第94話 攫われた天使と悪趣味な期待
俺の所有する劇場、その二階にある特別なVIPルーム。
朝の柔らかな光が、厚いカーテンの隙間から差し込む部屋で、俺は、ゆっくりと目を覚ます。部屋に満ちる微かな香水の匂いと、甘い空気。
広々としたベッドには、俺と、そして、昨夜を共に過ごしたセシリアとリゼルの二人が、まだ幸せそうな寝息を立てていた。
一緒のベッドで寝ていたはずの、俺の専属メイド・リーリアは、すでに起きていて、完璧に着替えを済ませていたらしい。
「おはようございます、ご主人様」
彼女の、その慈愛に満ちた微笑みが、朝日よりもまぶしい。
(……くそ。もう少しだけ早起きすれば、彼女の着替えシーンをこの目に拝むことができたというのに)
俺は若干がっかりしながら、リーリアに手伝われるがまま、身支度を始めた。
俺が着替えていると、セシリアとリゼルもどうやら目を覚ましたようだ。
そこに、もう一人の専属メイド・ミナが、こんこん、と部屋のドアをノックして入ってくる。
「お早うございます、ご主人様!」
セシリアとリゼルの朝の身支度を、リーリアとミナが手際よく、順番に手伝っていく。
俺はさりげなく、その様子を窺った。
リーリアの“お局化”を密かに危惧していたが、セシリアやリゼルに対しては、いつも通りだ。
彼女は二人のことを恭しく、それでいて親しみを込めて接している。
俺の心配は、杞憂だったか。
「ご主人様、昨日は、大変珍しいお料理をごちそうしていただきまして、誠にありがとうございました。ミナや私にまで振る舞っていただいて」
「はい! ご主人様、とっても、とってもおいしかったです!」
ミナとリーリアが、俺に感謝の言葉を伝えてくれた。
彼女たちが以前この劇場に泊まった時に食べていたのは、あくまで従業員用の質素なまかない料理だった。
客に出すレベルの、本格的なザハラ料理は、昨日が初めてだった。
楽しんでくれたようで、何よりだ。
昨夜は、色々とあった。
だが、地上で起こっていたあの物々しい騒ぎは、地下で食事をしていた彼女たちには、特に影響はなかったらしい。
地下の捜索は、エレノアとセレナのたった二人だけで行われていた。
攫われたというリリアーナや、砂漠の王女姉妹が、大勢いる従業員の中にこっそり紛れていたり、
あるいは、どこかの部屋に幽閉されていないか――
そういった可能性を、ただ目視で確認して探していただけなのだ。
だから、彼女たちにとっては、それほどの大ごとが発生していたとは、思っていなかったようだった。
「それにしましても、リリアーナさまが誘拐されてしまうなんて。本当に、大変なことになりましたわね」
「ええ。一日も早く、無事に救出されると、よいのですけれど……」
身支度を終えたセシリアとリゼルが、心配そうに話している。
そこで、部屋のドアが再びノックされた。
「入れ」
俺が短くそう命じると、部屋のドアが静かに開かれる。
ドアを開けたのは、この劇場の従業員の一人。
そして、その後ろに、鷹の獣人ホークスが眠そうな顔で控えていた。
「ああ、ホークスか。これからの公演スケジュールの調整の話だな。悪いが、そっちで話を聞こう。昨夜、少しばかり騒ぎがあったが、公演のスケジュールに変更はない」
俺は、仕事の話であるかのように、わざとそう見せかけてから部屋を出た。
彼女たちを、物騒な話から遠ざけておきたい。
セシリアとリゼルには、そのままこのVIPルームで、優雅に朝食をとってもらうことにする。
俺は別室で、ホークスから昨夜の報告を聞くことにした。
***
ホークスには、昨夜、この劇場の上空の警備と監視を任せていた。
俺との会談のため、ここを目指していたリリアーナ姫の誘拐事件を、彼は上空から目撃していた可能性が非常に高い。
そして、この朝の時間まで、彼が持ち場を離れて戻ってこなかったということを考えると――その報告は、俺一人だけで聞いた方がいいだろう。
一体どんな話が、その口から飛び出すか分からないのだから。
俺は地下にある、防音対策も万全な貴賓室へと移動し、改めてホークスからの報告を聞いた。
「例の姫様の乗った馬車が、路地裏で襲撃されたのを、上空から見てたんでね。旦那の言いつけ通り、そのまま犯人たちを追ってたんだ。犯人どもは、入り組んだ細い路地を巧みに使って、まずは北へ。とある寂れた建物に入ってから、しばらくそこにいたんだが――今度は、全く別の出口から出て、西へ向かった」
ほう。
犯行現場を見て、犯人の行方を追えたとは運がいい。
俺は王子たちより先んじて、情報を得ることができる。
「追手が来るかどうか、念入りに確かめていたんだろうな。同じことを何度か繰り返してから、最終的には王都のはずれにある、古くてさびれた教会に入って――そこからは、今朝まで、まったく動きなしだ。それで、朝になって、こうして旦那に報告するために戻ってきた。……なあ、旦那。もう、寝てもいいか?」
ホークスは大きなあくびをしながら、その眠そうな目でそう言った。
「ああ。ご苦労だった。今日は、一日、休みを取って構わない。大手柄だ」
犯人たちも、まさか、自分たちの行動が、遥か上空から一羽の鷹によって、ずっと見張られていたとは夢にも思わなかっただろう。
犯人たちのアジトは、完全に突き止めた。
「……ふむ。ちょっと、様子を見に行ってみるか」
俺は、捕らわれの姫君の、そのお顔を拝みに行くことにした。
リリアーナ姫の護衛騎士セレナにこの情報を渡し、彼女に誘拐犯から姫を救出してもらうのが、一番スマートな解決方法だろう。
だが、その前に――
姫が本当にそこに捕らわれているかは、確認しておいた方がいい。
それに……。
この俺を爆殺しようとしてくれた、あの可愛らしい“天使”が――今頃、薄汚い教会の中で泣きべそをかいていたり、あるいは恐怖のあまり、お漏らしでもしているかもしれない。
もしそうなら、宿敵の無様な姿を、この目で拝めるだろう。
そんな、少しばかり意地の悪い考えが、俺の頭をよぎった。
口元が自然と歪んでいくのが、自分でも分かった。




