冷静に少年たちの戦力を分析していた。
……ショットガン(カシュー)の位置取りは完璧、射線を広く取っている……刀使い(カイラス)の脚の筋肉は収縮している、いつでも飛びかかれる体勢だ……あのメガネ(ビーンズ)はふざけているようで、照明のスイッチの近くにいる……。
こいつら、ただの素人じゃない。それなりの実戦経験がある。
「俺はスパイじゃない」ライトは淡々と言った。「それに長居する気もない。この子を送り届けたら、少し休憩させてもらう。すぐに出て行くさ」
「休憩?」カシューは銃口をわずかに下げたが、警戒は解かない。「ここはホテルじゃねえぞ。昨日パトロール隊とやり合ったばかりで、ピリピリしてんだ」
「いいじゃない、カシュー」
ナナの澄んだ声が響いた。彼女はPCデスクから離れ、興味津々といった様子でライトに近づいてきた。
「スキャンしたけど、盗聴器も重火器も持ってないわ……それに、もし本当にスパイなら、レン兄をこんな五体満足で連れ帰ったりしないはずよ」
カシューはしばし考え込み、やがて銃を下ろして息を吐いた。「……ああ、分かったよ。レンがそこまで言うならな」
彼はライトに歩み寄り、分厚い手を差し出した。「俺はカシュー。ここのリーダーだ……そっちがカイラス、ビーンズ、ナナ」
「ライトだ」短く答え、握り返す。
「よろしくな、ライトの旦那!」
ビーンズが馴れ馴れしくライトの肩に腕を回してきた。「せっかくだから見てってくれよ! 昨日ウォーボットの腕をバラして手に入れたパーツ、超イカすんだぜ!」
ライトは、少年たちが日常に戻っていく様を眺めていた。レンはナナの元へ駆け寄り、ビーンズは戦利品を自慢し、カイラスは黙々と刀の手入れに戻る。
殺伐とした空気が消え、代わりに温かい家族のような空気が満ちる……過酷な世界で生き抜くために寄り添う、家族の空気だ。
「……ここはお前たちだけなのか?」ライトが尋ねた。
「これだけで十分さ」カイラスが顔も上げずに答えた。「この辺の帝国兵は、『黒兎』には手を出すなって知ってるからな……重火器はないが、この路地裏じゃ俺たちが王様だ」
カシューが頷く。「ああ……だが最近、巡回が厳しくなってな。物資が底をつきかけてる。コソ泥稼業も限界が近い」
カシューの視線が、赤い×印が無数につけられたホログラムマップに向けられた。
「今夜、デカいヤマがある……空気清浄機を直すための金を稼ぐ、重要な仕事だ」カシューはライトに向き直った。「ライト、ゆっくり休んでくれ。水と保存食なら隅にある……俺たちが出発したら、すぐに出て行ってくれ」
ライトはテーブルの地図を見た……一目で分かった。彼らが立てている作戦には、致命的な「穴」がある。それは彼らを死へと導く穴だ。
彼は迷った。このまま出て行きたい。関わりたくない。だが、ナナに笑顔を見せるレンの姿が、過去の自分と重なる。
『このままじゃ、全員死ぬな』
ライトは作戦テーブルに近づき、カシューが丸印をつけた地点を覗き込んだ。
「第7区画の角にあるコンビニを襲うつもりか?」独り言のように言った。
「なぜ分かった?」カシューが眉をひそめる。
「勘だ……だが一つ教えてやる」
ライトは地図の一点を指差した。「ここだ。昨日、帝国軍が最新の熱感知カメラを設置したばかりだ……ジャミング(妨害装置)なしで突っ込めば、肥溜めで死体とお喋りすることになるぞ」
黒兎のメンバー全員が、ライトを一斉に見つめた。
「なんでそんなこと知ってんだ?」カイラスが低い声で聞いた。
ライトは肩をすくめ、世捨て人のような顔を作った。
「ただの通りすがりのおっさんさ……子供が無駄死にするのを見たくないだけだ」
「はぁ……とりあえず今は動かないことだ。外は蜂の巣をつついたような騒ぎだからな」
ライトは長く息を吐き、部屋の隅にある破れた革張りのソファに身を投げ出した。逃走と戦闘の疲労が、一気に押し寄せてくる。
カーゴパンツのポケットから、少し凹んだ「8オンスのステンレス・スキットル」を取り出す。
キャップを回し開け、琥珀色の液体を煽る。
焼きつくような熱さが喉を通り、筋肉の痛みと脳の緊張を和らげていく……この苦味だけが、唯一の慰めだ。
ライトの視線は、無謀な作戦準備を進める少年たちを追っていた。
レンは床に座り込み、小さなドライバーで自分の義足の関節を調整しようとしていた。**ギギッ……ギギッ……**と嫌な音が鳴り、時折危険な火花が散る。
「くそっ……またモーターが噛んでる」レンは悪態をつき、自分の足を軽く叩いた。「さっき走った時にギアがズレたんだ」
「そんなに叩いちゃダメよレン兄、回路が焼けちゃうわ」ナナがモニター越しに注意する。
ライトはその光景を、苛立ちと哀れみが入り混じった目で見ていた。
ギアが噛み合う音は、メカニックである彼の耳には耐え難い雑音だった。彼はもう一口酒を飲み、よろめきながら立ち上がり、レンの元へ歩いていった。
「どけ、小僧」ライトは気だるげに言った。「そんな叩き方をしたら、あと5分でその足は爆発するぞ」
「え、な……何するんですか?」レンが驚く。
ライトは答えず、レンの手からドライバーを奪い取ると、赤錆だらけの鉄の足の前にしゃがみ込んだ。
「昔、整備工場で見たことがあるんだ……なんとなく覚えてる」
適当な嘘をつきながら、彼の目は瞬時に回路構造をスキャンしていた。
『サーボモーターの主軸が2度傾いている……伝達ケーブルの接触不良……冷却ファンの詰まりか』
ライトの手が、意思を持ったように動いた。
精密機器など使わない。「耳」で音を聞き、「指先」で振動を感じ取る。
**カチャッ! ガリッ……スポッ!**
ドライバーの柄でロックポイントを軽く叩き、隠された内部ボルトを正確に回す。絡まった配線を指先でほぐし、目にも止まらぬ速さで回路を繋ぎ直していく。レンの目には指の動きが見えなかった。
「終わったぞ……動かしてみろ」ライトはドライバーを投げ返し、何事もなかったかのように元の席へ戻った。
レンは狐につままれたような顔をしたが、恐る恐る左足を動かしてみた……。
**ウィーン……**
耳障りな駆動音は消え、滑らかで静かな回転音だけが聞こえる。反応速度は驚くほど向上していた。
レンは立ち上がり、軽くジャンプしてみた。
「すげえ! 超滑らかだ! 新品みたいだよライトさん!」
レンは目を輝かせて叫んだ。「どうやったんですか!?」
「まぐれだよ……」ライトはそっけなく答え、スキットルを傾けた。「適当にいじってたら直ったんだ」
部屋の反対側で高周波ブレードを研いでいたカイラスも、興味深そうにこちらを見ていた。
**キィィィィィン……**
刀身の振動音が、あまりに甲高く耳障りだ。
カイラスは眉をひそめ、柄にある周波数調整ダイヤルをいじっているが、調整すればするほど音は不安定になる。
「うるさいな……」ライトは独り言のように、だがカイラスに聞こえる声量で呟いた。「バランサーがイカれてる……そのまま3分以上使えば、刀身が暴れてお前の顔面を切り裂くぞ」
カイラスの手が止まった。「あんた、刀のことも分かるのか?」
「警備兵がボヤいてるのを聞いたことがあるだけさ……」ライトは立ち上がり、カイラスに近づいた。「貸してみろ」
カイラスは一瞬躊躇したが、レンの足を見た後なので、素直に刀を渡した。
ライトは刀を受け取った。その重さは手によく馴染む……粗悪な改造品だが、ベースは一級品の殺人用ブレードだ。柄を裏返し、デタラメに設定された周波数ダイヤルを見る。
『周波数が高すぎる、バッテリーの無駄だ……刀身の重量に合わせて共振させなければ』
ライトはポケットからクレジット硬貨を取り出し、その縁を使って柄の底にある極小のネジを回した。左へ、右へ。指で刀身を弾き、反響音を聞く。**チン……**。
「よし……こんなもんだろう」
ライトは刀を返し、起動ボタンを押した。
**ヴォォォン……**
今度は耳障りな高音はない。あるのは、腹に響くような重低音の唸りだけ。
刀身は安定した周波数で振動し、周囲の空気が歪んで見えるほどだ。淡い青色の光が、刃先を完璧にコーティングしている。
カイラスは目を見開き、自分の刀を見つめた。
軽く空を斬ってみる。
**スパッ!**
横にあった空の木箱が、ほとんど抵抗なく真っ二つになった。切り口はレーザーで焼いたように滑らかだ。
「マジかよ……」見ていたビーンズが口を開けたまま固まった。「あのおっさん、本物だぜ! カイラスの刀がこんなに切れるなんて見たことねえ!」
遠くで腕組みをして見ていたカシューの目つきが変わった……警戒心は薄れ、代わりに尊敬と疑問が浮かんでいる。
「あんた、メカニックか?」カシューが静かに聞いた。
「ただの……他人のオモチャを分解するのが好きな暇人さ」ライトははぐらかし、スキットルをポケットにしまった。「修理代は宿代ってことにしてくれ……さあ、仕事に行くならさっさと行け。俺は寝る」
彼はソファに横になり、腕で目を覆って、世界への関心を断ち切ったような態度をとった。
だが、少年たちは顔を見合わせた……彼らは悟っていた。この「酔っ払いのおっさん」はタダモノではない。そして彼がここにいることは、黒兎にとって最大の幸運かもしれない、と。
レンは満面の笑みで、新しくなった義足を確かめた。「ありがとうございます、ライトさん! すぐ戻ってきます、美味しいもの買ってきますから!」
「ああ……死ぬなよ」ライトは腕の下からくぐもった声で答えた。
**ガゴン……プシューッ!**
油圧式の鉄扉が閉まる音がした。
静寂が再び基地を包み込む。残ったのは、換気扇が回る音と、ソファで腕を枕に眠る男の微かないびきだけ。
ナナは小さく息を吐き、メインコンピューターの席に戻った。
細い指がキーボードを叩き、ビーンズが放った「小型ドローン」と、ハッキングした公共監視カメラの映像をリンクさせる。
ホログラムスクリーンに、4人の姿が映し出された……カシュー、カイラス、ビーンズ、レン。闇に紛れる黒いレインコートを着て、第7倉庫へ向かって路地を進んでいる。
「映像クリア……みんな、聞こえる?」ナナがマイクに囁く。
『感度良好だ、ナナ』カシューの声が返ってきた。『目的地まであと200メートル』
ナナはちらりとライトの方を見た。彼は微動だにせず寝ている。『本当に寝ちゃったの? 助けてくれるって言ったのに……』彼女は少しだけ失望を感じた。
だが、その時。
スクリーン上の倉庫周辺に、肉眼では見えない「レーザーフェンス」の反応が表示された瞬間。
熟睡しているはずのライトの指が、横に置いたスキットルを一定のリズムで叩いた。**コツ……コツ……**
「まだ入るな……」
低く、落ち着いた声が響いた。彼は目を閉じたままだ。
ナナは驚いて振り返った。「え? 起きてたんですか?」
ライトは起き上がらなかった。
ただ、手探りでサイドテーブルの予備ヘッドセットを掴み、雑に頭に装着すると、通話ボタンを押した。
「おいメガネ(ビーンズ)……そこで止まれ」
寝言のような、気だるげな声で命じた。
**第7倉庫前**
有刺鉄線を乗り越えようとしていたビーンズが、空中で足を止めた。
『なんだよおっさん? 道はクリアだぜ、カメラもループ映像に差し替えたし』ビーンズが無線で囁く。
「足元を見ろ……左足から5センチ先だ」ライトの声がイヤーモニターに響く。「微かに赤く光る反射が見えるか?」
ビーンズは目を凝らして雨の地面を見た。そして、背筋が凍りついた……。
髪の毛ほどの細さのレーザーワイヤーが、地面スレスレに張られていたのだ。もしあのまま足を踏み出していれば、警報が鳴り響いていただろう。
『マジか……旧式のトリップワイヤー(引掛線)かよ』ビーンズは生唾を飲み込んだ。『すげえ目だなおっさん、モニター越しだろ?』
「この手の倉庫の標準装備だ……」ライトは淡々と説明した。「飛び越えろ。そして右の壁沿いに進め。そこが熱源センサーの死角だ」
黒兎のメンバーは顔を見合わせた。カシューが頷き、全員がこの「居眠り軍師」の指示に従うことを決めた。
彼らは亡霊のように音もなく、外周の防衛線を突破していった。
**基地にて**
ナナは驚愕の眼差しでライトを見ていた。彼は画面を直視してさえいない。まるで「チラ見」しただけで、あとは目を閉じている。なのに、その指示は神がかり的に正確だった。
「あなた……元軍人なんですか?」ナナは聞かずにはいられなかった。
「元ピザ屋の配達員さ」ライトはふざけた調子で答え、寝心地の良い位置を探して身じろぎした。「抜け道をたくさん知ってないと、30分以内に届けられないからな」
ナナはその冗談に慣れ始め、クスリと笑った。
『中に入った』カシューが報告する。『バッテリー保管庫の前だ。センチネル・ロボットが2体いる』
ライトは片目だけを開け、画面を見た。
「カイラス……刀を抜くな」
カイラスが腰に手を伸ばした瞬間、ライトが制した。「お前の刀の高周波音が、ロボットのマイクロ波センサーと干渉する……奴らが起きるぞ」
『じゃあどうすんだよ!?』カイラスが苛立つ。
「レン……左のロボットの頭上、通気ダクトが見えるか?」
『見えます』
「そこにクレジット硬貨を投げ込め。中のファンに当たるように……今だ」
レンは即座に従った。硬貨を正確にダクトへ弾き飛ばす。
**カラン……ガリガリガリッ!**
金属がファンに当たる異音がダクトから響いた。2体のセンチネルが同時に音の方向へ顔を上げ、背中が無防備になる。
「今だ……ビーンズ、走ってジャマー(妨害装置)をうなじに貼り付けろ! 急げ!」ライトの声が鋭く飛んだ。
ビーンズが影から飛び出し、2体の首筋に同時にジャマーを叩きつけた。
**ブウン……**
ロボットの眼光が消え、ただの鉄の像と化した。
『完了!』ビーンズがカメラにサムズアップした。『楽勝だぜおっさん!』
基地で、ライトは口元をわずかに緩めた。そしてヘッドセットを外し、テーブルに放り投げた。
「あとは荷物を運んで帰るだけだ……俺は寝るぞ、起こすなよ」
彼はナナに背を向け、本当に寝息を立て始めた。
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『任務完了! 全品回収、無傷だぜ!』
ビーンズの歓喜の声が無線から響いた。
黒兎チームはバッテリーの入った重いバッグを背負い、薄暗い水浸しの路地を慎重に戻っていた。
基地では、ナナが安堵の息をついた。彼女は満面の笑みでライトを振り返った。「すごいです! あなたの作戦、完璧でした!」
ライトは軽く頷いただけだった。片手には水を入れたコップ、だがもう片方の手はまだヘッドセットに触れていた。その目は画面から離れていない。
「喜ぶのはまだ早い……」ライトは呟いた。「いつだって、行きより帰りの方が危険なんだ」
その時。
熱源探知モニターに、十数個の赤い反応が現れた。
闇の中から湧き出るように、カシューたちの前後を塞いだのだ!
『おい! そこで止まりな!』下卑た怒号が無線に割り込んだ。
カシューのヘルメットカメラが捉えたのは、スタッズ付きの革ジャンを着た男たちの集団。バット、チェーン、安物の銃で武装している。彼らは「レッド・スカル(赤髑髏)」――この辺りを縄張りとし、黒兎を目の敵にしているギャングだ。
『カシュー……随分と派手にやってくれたな。俺たちのシマで盗みとはいい度胸だ』顔中タトゥーだらけのリーダーがニヤリと笑った。『荷物を置いて、俺たちの股の下をくぐって帰るなら、命だけは助けてやるよ』
『クソッ! 赤髑髏だ!』カイラスが刀を抜いた。『カシュー兄、やるか!?』
状況は最悪だ。こちらは4人、相手は15人近くいる。完全に包囲されている。
基地で、ナナの顔から血の気が引いた。「大変……数が多すぎる!」
ライトはゆっくりとコップを置いた。
マイクを口元に寄せ、寝そべった姿勢から、少しだけ前のめりになる。
眠たげだった瞳が、冷徹な戦術家のそれへと変わった。
「聞け、ガキども……」
ライトの声が全員の耳元で響いた。不思議なほど落ち着いた、氷のような声だった。「闇雲に突っ込むな……多勢に無勢には、やり方がある」
『おっさん! 奴ら来やがるぞ!』ビーンズが悲鳴を上げる。
「落ち着け……深呼吸しろ」ライトが命じた。「多人数相手に分散するな……カシュー! 全員に『三角形』を組ませろ! レンと荷物を真ん中だ!」
カシューは即座に反応した。
「総員! トライアングル・フォーメーション! レンを守れ!」
黒兎たちは背中合わせに陣形を組んだ。前衛カシュー、右翼カイラス、左翼ビーンズ。互いの死角を消す布陣だ。
「いいぞ……」ライトは画面を見つめ、まるでRTSゲームをプレイするように矢継ぎ早に指示を出した。
「ビーンズ……人は狙うな。左側の頭上にある『ネオン管』を撃て……今だ!」
**パン! パリーン!**
ビーンズが撃ち抜いたネオン管が破裂し、ガラスの雨が左側のギャングたちに降り注いだ。悲鳴を上げて隊列が崩れる。
「カイラス……大振りするな、閉所だ。『突き』に徹しろ! チェーンを持ってる奴の右肩だ!」
カイラスは指示通りに動いた。壁に当たるリスクのある斬撃ではなく、鋭い突きを放つ。**ズブッ!** 正確に肩を貫き、敵はチェーンを取り落とした。
「カシュー……前方の地面に3発、制圧射撃だ。コンクリート片を顔に浴びせてやれ!」
**ドォン! ドォン! ドォン!**
ショットガンが火を吹き、コンクリートが爆ぜた。煙幕のような粉塵が舞い上がり、赤髑髏の視界を奪い、咳き込ませる。
「レン! 今だ……その鉄の足で『スライディング』だ! 後ろで威張ってるリーダーの足を刈り取れ!」
レンは小柄な体格と俊敏さを活かし、味方の股下をくぐり抜けて滑り込んだ。
濡れた路面を滑走し、遠心力を乗せた鉄の足が回転する。**バキッ!** リーダーの膝裏に直撃し、男は顔面から泥に突っ込んだ。
『ぎゃああああ!! 俺の足が!!』
「仕事は終わりだ……ビーンズ、スモークを焚いて撤退しろ!」ライトが締めた。
**プシュゥゥゥゥ――!!**
白い煙が路地を埋め尽くす。
黒兎チームは混乱に乗じて荷物を担ぎ、無事に包囲網を突破した。
後には、うめき声を上げるギャングたちが残されただけだった。
---
基地に、荒い息遣いと笑い声が無線から届いた。
『ヒャッハー!!! 最高だぜ!!』ビーンズが叫んだ。『見たか今の! アクション映画みたいだったぞ!』
『なんだあの指示は……まるで空から見てるみたいだ』カイラスも息を切らしながら言った。『だが……認めるよ。完璧だった』
ライトはヘッドセットを外し、テーブルに放り投げた。元のソファにもたれかかる。
「やれやれ……うるさいガキどもだ」
ナナは、これまで以上にキラキラした目でライトを見ていた。
「どうして分かったんですか? ネオン管のこととか、突きのタイミングとか……そこにいなかったのに!」
ライトはナナを見て、肩をすくめた。
「まあな……昔の映画をたくさん観たんだよ。90年代のギャング映画とかな」ライトは平然と嘘をついた。「映画じゃよくある手だろ? 適当に言ったら上手くいっただけさ」
「映画ですか?」ナナは疑わしげに目を細めた。「地面を撃って煙幕を作るなんて、どこの映画ですか?」
「えーと……『ターミネーター』だったか? それとも『ランボー』かな」ライトは話を打ち切った。「いいじゃないか、無事だったんだから。俺は二度寝するぞ。帰ってきたら起こしてくれ」
彼はフードを目深に被り、面倒事から逃げるように目を閉じた。
ナナは口元を緩めた。彼の行動は、今や彼が誰よりも信頼できる男であることを証明していた。
『画面越しの軍師様、か……カッコよすぎでしょ』
**ガゴン……プシューッ!**
鉄扉が閉まり、4人の若者が歓声を上げて雪崩れ込んできた。ビーンズが重いリュックをテーブルに放り投げる。**ガシャッ!** その音は彼らにとって勝利のファンファーレだった。
「大漁だぜオラァァァ!!」ビーンズが両手を突き上げた。「軍用バッテリー12個! 工具セット付きだ! これで3ヶ月は遊んで暮らせる!」
「静かにしろバカ、近所迷惑だろ」カシューがたしなめたが、その顔には久しぶりの満面の笑みが浮かんでいた。
カイラスはマスクを外し、汗を拭った。「あのネオン管作戦のおかげだな……あれがなきゃ、俺たちミンチになってた」
レンが跳ねるようにライトの元へ駆け寄った。「おじさん! いや……ライトさん! あの作戦凄かったです! 修理してくれた足も全然ブレなくて、スライディング一発で決まりました!」
ライトはスキットルを傾け、何もなかったような顔で言った。
「お前らが運が良かっただけだ……相手が間抜けすぎたな」
「いいえ」
ナナが、缶詰と安い合成ビールの載ったトレイを持ってやってきた。
「『軍師』様の指示がなきゃ、五体満足で帰ってこれなかったわ……今夜はお祝いよ!」
**プシュ! プシュ!** 缶ビールが開けられ、白い泡が溢れ出す。
カシューが一本手に取り、ライトの前に歩み寄った。そして、敬意を込めて差し出した。
「ライト……」カシューの声は真剣だった。「俺たちで話し合ったんだ……今日から、あんたはただの通りすがりじゃない。他人でもない」
カシューは全員の顔を見た。全員が力強く頷いた。
「あんたを『黒兎』の正式メンバーとして……そして俺たちの『頭脳』として迎えたい」カシューは手を差し出した。「俺たちを導いてくれ……俺たちには腕があるが、あんたみたいな経験豊富な人間が欠けてるんだ」
部屋が静まり返った。全員の期待に満ちた視線がライトに注がれる。
ライトはカシューの手を見た……労働で荒れ、傷だらけの手。
過去の記憶が重なる……かつて、反乱軍を結成した日に手を差し伸べてきたジャックの姿。
『仲間を持つこと……それは、痛みの始まりだ』
ライトはその手を握らなかった。
代わりに、カシューの手から缶ビールを受け取った。
「ビールはありがたく頂くよ……」ライトは静かに言った。「だが、誘いは断る」
「どうしてですか!?」レンが叫んだ。「あんなに息が合ってたじゃないですか!」
「聞け、ガキども……」ライトは立ち上がり、汚れた排水溝が見える窓辺へと歩いた。
「今日のことはただの『まぐれ』だ……映画の知識を適当に使っただけだ。敵が弱かったから上手くいった」
彼は振り返り、鋭さを隠した瞳で全員を見た。
「俺はただの28歳のアル中だ……戦う情熱なんて燃え尽き果てた。お前らと一緒に鬼ごっこする体力はない」
「でも……」ナナが言いかけた。
「だが……」ライトは人差し指を立てて遮った。「もし相談があるなら……あるいは、寝床とタダ酒と引き換えに、見張り番くらいならやってやってもいい」
彼はビール缶を掲げた。
「俺はメンバーにはならない。カッコいい名前も、リーダーの座もいらない……俺はただの『裏方』だ。ここからお前らを見守る影でいい。失敗したら罵倒してやるが、生きて帰ってきたら……こうやって祝杯を上げてやる」
「それなら……フェアだろ?」
カシューはライトの瞳の奥を覗き込んだ。
そこには、自分たちには理解できないほど高く、厚い壁があるのを感じた。過去の傷跡で作られた壁が。
「フェアだ……」カシューは笑った。「交渉成立だ……『影の司令官』殿」
「へい! 湿っぽい話はナシだ!」ビーンズが空気を変えるように叫んだ。「メンバーじゃない新メンバーに乾杯! ライトの兄貴に!」
「乾杯!」
缶がぶつかり合う音が響き、基地に活気が戻った。
ライトは薄いビールを喉に流し込みながら、笑い合う子供たちを見ていた。口元に浮かんだ笑みは寂しげだが、どこか温かい。
『離れていればいい……俺が去る日、あるいは俺に災厄が降りかかる日……お前たちが傷つかないように』
彼は再びソファに深く座り込んだ。
無害な「居眠りおじさん」の仮面を被って。
だが、その胸ポケットの中で、彼の手はある物を強く握りしめていた。
混乱の最中、カイラスのバッグからこっそり抜き取った「ブラックボックス(プロジェクトS.E.E.D.)」を。
真の秘密は……まだ彼と共にあった。
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