第96話 捕らわれの姫と地下遺跡
屋敷の書斎に戻ってから、俺は静かにその名を呼んだ。
「アシュラフ」
俺の真後ろ――部屋の影が揺らめき、まるで闇そのものが人の形を取ったかのように、不気味な魔人が現れた。
見た目は、執事服を完璧に着こなした隙のない美青年。
だが、その身から染み出す魔人の魔力のせいか、自然体でありながら、不気味な威圧感を放っている。こいつは役に立つ奴だが、同じ空間にはいたくない。
「――で、リリアーナ姫の方は、どうだ?」
「はい、姫君はご無事です。形式上、捕らわれているといえますが、手足の拘束もされておらず、部屋の中を自由に動き回れる状態です」
その温度のない声は、淡々と事実だけを告げる。
そうか。
では、そろそろ様子を見に向かうとするか。
さらに詳しい状況を聞いてから、俺は今回の誘拐事件に対する対応を決める。
そしてアシュラフに、例の寂れた教会へと先行させた。
露払いをさせておくためだ。
アシュラフが闇に消えてから、俺は必要となるであろう魔道具を用意し、空の馬車を手配した。馬車は、アシュラフが向かった教会へと、あらかじめ向かわせる。
姫を救出した後の、帰りの足だ。
「準備は、こんなもので良いだろう」
それから、俺はアシュラフの放つ魔力の気配を頼りに、転移魔法を発動させた。
***
念のため、アシュラフからコピーした気配を消す魔法を使い、その存在を誰にも悟られないようにしてから、俺は教会の庭に転移した。
夕焼けが、空を血のような赤色に染めている。
錆びついた鉄柵、踏み荒らされた雑草、そして傾いた墓石。
この教会が寂れているのは、信者がいなくなったからではない。もっと立地の良い場所に新築の教会が建てられ、移転したからだ。
そして、この放棄された教会の現在の管理は、末端の犯罪組織の者がしているらしい。教会の新築と移転――その計画段階から、ここを隠れ家にするために、何らかの犯罪組織が関わっていたのかもしれないな。
血色の空の下、教会の庭には二つの影と、強面の男たちが伸びていた。
いや、転がっていた。
先行したアシュラフに命じて、ここの見張りはすでに行動不能にさせてある。
「お待ちしておりました、ゼノス様」
教会の入り口、その深い影の中から、アシュラフが姿を現した。
魔人は、恭しく頭を下げてから、軋む音を立てて、重い扉を開いた。
教会の中は、カビと埃の匂いが充満していた。ステンドグラスは割れ、床には瓦礫が散乱している。ここにも、四名の男が気を失って横たわっていた。いずれも、アシュラフが、静かに気絶させたのだろう。
俺は、静まり返った教会の中に入り、祭壇の裏に隠された、地下へと続く隠し扉を開いた。
この教会の、隠された構造は、すべてアシュラフから聞いている。
迷わずに、その、闇が口を開ける中へと、入っていく。
俺は、闇魔法の『暗視』を使い、真っ暗な通路を慎重に進む。
湿った冷気が、肌を撫でた。
通路には、ところどころ、照明用の燭台が壁に設置されていたが、今は火が灯されていない。視界は確保できているので、それを使う気もない。
下へと続く、螺旋状の階段を、ひたすら降りていく。
階段を下りて、通路を少し進むと、また階段がある。
それを何度か繰り返すと、不意に視界が開けた。
***
――ここには、来たことがある。
見覚えのある景色だ。
かつて、非合法の闇オークション【影の響宴】が行われた、古代の地下遺跡。巨大な鍾乳洞を思わせる広大な地下空間。
その天井からは、強力な光を発する無数の魔導ランプが吊り下げられ、その三分の一ほどが、今も淡く光を放っている。
オークションが開催されていた頃の、あの狂乱の熱気と華やかな装飾は、今はもうない。だが、人が暮らすには、何の問題もない環境だろう。
この、広大な地下空間の一角。
あの強欲な商人にして、裏社会の情報王、イグナツィオ・ヴァラキアが、個人的に所有しているスペースに、リリアーナ姫は監禁されている。
イグナツィオは、俺にリーラ(ザハラの第二王女のレイラ・ヌーラ・ザハラ)を40万金貨で売ってくれと商談を持ち掛けてきた人物だ。俺が申し出を断ると、暗殺者を差し向けてきた。
そいつが、リリアーナ姫を攫っていたというわけだ。
「アシュラフ、案内しろ」
「かしこまりました」
ある程度の道順は、あらかじめ聞いていた。
だが、ここから先は、広大な地下空間。言葉で説明されてもわかりにくいし、覚えるのが面倒だ。
俺は、音もなく滑るように進むアシュラフの背中を追った。
天然の洞窟を利用して作られたと思われる、居住用のスペースに入る。
その入り口と内部の通路の要所要所には、見張りが立っていたが――俺とアシュラフは、気配を完全に遮断する魔法を使っている。
まばらに配置された警備員たちに気づかれることなく接近し、抵抗する間も与えず、静かに眠らせていった。
警備員は要所要所に配置されているが、見回りはないようで、騒ぎが起こることもなかった。
いくつかの扉を開けて、さらに奥へと進んだ、その先――
ひときわ頑丈そうな扉の向こうから、人の声が聞こえてきた。
「この、愚図ッ!! 役立たずッ!!」
怒りにまかせた怒鳴り声が、薄暗い通路に鳴り響く。
それと同時に、「ビシッ!」という、人の身体に鞭を打つような音も……。
扉の隙間から、不穏な空気が漏れ出している。
聞いていた状況とは、かなり異なるようだが――アシュラフはその部屋の扉の横で停止し、俺に頭を下げている。
ここが目的地。
部屋の中の様子は、聞いていたよりも酷い状況のようだが、欲しい映像は、手に入るだろう。
俺は静かに、懐から用意しておいた魔道具を取り出した。
そして、アシュラフに命じる。
「扉を開けろ。気づかれないようにな」
この魔人は、気配を完全に遮断できる。
音も光も隠蔽しながら、扉はゆっくりと開かれた。
中にいる者は、俺の侵入に気づくことなく――
戯れを続けている。




